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(6)嘘から生まれた命

 

「お前はバカかっ!? 何が幸せだ。妻子持ちと一緒になって、幸せになんか……」

「だって、知らなかったんだものっ!」


 茜が採用されたのは店舗ではなく、デパートの一角。スペースを借りて、ショーケースを置き販売するための売り子だった。従業員はパートだけで三人。茜が初めて英介の姿に目を留めたとき、隣の洋菓子屋の店員が教えてくれた。

『あの人でしょう? “大原”の社長の息子って』

 デパートの関係者も、パートのふたりも、英介のことを支店長と呼び、『大原の後継ぎ』と茜に教えた。

 英介はどこか頼りなく、茜は彼を支えてあげたいと思い始め……とうとう、誘いに応じてしまったのだ。

 ふたりはそのまま、しばらく交際を続ける。このとき、茜は二十五歳、英介は三十四歳。結婚の話が出てもよいくらいなのに、英介は母親に頭が上がらないらしく、家にも呼んでくれない。その代わり、と……週の半分はひとり暮らしの茜のアパートに泊まって行った。

 そして茜は最初の子供を妊娠する。



「喜んでくれたの。必ず母に話すって……。でも、その後、全然会えなくなって……」



 不安を抱え、それでも茜は英介を信じ待ち続けた。

 そして妊娠五ヶ月を過ぎた頃、ひとりの女性が店頭に現れたのだ。その後ろに、青い顔をして英介が立っていた。女性はとても英介の母親とは思えない年齢。彼女は大原雅美――英介の妻だった。


 

「浮気のことを聞いた。お金をやるから別れろって。でも……私のお腹を見るなり興奮して、飛び掛ってきて殴られたの。そのとき、倒れて……」



 子供はその日のうちに流産。女の子だった。

 茜の不幸はそれだけに止まらず、さらに修羅場が待ち構えていて……。

 彼女が倒れたとき救急車が呼ばれ、店内は大騒ぎとなる。結局、警察が介入し、傷害事件にまで発展した。雅美は裁判所から罰金を命じられる。それに逆上し、今度は茜に慰謝料請求の訴えを起こしたのだ。そうなると、茜も弁護士を頼まざるを得なくなり……。

 英介は明確に茜を騙したわけではなかった。もともと結婚指輪をはめないタイプで、結婚に関して口にしなかっただけだ。茜の誤解に気づいたときは体の関係ができた後で、どうしても言えなかった、と証言した。

 周囲の人間にも悪気はなく。ただ誰もが『茜も知ってて付き合っているのだろう』と思っていただけ……。

 そして茜には、そこまでのことに一切の罪は認められなかった。

 そこまでは――。


 茜は“大原”を辞めた。

 そして事件から半年後、英介は茜を探し出し、訪ねて来た。

『君にちゃんと謝りたかった』

 彼はそう口にして、茜の前で土下座して泣き始め……。



「それで……また関係したのか?」

「……」

「今度は女房持ちだとわかってたんだよな? それともヤツは、お前に『離婚した』とでも嘘を言ったのか?」

 

 離婚した、とは言わなかった。

 英介が口にしたのは『妻と別れたい』と。


 茜がそう言うと、太一郎は怒りも露わに立ち上がった。だが、小太郎が寝ていることに気づき、黙ってソファに座り直す。

 太一郎の握り締めた拳が目に入り、彼の怒りの度合いがわかって茜は身震いした。


「私と幸せになりたいって。大学時代に……罠にはめられて、年上の彼女と結婚して、ずっと逃げられずにいた。でも、奥さんのせいで私が流産して……責任を取って幸せにしたいって」

「責任を取るなんて、そんなに簡単なことじゃない」

「わかってる……だから、あの人も悩んで」

「そうじゃない! その男は、お前を抱いた時点で、女房子供に対する責任を投げ出してるんだ」

 茜は息が詰まるくらい苦しかった。

 バカな男に騙されたことは火を見るより明らかだ。それを太一郎に告白するのは死ぬほど辛い。しかも、太一郎の言葉がもっともなだけに、まともに言い返すこともできない。

「そいつに少しでも誠意があるなら、二度とお前に前に姿を見せなかったはずだ。忘れられないほど惚れてるなら、離婚してから来たんじゃないのか? そうしなかったってことは……」

「そうよ……あなたの言うとおりよ。私ほど騙しやすいバカな女はそうそういないから、セックスしたくてやって来ただけだったのよ。あの人はっ」

「茜……」

 太一郎の言葉を遮り、茜は叫んだ。

「中学生でもわかるような嘘に騙されて、あの人には私がいなくちゃ……なんて思って、嬉々として抱かれたのよっ! 悪い?」

 思わず立ち上がった茜だったが、太一郎に手首をつかまれ、下に引っ張られた。

「座れよ」

「……」

「悪いか悪くないかなんて、俺に聞くな。いや、聞かなくても、自分で答えは出してるんだろ」

 その言葉に、茜はストンと腰を落とした。

「太一郎が、まるでお父さんみたいな言い方するからじゃない。今は……随分エラくなったみたいだから、そんなお説教するのよね。昔はチンピラと変わらなかったくせに」

 茜の手を放すと、太一郎は背もたれに体を預け、大きくため息をついた。

「今も変わんねーよ」

 ぶっきらぼうな口調に、茜はクスッと笑った。

「似合わないよ。スーツとネクタイにそんな言葉は」

「お前は……お袋さんを手伝って、自分の店で働いているんだとばかり思ってた。なんでまた、家を出て大原で働くことにしたんだ?」

 太一郎の質問に、茜は三年前のことを思い出し、ゆっくりと口を開いた。



 母と一緒に和菓子屋『さえき』をやっていた茜だったが、本格的に後を継ぐなら、専門学校を出て菓子製造技能士の資格を取ろうと思い立つ。母も賛成してくれ、茜は家を手伝う傍ら、専門学校に通い始めた。

 それから半年ほど経ち、茜を取り巻く状況が急変したのだ。

 原因は三歳下の弟、啓一の帰宅だった。啓一は高校を中退し、家を出ていた。四年間も連絡のなかった弟が、突然、お腹の大きな女性を連れて帰ってきたのだ。彼女は里美と名乗り、ふたりはすでに入籍していた。

 挙げ句、『仕事、クビになったんだ。俺が店を継ぐから、姉さんは好きなとこに行っていいよ』そんなことを言い始め……。

 茜は怒りを通り越して呆れた。

 やっと入った高校を勝手に辞め、啓一は『和菓子屋なんかごめんだ』と言って家を出て行った。妹にしても同じだ。高校卒業と同時に友人と同居をはじめ、連絡もしなくなった。そんなふたりのことは一切あてにせず、茜は母を助けて必死で頑張ってきたのだ。当然、母は茜の味方をしてくれるものと思っていた。

 ところが、

『仕方がないじゃないの。仕事もなければ住む家もない。子供が生まれるのに、放っておけないわ』

 母はそう言って、あっさり、弟夫婦を受け入れてしまう。

 家族が倍になれば生活費も当然増える。茜の専門学校の費用は出せなくなったと言われ、彼女は途中で辞めることに。

 それだけじゃない。これまでふたりで賄えていた店である。弟夫婦が店に出ると、茜の居場所はなくなり……。

 弟夫婦に子供が生まれたとき、茜は実家を出た。

 そして、取引業者の紹介で、“大原”で働くことになった。


 

「信じられなかった。里美さんは私より年上なのよ。勝手に家を出て、勝手に結婚して……仕事がなくなったから戻ってくるなんて。母も母だわ。ずっと長女の私に面倒をかけながら、今になって『お前も好きなことをしたらいい』なんて……」

 茜の胸中は、妬みと恨み、憎しみで真っ黒に染まっていった。

 なんとしても、誰もが羨むような恋愛をして、素敵な結婚をしたい。そんな彼女の前に英介が現れた。

「騙されたなんて……思えない。あの人のせいじゃなくて……奥さんが悪いのよ。あの人を自由にしてくれないから……だから」

 

 茜は二度目の妊娠をした。

 様々な事情で、彼女はなんとしても今度は産みたいと英介に告げたのだ。彼は、それまでには必ず妻と別れると約束して……またもや、茜を裏切る。

 切迫早産で一ヶ月近く入院し、予定日よりひと月早く男の子を産んだ。

 茜は離婚が決まるまで連絡は絶とうと言われていたにもかかわらず、子供の誕生だけは伝えたくてメールで知らせる。

 そしてやって来たのは、鬼のような形相をした雅美と彼女の母である大原社長。英介は廊下から覗き込むだけだった。



「今度は私の罪だって言われたわ。もし、認知を求めるなら、慰謝料を請求するって。子供と英介さんは無関係だって書類にサインさせられて……」

「そんなもん無効だ」

「そうかもしれない。でも、あの人は私と子供の目の前でサインした。子供の顔さえ見ずに帰ってしまって……」

 声を殺して泣く、茜の息遣いだけが部屋に広がる。

 そんな茜に太一郎は静かな声で、

「お前、ひょっとして、自分の弟と大原氏を重ねてるんじゃないのか?」

 彼女の本心を言い当てたのだった。 


 

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