(23)悲劇
★直接の描写はありませんが、陵辱的なものを思わせる表現があります。苦手な方はご注意下さい。
太一郎が高田馬場に着いた時、既に〇時半を回っていた。
和菓子屋『さえき』のビルまでは二キロ近くある。走って行こうとした時、駅から程近い橋の上に茜の姿を見つけたのだった。
――嘘で良かった。
ホッと胸を撫で下ろした、と同時にやはり憤りが込み上げてくる。こんな場所で、しかもこんな時間に、未成年の少女が一人で居ていいはずがない。
「おいっ! 茜、お前なぁ。いい加減にしねぇと」
太一郎の声にビクッとして茜が振り返った。
その一瞬、背後を走り抜けた車のヘッドライトが彼女の顔を照らし出す。それを見て、太一郎は絶句した。茜は嗚咽を上げ泣きじゃくり、口元が赤く見えるのは……血であろうか。髪は掴まれ引き摺られたように乱れている。体に張り付いたTシャツにショートパンツ……着衣に乱れた様子はない。だが、茜は裸足だった。
「ど、どうしたんだ? 殴られたのか? すぐに警察に行こう……いや、病院に」
「だ……め……」
「お前、まだそんなこと言ってんのかっ!?」
大声で怒鳴った瞬間、茜の身体は痙攣したように震えた。
以前、北脇に襲われたと嘘をついた時とは様子が違う。あのとき茜は、自分から太一郎に近づいてきた。だが今は……。
太一郎が一歩近寄ると、茜は一歩後ずさる。その瞳は焦点が合っておらず、今にも橋の欄干を乗り越えてしまいそうだ。
「わ、わかった。判ったから、こっちに来いよ。そこは危ねえって……」
「わたし……わ、たし……」
「あの職人がなんかしたんだろ? もう大丈夫だって。俺がどうにかしてやるから。だから、こっちに来い」
「もう……だめ。遅いの……私は」
「人間生きてりゃどっからだって挽回出来る!」
そう言うと太一郎は二歩近づいた。
だが、茜は首を振りながら一歩後ろに下がり……。
「無理なの。私……だってもう」
「無理じゃねぇ! 俺が何とかしてやる」
「でき……ないよ」
「出来るか、出来ないかじゃない! やるか、やらねぇかだ!」
再び太一郎が近づいた時、茜の腕に触れ……そのままグイッと引き寄せた。
その時はじめて、太一郎は茜の顔色が尋常でないことに気付いたのだ。
襲われた恐怖などといったレベルではないような気がする。太一郎がそんなことを考えた時、茜は彼の胸に縋りついたまま、とんでもない言葉を口にしたのだった。
「ど、うしよう……私……あの男を……ころし……ちゃった」
「……!」
~*~*~*~*~
太一郎に電話を切られてすぐ、茜はもう一度母の携帯に電話をかけた。だが、やはり繋がらず……。茜は家を出て、店の休憩室で夜を過ごそうと考える。
実は、太一郎には言わなかったが、警察には電話をかけた後だった。
しかし……。
『じゃあ、お母さんの交際相手なんですね? これまで暴力を振るわれたり、脅迫めいた言葉や暴言を吐かれたこともない。お母さんの許可を得て、家に入られてる訳ですし。お酒を飲まれているだけでは、どうしようもないですね。もし、酔って暴れるようなら、もう一度電話して下さい』
事件性がないと言われてしまったのである。
確かに、客観的に見たら茜の考え過ぎかも知れない。学校の友人にそれらしき話をした時も、母親を取られた嫉妬じゃないか、と言われた。
茜は溜息を吐くとショートパンツのポケットに店の鍵を入れた。なるべく新田を刺激しないように、リビングはサッと走りぬけよう。そんなことを考え自分の部屋の扉を開ける。
その瞬間――目の前に新田が立っていた。
茜はしばらくの間、息をするのも忘れた。
「よう茜、オレと一緒に飲もうぜ、な?」
これまでとは口調が違う。新田はその目に宿る下劣な光を隠そうともせず、茜に近づいた。
「わ、たし……友達と約束があるから……勝手に飲んでて下さい」
震える声でそれだけ言い、茜は新田を避けて逃げ出そうとした。
だが、強かに酔っている割に、新田の動きは素早く、茜の腕を掴んだのだ。
「逃げんなよ。オレさ、ホントは雅美よりお前のほうが好みなんだ。当たり前だよな、四十近いオバサンより、女子高生のほうが良いに決まってるよ。肌もスベスベだもんなぁ」
雅美は母の名前だ。茜は母を馬鹿にされ、悔しくて言い返そうとしたが……。直後、新田は茜の腕に頬擦りしたのだ。ざらざらと男の髭が当たり、茜はその気色悪さに声を失う。
無言で触らせる茜に気を良くしたのか、新田はそのまま抱きついてきた。
「きゃっ!」
「どうせ男とヤリに行くんだろ? だったらオレとヤろうぜ。雅美とどっちが上手かな?」
太一郎に比べれば、新田はだいぶ小柄だ。それに酔っていて足元もおぼつかない。なのに、凄い力で茜を引き摺り倒そうとするのである。
そして……新田は言ったのだ。
「お前がイヤだってんなら、円で試してみようかなぁ。中学生ってどうだろうな。雅美に言ってもいいぜ。アイツはオレに惚れてるから、絶対信じないだろうねぇ」
妹の名前を口にされ、茜は凍りついた。
~*~*~*~*~
茜の話を聞き、太一郎は血の気が引く思いだった。
本当のことを言えば、茜の友達と同じことを太一郎は考えていた。母親に女の部分を見せられ、茜は少女らしい不快感を覚えているのだろう、と。新田は真面目な職人にしか見えない、そう思っていた自分の見る目のなさが呪わしい。
「妹のことまで持ち出して……奴はお前を?」
橋の近く、誰も来ないビルの影に身を潜め、二人は話していた。
太一郎の質問に茜は首を小さく横に振り、
「お母さんと……同じ事をしろって言い出して……」
彼女は消えそうな声で……口の中に男のモノを押し込まれたと告白する。髪を掴まれ強引に口を開けさせられ……。だが、茜はやられっ放しになっている少女ではなかった。
「お、おもいきり……噛み付いてやったの……そしたら……」
刹那――茜は道の端に駆け寄り、吐き戻した。
生臭い感触と、血の匂いを思い出したのかも知れない。茜の口元を汚していた鮮血は、彼女の反抗の証であった。
茜は太一郎が自動販売機で買ってきたミネラルウォーターで口をすすぎ、ようやく言葉を繋ぎ始める。
「あの男は怒って……私に飛びついてきたの。怖くて……暴れて……その時に突き飛ばしたら……動かなくなって……」
地面に座り込む茜の横に、太一郎は腰を下ろした。見るに見かねて、髪を撫で、そっと整えてやる。
「頭を打ったみたいだった。血が出てて……それも結構たくさん……」
「……正当防衛だ。お前のせいじゃない。だから警察に」
太一郎が茜を宥めようとした途端、彼女は血走った目で叫び始めた。
「誰がそれを信じてくれるのっ!? 太一郎だって信じなかったでしょ? きっと、誰も信じてくれない。だって私、適当に男と遊んでる今時の女子高生って思われてるもの。アイツ、周りにいい顔してたから……私を襲うわけないって言われるよ。それにお母さんも……私が新田を殺したって知ったら、恨むに決まってる!」
そんな訳がないだろう……と、太一郎には言えなかった。
無条件で母親の愛を信じられるほど、彼自身、愛された記憶がない。娘より男に対する愛情を優先させる母親がいないと、断言出来ないのだ。
茜は太一郎に身を寄せ、熱に浮かされたように呟き続ける。
「どうしよう……殺すつもりなんてなかったの。ホントよ……ホントに」
不安そうに見送る奈那子に「始発で戻るから待っててくれ」と告げた。その約束を破りそうな予感に、心の中で詫びる太一郎だった。




