(43)ありがとう
生まれてから一週間、太一郎はほぼ病院に泊まり込んだ。
美月のいるNICUに三度呼び出され、一度は危篤とまで言われたが……。
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「紙おむつは買った。おしりふきも買った。後は、粉ミルク……」
太一郎は独り言を呟きながら、ドラッグストアで買い物をしていた。
一見して判る仕事帰り……。
離乳食の棚の前で少し立ち止まる。美月は間もなく生後五ヶ月、だが丸一ヶ月早く生まれたので、修正月齢は四ヶ月。一ヶ月以上入院して、十一月の終わりにやっと退院した。体重は五キロを少し超えたくらい、首もやっとすわりかけてきた程度だ。
育児書には五ヶ月くらいから離乳食を始めましょう、とある。
(俺が焦ってもしょうがねーか)
太一郎は手にしたパッケージを棚に戻し、小さくため息をついた。
比べたくはない。それが如何に愚かで馬鹿げているか、彼自身が一番判っている。ただ、不安なだけだ。一日早く生まれた結人は正月を過ぎた頃には首がすわっていた。今はもう左右に寝返りもする。泣き声も笑い声も大きい。
だが美月は……どちらかと言えば泣かない良い子だ。独りで面倒を見ている父親を気遣っているのか、と思えるほど。太一郎はそれが心配でならなかった。
退院の時、出産直前の酸欠状態は脳の発達に障害を残す可能性がある、と言われた。すぐに判断は出来ない、しばらく様子を見ましょう……それは親にとって、かなりの精神的負担であった。
年明けまでは、父子で藤原邸に住まわせて貰っていた。
さすがに、新生児の面倒を見ながら仕事には行けない。万里子の父・千早社長は育児休暇をくれると言った。だが、入社間もない太一郎にとって、度を過ぎた特別扱いは彼自身が働き辛くなるだけである。
今は、出勤前に美月を万里子に預け、仕事が終わるとその足で迎えに行く。あんなに心配していた入浴も、太一郎は独りで出来るようになっていた。
卓巳や万里子にはもう充分世話になっている。親として、可能な限り頑張りたいと太一郎は思っていた。
「ほぅら、美月ちゃん、パパのお迎えよ!」
藤原邸にいる時の美月は、衣装をとっかえひっかえのお姫様扱いである。
万里子や雪音は、卓巳が揃えたベビー服が無駄にならずに良かったと笑う。だがその雪音も、先月妊娠が判明した。今月末には宗の勤務する北海道で結婚生活を始めるという。
「卓巳さんは、これを機に資格をもったナニーを雇うと言い出したんだけど……」
卓巳は乳母と看護師、保育士など複数雇い入れようと計画したらしい。だが、子供は自分の手で育てると万里子に一蹴され、断念したと聞く。
その代わり、子育て経験のある女性や体力のある若い女性を、数名メイドとして雇い入れることに決まった。
「茜さんは……何でも色々あって、ご実家のお店を手伝うことになったんですって。残念ですけれどって、お母様と一緒に断わりに来られたのよ」
万里子は茜の一件に、太一郎が関わっていることは知らないままだ。
本当に母親の傍から離れられなくなったのか。もしくは、太一郎の正式な結婚と子供が産まれたことを聞き、会いたくなかったのか。
どちらにせよ、二人の歩く道は僅かに掠っただけ……重なる運命ではなかったのだ。
「でも、太一郎さん。明日は大事な日なんだから……今日くらい休んでも良かったんじゃない?」
「そうは行くかよ。慶弔休暇は明日から一週間取ってるんだ。俺がきっちり働いて、生活基盤を安定させないと……奈那子が安心出来ないだろ?」
真面目に働き始めて一年が過ぎた。
どうやら太一郎は、何事も中途半端には出来ない性格らしい。期待に応えられない苛立ちから、放蕩の限りを尽くしたのも、何事も深刻に考える性質ゆえだろう。
仕事の覚えは決して早いほうではない。だが、彼の真摯な姿勢と無骨さが、仕事仲間には受け入れられて来ている。千早社長も、将来的には営業や企画も覚えて行けばいい、と言う。
当初、出世を目指すつもりなど全くなかった。
でも今は、それが家族のためになるなら頑張ってみようと思い始めている。それも藤原で自動的に貰える肩書きではなく、自分の力で何かを手に出来たなら……。
『どうせ、俺なんか』
……長年、彼を煩わせ続けた劣等感が、少しずつ消え始めている。
「美月! 明日はメチャクチャ可愛いカッコしような。ママが待ってんだから……いつも以上に笑えよ」
美月は判ってるのか、「ママ」の単語を聞くとニコッと微笑むのだった。
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奈那子は子宮を摘出したものの、合併症を併発した。
生存確率がどんどん下がる中、太一郎の顔を見るたびに美月の様子を尋ねる。
「美月ちゃんは大丈夫かしら? ちゃんとミルクを飲んでる?」
自らが苦しい中、奈那子は美月に初乳を与えるため、必死で搾乳していた。
――会わせてやりたい。
太一郎は何度そう思ったか知れない。だがその美月は生死の境を彷徨っている。呼吸器を外すことも出来ず、小さな体に隙間なく電極を貼られている姿など、写真に撮って見せることすら出来ない。
「全然問題ないよ。ただ、小さいから外に出すことが出来ないだけなんだ。早く元気になって一緒に行こうぜ」
その前夜、娘の危篤を告げられ、太一郎は一睡もしていなかった。峠は越したものの、まだ安心は出来ないと言われ……病院の廊下で独り、泣きながら夜を明かした。
奈那子が始めて娘を腕に抱いたのは、出産から一ヶ月のこと。
そして季節が冬に向かうと同時に、奈那子の体は弱まって行き……。
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太一郎は美月を抱き、白く長い廊下を歩いていた。
鉄製の扉があり、開くと中庭に出る。その瞬間、春一番が少し伸びた太一郎の髪をふわっと撫でた。ひと月前の身を切るような木枯らしが嘘のようだ。
冬の次は必ず春が来る――ただそれだけのことが、太一郎の胸をじんわりと温かくする。
中庭には細長い赤いカーペットが敷かれていた。左右に白を基調としたパステルカラーの花が飾られ、カーペットの終点にあるのは祭壇だ。
「遅かったな」
太一郎に声を掛けたのは卓巳である。
黒のディレクターズスーツを着て、ウェストコートとタイはシルバーグレイ。何を着せても嫌になるほど絵になる男だ。
「美月は家から着せて来たんだけど……。俺は来るなりコレだよ。なあ……こんなに派手にしていいのか? 仮にも病院だろ?」
「別にドンチャン騒ぎをやろうって訳じゃない。入院患者も嬉しそうに窓から見てる」
卓巳が指差した先には大勢の〝見物客〟がいた。
「俺は別に見世物になりたいわけじゃ……」
「お前の希望は二の次だ。今日は……頑張った花嫁のために、願いを叶えてやる日だろう?」
そう言って卓巳は太一郎の背後に視線を移す。
そこには――車椅子に乗ったウェディングドレス姿の奈那子がいた。
合併症に苦しみながらも、奈那子は危険な状態を乗り越えたのだ。
美月を思い切り抱き締めたい。もう一度、太一郎と一緒に暮らしたい。その一念だった。もちろん、まだ完全に良くなった訳ではない。そんな奈那子は、太一郎に一つの願い事をする。
「将来、美月に見せるために、結婚式の写真を撮りたいの」
退院してからでも……。太一郎はそう思ったが、
「いいぜ。じゃあ、せめて外に出られるくらい元気になったら、病院で写真を撮らせて貰えるように頼んでやるよ」
奈那子の気持ちが上向くなら、と笑って応じたのが一ヶ月前のことだった。
純白のドレスは奈那子のイメージそのものだ。どんな色にも染まるように見えて、その主張を失わない。清楚で儚い色であった。
太一郎と美月を見るなり、花嫁は蕩けるような微笑を浮かべる。
「太一郎さん……とっても素敵です」
「そ、そうか? なんかペンギンみたいに見えないか?」
一生着ることはない、と思っていたフロックコートだ。初めて巻いたアスコットタイが、かなり恥ずかしい。
「いいえ。ねぇ、美月ちゃん、パパはとってもカッコいいわよね」
奈那子は手を伸ばし、美月を一度膝の上に乗せてから抱き締めた。滅多に会えなくても、母子の絆はワイヤーロープで繋がれたように頑丈だ。多分そこに、無償の愛があるせいだろう。
「美月ちゃんも、ママとお揃いね。とっても可愛いわ」
美月のほうは淡いピンクで、ティアラの代わりにヘッドドレスを付けている。
「だろ? めちゃくちゃ可愛いんだよ、美月は。この歳でこんなにドレスが似合うなんて、ありえねぇ」
脇に立った卓巳が「親馬鹿全開だな」とボソッと言う。
そこを万里子は肘で突付きつつ、
「ねえ、太一郎さん。美月ちゃんが可愛いのは判るんだけど……」
万里子が口をギュッと結び、少し不機嫌そうに太一郎を睨んでいる。
最初は何のことか判らず……万里子の横で小さく首を動かす卓巳を見て、ハッとする。
「も、もちろん、美月より奈那子のほうが可愛いって言うか……綺麗だ。ホント、俺には勿体ないくらい」
「ありがとう……太一郎さん」
頬を染めた奈那子は神々しいまでの美しさだった。
――この日、太一郎の両親は結婚式に合わせて帰国した。
両親に美月の出生については話していない。話す機会がなかったせいもある。頑なだった母・尚子も、北京では穏やかな暮らしをしているという。
尚子は多くの言葉は口にせず、ただ、孫のためにとプレゼントを差し出した。それは、赤ん坊が口に入れても構わない、柔らかいウサギのおもちゃであった。
「……ありがとう」
太一郎はその言葉を初めて母に伝える。
それは第一歩であった。
その一方で――奈那子の父はあれ以来、消息不明である。どうやら、桐生老の報復を恐れて姿を消したらしい。
そして母・美代子は娘が本当に死に掛けていることを知り、慌てて帰国したのであった。
奈那子の父は地方出身の大学生だった。桐生の選挙事務所でアルバイトをしていて、結婚間もない美代子と出会う。妊娠した時、美代子は本当に夫の子供だと思ったのだ。ところが、予定日から二週間も遅れて奈那子は産まれ……。その時はじめて、美代子は真実を知った。
「あの人は、わたくしに逃げようと言って下さいました。でも、夫の子供がお腹にいるのに……あなたのために諦めた人なのに。あまりにも皮肉で……父も夫も、そしてあなたまで憎んでしまった。……ごめんなさい」
彼は奈那子の存在を知らぬまま、風の噂では十年ほど前に結婚したと聞く。
ところが源次は、自分を桐生家から追い出せば、相手の男を調べ上げて破滅に追い込むと言ったのだ。美代子は、心当たりは複数で誰だか判らないと答えざるを得なかった。
挙式直前、美代子は花嫁姿の娘の手を取ると……。
「若いけれど、誠実な方でした。穏やかで、温かくて、あなたは……本当にそっくりだわ」
美代子は最後まで〝愛〟という言葉は使わなかった。それが彼女なりの誠意なのか、それとも愛情なのか、鈍い太一郎には判るはずもない。
「じゃあ美月が太一郎さんに似たら……照れ屋さんでちょっと不器用で、でも責任感の強い優しい子になりますね」
奈那子の言葉に太一郎は目が熱くなる。
「そ、そんな……俺は……俺なんかに似たら……」
「最悪だろう」
絶妙のタイミングで突っ込む卓巳に、結婚間近の雪音が涙ぐみながらフォローする。
「そんなことありませんわ、旦那様! 見た目が母親似でしたら……性格は太一郎様に似ても」
「ゆ、雪音さん、それはちょっと」
万里子が止めに入り、皆で勝手なことを言っている。
いよいよ式が始まると聞き、皐月も車椅子で表に出て来た。朽ち掛けた器に、曾孫たちは命の泣き声を注ぎ込む。そのおかげだろうか、皐月は目覚しい回復ぶりであった。
三月の陽射しを受け、中庭の木々が少しだけ煌いた。芝も真冬とは色合いが違う。全てが命の証だ。
生きていて良かった。どうせ償える罪ではないから、と諦めなくて良かった。そんな想いが込み上げ、車椅子を押す手が微かに震える。
「太一郎さん……わたしと美月を、助けてくれてありがとう」
太一郎はこの日〝本物のヒーロー〟になった。
~fin~
御堂です。
最後までご覧いただきありがとうございました。
番外編にも関わらず、12万字を突破してしまいました(^^;)
しかも…ちょっと待て、これがロマンスか?という展開…orz
うーん、何と言いますか「太一郎・更生ストーリー」に改題したほうがいいかも知れません。
太一郎の未来はちょっと時間を空けて、書きたいと思います。
最後に、たくさんの作品の中から拙作をご覧下さいまして、本当にありがとうございました。
みなさまに心よりお礼申し上げます(平伏)
御堂志生(2010/12/21)




