10.今宵、月は何処にありや
男はふたり組だった。片方は身長一八〇を超えた巨漢で、腕毛を露出した筋肉質の腕に、袖を捲った紺色のクルーネックを着ている。髪はボサボサ、おまけにサングラスと来たものだった。残る服装を点検すると、灰色のジョガーパンツ、くるぶしを見せた白のスニーカーでかなり小回りの利きそうなルックスである。
得物は槍。鋒から陽炎のようなものが立っていることから、どうやらアクタムシを炎上させたのはこの武器であろうことが察せられた。庚は眉をしかめた。
それに比べるともう一方は、かなり素直な外見だ。黒髪ロン毛のヤンキー顔、狼の眷属とも思われる式神を両脇に連れて犬の散歩でもしているかのようなそぶり。にもかかわらず、隠そうともしない殺気めいた妖力が、ただならぬ術者であることを示す。
なるほど、彼らこそがあたらくしあが御用達の野良の妖怪ハンターというわけか。そう庚は合点する。
「んで、これはいったいどういうわけ?」
思わず喧嘩腰。庚がむくりと起き上がるしぐさは、先ほどの焦燥はかけらもない。
「ハァ? 礼もないわけかよ。嫌だねェ、ほんとにサ」
「おあいにく様、余計なお世話よ」
「んじゃ、この虫ケラ一匹退治するのにキャーキャー言ってたのは、別にどうってことのない茶番だったってわけかい?」
「…………」
「黙ってないで答えろや。てめえらチビチビこいてたら、街に被害が及ぶだろーがよ!」
ごう、ごう、ごう。背後で燃え盛るアクタムシが、がくりと膝をつく。
ふつう火が付いたとて虫である。必死になって動き回る死にものぐるいを見せるかと思いきや、すでに関節の節々が引きちぎれ、ネジの外れた鉄筋コンクリートががらんどうと音を立てて頽れるがごとき有り様にて、ガシャンと身を叩きつける。もとより鋼の如き身なりをしていても、位置エネルギーの破壊力たるやバカにならない。
ビルの隙間から身を叩きつけられた雛鳥を想像してみてほしい。翼に思わぬ傷を負い、いざ巣立つかと思ったその矢先にふわりと一瞬空を舞う幻想に身を任せつつ、旅立つ先を間違えた時のほどを。
まさにアクタムシの頭部はそうやって砕け散ったのだ。
あまりにあっけない死に様。心身ともに散らばる破片の見苦しさと言ったらあまりに激しく吐き気を通り越すほどだったが、それよりも眼前でこの曲芸を披露した槍使いと犬神使いの二人組の実力とは、恐るべきものと判断せざるを得ない。
「酷い……!」思わず、飛鳥。
「アァ?」
「たしかに怪獣がヒトにメーワクかけたかもだけど、そこまでやる必要なんて、どこにもなかったよ……!」
ハァ、とため息。
「とんだアマちゃんもPIROにいたもんだ」
ツカツカとラプ太のそばに歩み寄り、
「コイツはあんたの式神か?」
「だから何?」
「こういうのが一番危ないのさ。平気な顔して連れ回してるのは、アンタの力が強いからだ。それは認める。だが、しょせんは野生のケダモノだよ。いつ制御が効かなくなってヒトを殺すかわからねえ。しつけができてるってんだったら、こっちも何も言わねえけどよ」
あからさまな侮辱に、飛鳥としては怒りよりも悲しみの方が湧いて出た。
「どうして? どうしてそんなにザックリな決めつけができんの……?」
さらにまくしたてようとする飛鳥を、庚が左腕で制した。首を振る。
「喋ったってムダだよ。アイツら、要するにわたしたちと喧嘩がしたいんだ」
確信がある。この事件、確実に裏がある。
「PIROは本来怪異や害獣と戦うことが専門で、術者と直接戦うことが仕事じゃない。これ以上カマを掛けるのはよしてもらえるかしら?」
「へえ、じゃああんたが代わりにやってくれるってんだな?」
言い終わるや否や、庚の俊敏な動きが男の顎下を捉えていた。即座に間合いを詰め、拳を三発。颯颯颯と正中線を駆け上る。
しかし男はフラリと背後に倒れざま、つま先を高く上げて庚のみぞおちを蹴り上げようと試みた。あえて攻撃を受け流しつつ、攻めに転ずる姿勢──庚は舌打ちしながらわずかばかり身を捻って反応する。
すかさず、拳と靴が空を切り、男がバク宙を決めた形となる。
「やるな。さすがは天理の隠し巫覡の血筋──」
「そういうアンタは、高知の憑き物筋かしら?」
売り言葉に、買い言葉。男は素性がバレたと察して、思わずカッと脳に血が上った。剣呑な面持ちで口角を上げると、けたたましいほどの哄笑を響かせた。
「なるほど、なるほど! だったら話が早えや! うちの御大将があんた方に手を退けッて言ッてんだわさ。正義とやらはこちらで執行しといてやるから、ゆくゆくはPIROにも警察にも手ェ出して欲しくないのよ? わかる?」
「承服しかねるわね」
「サァ、その強がりがいつまで続くかね」
男はパチンと指を鳴らした。途端に背後に控えていたはずの狼たちが煙のようにふわりと輪郭を歪め、アッと思った時には男の両脇に身構えている。
その数二匹。野生の眼差しを湛えながら、ただ一本のピアノ線で繋がれたかのような見えない緊張感が互いを結びつけている。
「賭けをしよう。いまからおれとそこのシノブが全力でてめーらを叩きのめす。零時まで──あと三十分ぐらいか。それまで耐えれらればそっちの勝ち。じゃなかったら、怪獣狩りはおれらの仕事としてもらってく」
「あほくさ。やるわけないじゃない」
一瞬、何かが掛け違ったみたいな沈黙が横たわった。
「そもそも公務員は賭博禁止なのよ、わかる?」
「…………」
「飛鳥ちゃん、帰ろ。こんなバカと付き合ってる必要ないから」
「オイ待てやゴルァ!!」
狼たちが同時にワンワン鳴くが、こうなるとかえって可愛らしく見えてしまう。庚が振り返って気だるげな表情を浮かべる。
「人間同士で争う理由がないじゃない。それをいちいちつまんない話でっちあげられてもねえ……」
苛立つ男、しかしもう一人の大男は面白そうに笑いを堪えていた。
ただひとり、飛鳥だけがこの空気感についていけない。ちんぷんかんぷんである。
「あれ? えーっと、そのお、庚さん?」
「気にしなくていいのよ。酔っ払いに絡まれたとでも思っておきなさい」
「聞こえてンだよ! このアマァ!」
もはやこの流れにおいて、男の弁論はしゃべればしゃべるほど滑稽になる。ついに大男が爆笑した。それにつられて飛鳥もひきつった笑いを浮かべた。
「そんなに〝御大将〟様が怖いんだったら、今度直々にお出迎え願ったほうがいいわよ。そしたらもう少し真面目に考えるわ」
庚が勝ち誇ったようにそう言って、背を向けようとしたそのときである。
「──その話、ほんとう?」
まるで耳に囁かれたように聞こえたその声は、この場の誰のものでもない。
全身がこわばり、冷や汗があふれ出た。素早く声の方向を見ると、信号機に腰掛けたひとりの影。月明かりがけざやかに照らし出すのは、おとこともおんなともつかない中性的な顔立ちで、紅を差した口元が好奇心豊かに微笑んでいる。
いつのまにそこにいたのだろうか。その存在感は地球の重力が急に増したかのような重圧を周囲に及ぼしていた。一挙手一投足が弱々しく、立つことすら腹の底に力を溜めないと叶わない。
にもかかわらず、なおのこと恐ろしいのは、それほどまでの力がつい先ほどまで隠れていたという事実。この圧倒的な妖気は出し入れ可能なものであって、しかもとことん周囲に気を張り巡らせても察知できないほどにまで仕舞えるとなれば、果たしてどれほどの使い手なのか想像もつかない。
びっしゃりと汗ばんだ顔で、庚はその人物を凝視した。しかしかのものはどこ吹く風で、友達にでも話しかける様子である。
「ああ、そう言えば名前はまだだったね。ボクはユエだ。〈月〉と書く。もうわかってると思うけど、〝君たちの敵〟だね」
ぶらんぶらんと、脚を弄びながら楽しげに語る。
「そして、そこの人たちは、まあなんて言ったらいいのか、雇われみたいなものかな。うちの人間が無礼を働いたみたいでたいへん申し訳ない──」
冷静で、友好的で、礼儀正しい。なのになぜこうも有無を言わさぬ冷徹な響きすら聞こえてしまうのだろう。
庚はとっさに口を開けなかった。
「でも、まあ、彼が言ったことはね、ホントのことなんだよね。やっぱりNPO法人に妖怪・怪獣退治は荷が重くなっちゃったっていうか、さあ。そろそろ手を出されると困るんだよ」
スッと、着地する。同時に後頭部で結えられた髪がふわりと落ちた。その面持ちは女が見ても目をひそめ、男が見れば釘付けにされかねない妖しい魅力に富んでいた。
いよいよ歩み寄るにいたって、その本性が判然としない。さながら鏡に死の面影を見たような感覚が、ピリピリと漂った。
「どうだろう? 取引というのは?」
「…………」
「ただでさえ人死の多い現場だ。われわれの側から何か手伝えることさえあれば、その最も危険な業務をこちらで代行することも可能ですよ。そうすればPIROも公安もより集中して重要な業務に取り組める。さいわいこちらでは人手が余っています……」
庚は震える身体を抑えつつ、答えた。
「断る」
とたんに、プツッと何かが切れて、庚の身体が軽くなった。同時に周囲の人間たちも身じろぎし始める。
「あーあ。せっかくの言霊が事切れてしまったね。じゃあ、腕づくで──」
ブワッと一迅の風が駆け抜けたかと思うと、庚は目の端に残像を捉える。素早く裏拳をかますが、間に合わない。出し抜けに背中を蹴り飛ばされたかと思うと、前のめりに勢いよくつんのめり、すかさず掛けられた追い打ちをしたたかに喰らった。
アスファルトが顔面に噛み付く前に、両腕を突き出して受身を取る。倒立前転宙返りの動きをこなすと、半身に反って体勢を整える。ところが月の行動はさらに一枚上手で、着地寸前の最も避けにくい瞬間に間合いを寄せて掌打を放った。
みぞおちに一撃。妖力を凝縮しても思わず怯むほどの激痛が、庚の動きを鈍くした。
ドサッと道路に転がる。起き上がるそぶりがないと見るや、月はチラと飛鳥を見やった。ビクッと身構える飛鳥だったが、
「ムダだよ。お嬢ちゃん。きみはボクらと訓練の仕方が違う」
月はフラリと身を揺らがせたかと思うと、さらに勢い込んで距離を縮める。
ところが、この術は飛鳥もよく見て知っているものだった。縮地の術とも呼ばれるこの技は、地勢を弁え重心移動を巧みにこなすことによって相手の不意を突き、さながら瞬間移動をこなしたかのごとく間合いを詰める。一説に拠れば視覚が互いに補填し合うわずかな間隙をすり抜けることで、認知の速度をわずかコンマ数秒遅らせてしまうゆえに起こるらしい。
しかし敵の攻撃がくるとわかっていた飛鳥、動きがわずか瞬き一つ分速く開始されていた。
月が的確に一撃を加えるかと思われた地点は空を切り、飛鳥は庚に駆け寄っていた。
「ほう」
まさか同等の縮地術を用いるとは思っても見なかった月である。動揺せずとも感心はする。しかしそれもつかの間、二撃目はこれを計算すれば容易いと踏んだ。
「じゃあ、この際二人まとめて片付けてしまおう」
ゆらり、とまた姿勢が揺らぐ。その次の瞬間を予測して、飛鳥はついにギュッと目を瞑った。
ところが、その予測は外れた。
パキッと何かが割れたような音がしたかと思うと、飛鳥の周囲に冷気が及んだ。まだ夏の始まった頃である。急にクーラーが付いたのかと錯覚して目を開けると、眼前に氷の壁が出来上がっているではないか。
「貴様……ッ!」
「……いったん手を引いてもらおう。このまま凍傷になりたいなら話は別だが」
見れば、真夏にふさわしくないロングコートに、常に涼しげなまでの長身の男が立っている。その右腕は凍りついて白くなっており、氷の壁に張り付いている。
その時、庚が怪訝な顔をして、ひと言呟いた。
「……井氷鹿?」




