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超常捜査官:岐庚 〜アサルト・オン・ヤオヨロズ外典〜  作者: 執筆・八雲 辰毘古/監修・金精亭交吉
File3:信じるものは掬われる
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51.蝕まれた月

 猫依沙月は苦戦していた。瞬間移動と見紛うほどの亜空間跳躍をなんら溜めなしに行う月兎を前に、緊急回避を連続するしか手がないというのも、我ながら呆れるばかりだ。

 しかも、それが二体──極めて超人的なアクロバットを立て続けにこなさなければこのようなことはままならない。いまだ五体満足であるということを、猫依は我ながら意外に思っていた。


「こりゃ、やべえな。やべえよ」


 傍らの犬鬼が浮遊しながら警戒心をあらわにする。いまのいままで攻撃を躱してこれたのは、この式神の感覚の強さも助けになってきたからだった。

 月兎二体の攻撃を避けながら、彼はひとつのことに注力し続けていた。それは、望月サヤカと岐庚から月兎を引き離し続けること。万が一戦いに水を差してはなんだというのもあったが、明らかにこの異形の存在が近接距離にいれば勝てる勝負も勝てなくなる。


 少なくとも、戦ってみてわかったこともある。まず月兎は半径五メートル程度の直線距離の範囲内しか跳躍できないこと。次に滞空中は六分の一重力を再現しているため着地までに時間がかかること。

 そしてその攻撃手段が、いまのところ亜空間にでもつながりそうな不気味な蝦蟇(がま)口だけであること。


 蝦蟇口、と呼んだのはそれがまさに古い財布の開け口によく似ているからだ。


 しかしその中には小銭どころか虚無が拡がっている。猫依は過去、『兎狩り(ラビットハント)』のクエストに何度も駆り出され、その口が多くの人間を食い殺したことをよく知っている。

 あのクエストは、ハンターの指示出しと配置の仕方、情報分析と判断力を鍛えるためのいわば訓練プログラムである。猫依自身コマのひとつとしてさんざんこき使われながらもその脅威の真の正体を探り続けてきた。


 どうも、おかしなことがある。


 月兎は間違いなくこの世界の──つまり地球上の生態系が辿ってきた進化の歴史に全く無関係な特徴を備えている。

 数々の妖怪・怪獣のすがたが何をどれだけ非常識を物語っても、その形態と言い、由来と言い必ずヒトの歴史、生命の歴史に関連付いてきたものであったはずなのだ。


 にもかかわらず、この月兎はその異形なことと言い、生態の不明瞭さと言い、明らかにこれまでの怪獣の類と別種に思えた。


「あー、こりゃ、なんだ……、なにか、なんかがへんなんだよな」


 猫依は記憶を遡る。


 望月サヤカがもし結社の秘密プログラムのひとつの達成だとするならば、その大元となった計画がどのようにしてできたのかを振り返って考えなければならない。


 かつて〈月卿(まえつきみ)〉がさまざまに手を尽くして人材育成プログラムが施行された時──ちょうどこの国は経済的な危機に陥っていた。地価が急降下し、バブルが弾けたのだ。時を前後してオカルトとスピリチュアルが流行し、結社は次第に活動がしにくくなった頃でもあった。

 「奴らはわれらの教理をふざけた遊びだと思っておる」──〈月卿〉は苦々しくそうこぼしたと言われている。


 ちょうど九十年代に二つの危機があった。一つは地理的な危機であり、もう一つが宗教的な危機である。これに続く事件の数々が、世の混乱を個々人の〝心の闇〟という言葉に集約させる一方で「世界の終わり」という幻想をどことなく周知の事実にしてしまった。いつしかこの両極端な二つのモチーフは、一九九九年の〈約束された日〉に向かって図らずもコインの表と裏の関係にあったのだ。

 人材育成プログラムとは、新世紀を代表する人類を生み出すための荒療治でもあった。つまり〈約束された日〉に、「世界の終わり」を乗り越え、〝心の闇〟を救済する存在としての人物像の完成──


「……?」


 ここで、ふと猫依の脳裏に不安がよぎった。


「待てよ。なんであいつだけ〝成功〟したんだ?」


 人材育成プログラムの被験者は望月サヤカ一人だけではない。平田啓介の調査では百名以上の宗教関係者の子女のリストが出来上がっていたはずだ。

 その多くは〝死亡〟または〝不能〟とあった。〝復帰〟とラベルを打たれたものも、それは軽微な障害で済んだというレベルのもので決して能力者として開花したわけではないのだ。


「あいつだけが、なぜ……」


 独りごちたとたん、月兎の襲撃が背後から繰り出された。

 五メートルの跳躍。飛距離はまるで定規で測ったように正確だ。とっさに身を捻ってこれを避ける。ぱちん、と空気を喰らい込んだその頭に向かって、〝内なる獣〟の格闘術を叩き込む。上から旋回し、振り下ろす。


 しかし足に感触があったかと思う頃に、それはまた前に飛び去った。感触だけが空を切り、虚しく手応えを失った。


 けらけら笑う月兎たち。


「こいつら……」


 ところが猫依の追撃を出す前に、またしても月兎が瞬間移動し、おもむろに猫依の眼前に迫った。


「しまッ……!」

《ベツにキにしなくてイイよ。もうキミにウラミはないから》


 喋る。

 猫依は改めて耳を疑った。


「なんだと……?」


《シュクンがメザめた》

《メザめた》

《ボクらはもうあのオンナのイイなりであるヒツヨウは、ない》

《ナイナイ》

《だからイノチびろいしたとオモいなよ》

《そうだそうだ》


 ぐるりと背を向ける。猫依はこれを攻撃できたはずだが、しなかった。


《さて、ボクらのモクテキをハタさなきゃ》

《そうだそうだ》

《カしたモノを、カエしてもらわなきゃ》

《そうだよ、そうだよ》


「はぁ?」


《きみは、もうヨウズミ》

《じゃあね》

《じゃあね》

《ばいばい》


 また跳躍する。

 亜空間が、閉じた。あとに残されたのは、ひとりの男と二匹の犬神である。


「どういうことなんだ……? いや、まさかな」


 猫依の悪い予感は、果たして当たっていたのである。



     ※



 幻影──目まぐるしく動く。無数の青い蝶々が嵐のように周囲に舞う。まるで南国の渡りをするという蝶々の群れ。しかしここは四季織りなす亜熱帯の国であり、副都心のコンクリート・ジャングルであるはずだった。


 岐庚はもがいていた。まるで大海原で溺れる遭難者のように、現実の岸辺を求めて両手を広げる。

 しかしつかんだと思った箇所から逃げて去り、再び蝶々へと変化する。肉体的なダメージはないが、幻影の中から無数に飛び散る鱗粉が、次第に庚の正常な判断を奪いつつあった。


 もうダメかもしれない。そんなことを思いながら、ふらつく。


「諦めるな」


 懐かしい声が聞こえた。しばらく聴いてなかった声。かつて肌に触れて優しかった時の声──


「い、ひか」

「おれの知るきみは、そんなところで弱音を吐くような人ではなかった」


 蝶々の風が吹き荒れる中、声は冷たく見下すような響きに変わった。

 庚は首を振りたい気持ちになった。


「そんなこと、ない。わたしは、弱い」


 不安な世の中、ただ安定と使命感を求めて公安という威厳に自分を求めた。災害が絶え間なく起こり、人よりも少しだけ世の中に詳しい生まれと育ちをしただけで、なぜかその不安定な世情に後ろめたさすらあった。おまけに自分は力を持ち、裕福な家庭に生まれながらそれに反抗し、どこにも自分の場所を得ることができてなかった。

 ただ強がっていたのだ。自分は自分だと、そんな拙い繰り返し言葉(トートロジー)を使えば自分が強くなった気がする。どんな下品なアルコールよりもそれは自分を陶酔させる。しかしそれは二日酔いよりも激しい頭痛と罪悪感が襲いかかる悪酒だ。だってそれは自分を決して変えはしない。自分が自分であるなんて宣言したところで、世間の変化に自らを置いてけぼりにするだけだから。


 どんなに自分を元気づけたところで、どんなに自分を他人よりも優れたものと見做したところで、またどんなに他人と自分の地位(ステータス)を比べてみたところで、その空虚なものは埋まりはしない。


 自由に育て。好きなものを持って生きろ。この国の教育はそのような建前を持つ。しかし道理に外れたことは許さないし、社会に出れば好きなものよりもできることを優先させる。得意なことを伸ばして、役に立つことがなによりも重要視されていく。

 自由は約束に取って代わられ、いつしか約束を守ることが自由に生きるための大前提にすり替わっていく。本末転倒だ。


 結局のところ、この狂った社会において、わたしとはなんなんだろう。


 たとえどんなに才能(ちから)に恵まれていたとしても、必要とされていないならこの世に生まれた甲斐がない。

 仮に必要とされていたとしても、意味を感じることができないなら、ただの徒労だ。まるで雑巾みたいに生まれ持ってきたものを搾り取られ、人の役に立ったかもしれないが、そんなことの先に自分が朽ちて消えるのもまっぴらごめんなのである。


「わたしは、ほんとは弱いよ」


 絞り出すように、庚は言った。誰に向かって言ったのかもわからない。虚しくて、無意味な言葉──


「知ってる」


 しかし、その声は、図らずも届いていた。


「なら、どうして」

「それでも、きみはやる人間だ。昔からそうだった。今もそうだろう?」


 青い蝶々が乱れ飛ぶ。しかしその中からひとつの影が浮かび上がったかのようだった。


「……そうだといいな」

「きっとそうさ。三つ子の魂百まで、て言うからな」


 手を差し出す。庚は苦笑した。


「もう」


 腕を突き出す。それで、ようやく庚の周囲から青い蝶々が消え去っていた。

 我に返ると、そこには望月サヤカの鉄扇に右胸を貫かれた冬堂井氷鹿の姿がある。


「い、ひか?」

「ようやく目が覚めたか」


 井氷鹿がほっとしたように言う。と同時に口から血があふれ出し、またしても意識がこと切れてしまった。うつ伏せに倒れる。


「井氷鹿!」

「あーあ」


 望月サヤカが見下す。その目には本格的な蔑視と怒りがあった。


「つまらない。ほんとうに」


 唾棄するように、言った。

 庚がきっと顔を上げた。


「よくも!」

「やれるの、このわたしを!」


 望月サヤカが高らかに宣言した。それは脅しかけるようでありながら、庚には一種の強がりのようにも見えた。

 飛び出す。間合いを詰める。二、三拳と掌が交差すると、ふわっと身を浮かせた望月サヤカが膝蹴りで迎え撃つ。庚はバク転の要領でこれを避けると、着地。ついに身を強ばらせて、最後の力を出すべく印を結んだ。


 その印を見た途端、望月サヤカの顔色が変わった。すぐさま応対するように自身も印を結ぶ──

 ほんとうは使いたくなかった。しかしいざとなったら使えと岐甲太郎に念を押された。いま使わなければ、きっと任務を完了できないだろう。庚はそう判断したのだ。


「天孫演舞──十二日輪花伝書」


 宣言するなり、すべての毛が逆巻いた。彼女の、文字通りの全身全霊が溢れ出さんばかりに弁を解き放ち、皎々(きょうきょう)と照らす太陽のごとくその妖力を具現化したのである。


「月神転生──百八維摩煩悩経」


 対する望月サヤカも同等の力を解放し、敵愾心をあらわにする。もはやこれは神と神の対決にも等しい圧力──これを噴き出す。


 残像と残像が交差する。吹き荒れる掌と拳が掠めるたびに妖力が迸り、床を、壁を、建築物をえぐる。

 結界術を行使した空中浮遊も、この戦いでは手数を増やす以外の意味を持たない。両者は互いに組み打ち、破壊し、相剋した。


 呪符が飛んだ。

 折り鶴の紙吹雪だ。


「夢幻──千手観音万華鏡」


 幻術。呪符で折られた鶴たちが庚の周囲を取り囲み、またひとつの別時空を生み出す。そこは千手観音の座す御堂であり、この場を認識したとたんに無数の掌が圧迫するごとく庚の精神に攻撃を加えた。

 しかし庚はこれを妖力を解放するだけで押し返し、現実に帰還した。代わりにその拳には黒い炎をまとって、幻影の掌ひとつひとつにその火焔の火傷を負わせるに至った。


 悲鳴を上げたのは望月サヤカだった。自身の幻術の術返しである。黒炎は望月サヤカの妖力を逆にたどって彼女に強い影響を及ぼした。火だるまになるより前に彼女は幻術を解いた。

 しかし着ていた衣服の半分が煤けてしまう。


「よくも……」

「ずいぶんヒトが変わったな」

「なにを……これが〝わたし〟だ」

「? まあいい」


 身構える。望月サヤカの顔色は、しかし良くない。


「そろそろやめにした方が良くないか」

「なに……」

「もう勝負は決まってる。もう幻術の解き方はわかった。同じ手はもう通じない」

「…………」

「それでも、やるのか」

「……ええ」

「なぜ? あなたの求めた王道楽土はどこにあるの?」

「そん、そんなもの、……」


 頭痛がする。望月サヤカは自分の境界線が揺らぐのを実感した。


「うるさい! うるさい! うるさい!」


 望月サヤカはさらにまくし立てるように術を行使した。紙吹雪が逆巻く。二重のらせんがその周囲から上昇したかと思うとそれが巨大な白蛇となって牙を剥いた。紙の一枚一枚が鱗となって、赤黒い月明かりを受けて禍々しい輝きを放つ。

 しかし庚は両手の拳に黒い炎をまとわせてすかさず放った。飛び込む。白い大蛇は大きな口を開けてこれを呑み込んだ。


 一瞬、黒い炎は白い蛇の体内で見事に消化されたかと思われた。だがそれはつかの間だった。内臓から燃え尽くされるような勢いで白い蛇が燃え上がり、その苦しみに蛇自身がのたうち回った。

 その尾が叩いたところはビルが真っ二つになった。それほどの威力と硬さを物ともせず、岐庚は蛇の体を脱出して着地した。


 望月サヤカは悲鳴を上げていた。

 その全身は黒い炎に包まれていたのだ。


「なぜ、なぜ、なぜ……」


 うわごとがこぼれ落ちる。そのまなざしはかつての自信満々の在り方を忘れてしまうほどの別人だった。

 庚はなぜか哀れみを覚えた。このまま燃え尽きるまで術を行使することもできなくはない。しかし──彼女は黒い炎を消した。


 倒れる。望月サヤカが力尽きたかと思われた。

 駆け寄った。抱き起こす。眠っているように静かである。


「なんでこんなに……」


 独りごちたとたん、望月サヤカの目が開いた。その瞳孔は、岐庚を憎々しい輝きで捉えた。

 しまった。完全に油断した。とっさに間合いを取ろうとしても、すでに望月サヤカの右腕が全霊込めた幻術の一撃を食らわんばかりだった。


 ところが。

 その右腕は消えた。


 見ると、歪な姿をしたウサギとも見えなくもない異形がいた。肩口に鼻を擦り合わせるようにモゾモゾ動いているように見えたが、それはちがった。

 食っているのだ、かつての主人の腕を。


「な、なんで……」


 ん、とまるで訊かれたから答えるというような気さくな調子で、その異形──月兎は応じた。人間の言葉で。


《そろそろカエしてもらおうとオモってね》

「な、なにを」

《ワレラがシュクンのチカラをね》


 悲鳴が後から続いた。途方もなく強い力で庚は突き飛ばされた。みると、望月サヤカ──いや、()()()()()()()()()()()()()は逃走を試みている。それを遮るように月兎は行手に瞬間移動する。


 挟撃するように、月兎二匹が彼女の身体を束縛した。まるで彼ら自身がひとつの端末であるように、どこからともなくケーブル状の触手が伸びて、彼女の頭脳に差し込まれた。


《キミはそろそろジブンになるべきだ》

《ワレラがシュクンのチカラをいつまでカりている?》


「嫌……嫌……ッ!」


 その時、望月サヤカが豹変した。

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