【ゼノ】魔法使い 3
魔術の理論がまだ確立されていなかった時代──
それは「魔法」と呼ばれ、理を超えた力として畏れられていた。
体系こそ存在しなかったものの、生まれながらに才能を持つ者は、「魔法使い」と称されていた。
少女の話を要約すると、こうなる。
彼女の愛読書には、眼鏡をかけた男の魔法使いが登場するという。
その魔法使いは、没落した貴族の令嬢である主人公を助け、最終的に彼女は王子と結ばれるらしい。
魔法使いは、さまざまな奇跡を「魔法」として具現化し、主人公に希望を与えていく。
その奇跡の数々は、少女が学んでいる魔術では到底再現できないものばかりだった。
──そして。
そんなとき、私が光の中から現れた。
彼女の知識では説明のつかない登場の仕方だったのだろう。
結果、私は「魔法使い」に認定されたらしい。
少女は目を輝かせながらページをめくり、魔法使いがどんな奇跡を起こしたのか、次々に語ってくれる。
先ほど少女が見せてくれた挿絵には、魔法使いが主人公のために、一面に広がる花畑を生み出す場面が描かれていた。
……確かに私は眼鏡をかけているし、この”魔法使い”とやらに、まったく似ていないとも言えない。
私は脱出手段を思案しつつ、少女の話に半ば気を取られながら耳を傾けていた。
すでに冷静さは取り戻していた。
呪術を使えば、ここから抜け出すことは可能だと見当もついていた。
だが──当時の私の呪術はまだ不完全だった。
余計な痕跡を残したくなかった私は、この少女を利用し、安全にこの場を切り抜ける道を選ぼうとしていた。
「……私が魔法使いだとして、君は何を望む? 王子との結婚か?」
たしか、次期王太子も彼女と同じくらいの年齢だったはずだ。
この少女の家柄が高位であるなら、絵空事ではなく実現の可能性もなくはない。
しかし──
少女は私の問いに、唇をきゅっと結び、ふいに決意を宿した瞳でこちらを見上げてきた。
「……お母さまの、お体を治してほしいのです」
その言葉に、私は不意を突かれた。
──その、澄んだ眼差しに。
かつての私が、ただ祈るような気持ちで願った、あの願いが重なる。
自分の力だけではどうにもならない現実に、それでも抗おうとする幼い意志。
その瞳に映る自分の姿に──私は、幼き日の自分を重ねていた。
「お母さまは……お体が弱くて……最近は、もうベッドから起き上がることさえ難しくて……」
少女の小さな手が、ぎゅっと握られる。
その細い肩がわずかに震えていた。
「お医者さまも……治癒魔術師さまも、誰もお母さまを治せなくて……」
──“魔法使い”なら。
物語の中で、奇跡を起こす存在ならば。
叶えられなかった願いさえ、きっと叶えてくれる。
そんな幼い希望が、彼女の胸の奥に宿っていたのだろう。
……だが。
「……私には、君の母上を助ける力はない」
その言葉に、少女の表情がみるみる曇る。
希望の光がしぼむように、瞳の輝きが失われていく。
本当のことを伝えた。ただそれだけなのに、心のどこかが痛んだ。
この子を“魔法使い”として騙し、利用することは簡単だった。
この屋敷から出るために、それを選ぶ道もあった。
──けれど、私はそれを選ばなかった。
それを選ぶことは──
あの頃、願い届かぬ夜に、ただ空を見上げていた“昔の私”に、背を向けることだったから。
私はゆっくりと手を伸ばし、少女の頭にそっと触れた。
絹糸のような柔らかさに指先が沈む。静かに髪をすくい上げるように撫でる──
それは、かつて母が私にしてくれた仕草と、どこか似ていた。
「……すまない」
小さく呟いた瞬間、少女の瞳に再び光が宿る。
けれど、その光は──大きな涙となり、ぽろぽろと溢れ始めた。
こらえきれず、声もなく泣きじゃくる。
無力さに打ちのめされ、ただ涙を流し続けるその姿に、私は手を止めることができない。
涙が静かに止むまで、私はただ、少女の頭を撫で続けていた。
しばらくして、落ち着きを取り戻した少女が、ひくひくと小さなしゃっくりを上げ始めた。
私は静かに息をつき、もう一度、言葉をかける。
「私には、君の母上を治すことはできない。けれど──元気づける方法なら、知っている」
その一言に、少女の顔がぱっと明るくなる。
大きな紫紺の瞳が、まっすぐに私を見上げ、期待に揺れる。
その無垢な表情に、私は思わず苦笑を漏らし、ゆっくりと続けた。
「“約束”を、するんだ」
「やくそく……?」
首を傾げる少女に、私は頷いてみせる。
「ああ。君が母上に、“約束”をする。そして、その“約束”を守るために、一所懸命努力をする。君の母上は、君がその“約束”を守ろうと頑張る姿を見るだけで、きっと元気をもらえる」
少女の表情には、どこか物足りなさそうな、半信半疑の色が浮かぶ。
それでも私は、確信を持って頷いた。
「“約束”は、生きる力になる。人は“約束”を守ろうとすることで、前に進むことができる。そして、“約束”を託された人も、その想いに支えられるんだ」
──そこには、何よりも強い、確かな愛情があるから。
……今の私も、母と交わした“約束”があったからこそ、こうしてここにいる。
私の言葉を受け止めるように、少女は黙って宙を見つめていた。
しばらくして、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、幼いながらも確かな意志の光が宿っていた。
「わたくし、お母さまと“約束”をします。そして、お母さまが元気になれるように、努力します」
その言葉に、私はかすかに口角を上げる。
──この子は、もう大丈夫だ。
きっと、彼女の母は長くはないのだろう。これから、少女は母の死という深く重い試練に向き合うことになるはずだ。
けれど──母と交わした“約束”は、必ずや彼女の心の糧となる。
……“約束”は、形を変えて生き続けるものだから。
私は静かに立ち上がる。それに気づいた少女も、大事そうに本を抱えたまま、慌てて立ち上がった。
「私はもう行く」
──もう、彼女を利用してここから抜け出そうなどとは考えていなかった。
自分の力でここを出るなら、それに越したことはない。
「あ、あの、魔法使いさん」
少女は本をぎゅっと抱きしめながら、何か言いたげにこちらを見上げてくる。
けれど、伝えたい言葉がうまく見つからないのか、もどかしそうにしていた。
そんな彼女を安心させるように、私はそっと頭に手を置いた。そのまま、ゆっくりと手を滑らせて彼女の目元を覆う。
「魔法使いさん……?」
不安そうに揺れる声が、指の隙間から漏れてくる。
「──選別だ。君に、魔法を見せてあげよう」
私は手のひらに影を集める。
「──あっ……」
少女の口から、抑えきれない歓声が漏れた。
今、彼女の目の前には、私が影で繋いだ花畑の風景が広がっているはずだ。
さっき見せてくれた挿絵では、魔法使いが主人公の前で魔法の花畑を咲かせていた。
私にはそんな奇跡は起こせないけれど──
母が愛した、私の中で一番美しい花畑の光景なら、見せてあげることができる。
「魔法使いさん、すごいです……!!」
興奮を抑えきれず声を弾ませる少女を見下ろしながら、私は小さく心の中で呟いた。
──さようなら、“お姫様”。
次回、ゼノ視点ラストです。
幼女クラリスとの再会に、彼は何を思うのか。
6/27(金) 19:00更新予定です。
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今回のイラストは、学生ゼノと幼女クラリスのツーショットです!
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