【ルーク】初めての妹 3
「クラリスちゃん、またね」
小さな姉さんと視線を合わせるように、リナは膝をついて優しく微笑んだ。
その目尻に溜まった涙を、僕はあえて見なかったことにする。
けれど、姉さんは何かを感じ取ったのだろう。不意に神妙な表情になり、小さな手をそっと伸ばした。
その手がリナの首にまわり、姉さんは彼女の肩に顔を埋める。
「……リナと、また会いたいです」
くぐもったその声は、少しだけ震えていた。
リナもすぐにそれに気づき、堰を切ったように涙を流し始める。そして、姉さんをそっと、けれど力強く抱きしめた。
……まったく。見なかったことにした意味、なかったじゃないか。
「会えるから、絶対。会いに行くから……ちゃんと、会いに行きますから──」
──その最後の一言は、きっといつもの“姉さん”に向けたものだ。
リナは姉さんからそっと離れると、袖で顔を乱暴に拭って、にっこりと笑ってみせた。
涙でぐしゃぐしゃのその顔は、不思議ととても綺麗だった。
不安げな表情を浮かべる姉さんを、僕はそっと抱き上げる。
そして、安心させるように柔らかく微笑みかけた。
「リナとは、明日も会えるよ。だから安心して」
──今日のことは、覚えていないかもしれないけれど。
明日は、いつも通りにやってくる。
だから、僕らは──いつも通り、明日も一緒だ。
リナに別れを告げたあと、僕たちは静かに馬車へと乗り込んだ。
御者は、いつも隣にいるはずの姉さんが見当たらず、代わりに小さな女の子が一緒にいることに、わずかに訝しげな視線を向けてくる。
けれど「問題ない」とだけ伝えると、彼は黙って手綱を取り、公爵邸へと馬車を走らせた。
窓から差し込む夕陽が、やけに眩しい。
カーテンを閉めようと手を伸ばしかけて──ふと、その光景に目を奪われる。
空は柔らかな茜に染まり、太陽がゆっくりと地平線に沈んでいく。
まるで、世界が一瞬、止まったかのような、静かな美しさだった。
隣を見ると、姉さんが眠そうに目をこすっている。
僕はそっと彼女を膝に抱き上げた。
小さな姉さんは、半分寝ぼけながらも、僕を見上げてぽつりとつぶやく。
「……お兄さま?」
「……クラリス」
初めて、姉さんを“名前”で呼んだ。
クラリスは、何の違和感もない様子で「はい」と頷く。
──僕が、どれだけこの名前を、姉さんの“名前”を呼びたかったか。
彼女は、きっと知らないんだろうな……
まさか、こんな形でその機会が巡ってくるなんて、思いもしなかった。
いつもの姉さんにも、こんなふうに名前を呼びかけられる日が来るのだろうか。
そんな願いにも似た想いが──胸の奥に、じんわりと滲んでくる。
「ほら、夕陽が綺麗だよ」
僕の言葉に、クラリスは窓の外を覗き込んだ。
夕焼けの空に目を見開き、感嘆の息を漏らす。
「本当です、きれい……」
──うん、綺麗だ。
夕陽に染まるクラリスの横顔に、いつもの“姉さん”の面影が重なって見えた。
……誰よりも、綺麗だ。
そっとクラリスの小さな手を握る。
彼女はまだ窓の外に夢中になりながらも、無意識のうちに僕の手を握り返してくれた。
その手は、暖かい。
最近の姉さんは、いつも冷たい手をしていたから──
この温もりが、なんだかとても新鮮に感じられた。
昔──
僕が今の姉さんくらい小さかった頃、理由もわからず、ひどく泣きじゃくった夜があった。
涙が止まらなくなって、声を上げて泣き続けていた記憶だけが、今もはっきりと残っている。
たぶん、エヴァレット家での暮らしが苦しかったのだろう。
厳しい課題に押しつぶされそうになって、前の家が恋しくなって、どうしようもなくなって──泣いた。
その頃の姉さんはすでに、幼いながらも完璧な公爵令嬢として振る舞っていて、感情を表に出すことはなかった。
僕に対しても厳しく、決して甘える隙など与えてくれなかった。
──けれど、あの夜だけは。
姉さんは無言で僕の隣に座り、手を握って、朝までずっとそばにいてくれた。
表情ひとつ変えず、ただじっと僕の顔を見つめながら、僕が眠りに落ちるまで、その手を離さずにいてくれた。
あのときの手のぬくもりが、ふと蘇る。
胸が熱くなって、今にも涙がこぼれそうになる。
僕は──
あの夜の姉さんのように、姉さんが辛いときに寄り添える存在でいたい。
姉さんの冷えた手を、温めてあげられるような、たった一人の味方でありたい。
……もっとも、いつもの“姉さん”が、そんな弱さを見せてくれるとは思えないけれど。
ふと気づくと、小さな姉さんが、こっくりこっくりと舟を漕いでいた。
夕焼けを眺めながら、とうとう眠気に抗えなくなったのだろう。
僕はそっと笑って、彼女の小さな体が崩れないように、優しく抱き寄せた。
エヴァレット家に着くと、なぜか父さんが玄関の前で待っていた。
「ただいま、父さん」
「父上と呼びなさい」
二人の間で交わされる、いつも通りのやり取り。
僕は堅苦しいのが苦手で、公式の場でない限り、くだけた口調を崩さない。
それを父さんは毎度のように注意してくる。
昔は姉さんにもよく叱られたけれど、最近はもう、呆れて何も言わなくなったようだ。
……まぁ、社交の場ではちゃんと”完璧な公爵令息”を演じてるんだから、それくらいは許してほしい。
父さんの視線は、僕の腕の中で眠る姉さんへと向けられている。
今の姉さんの状況をどう説明したものかと考えていた矢先──
父さんが、先に口を開いた。
「話は聞いている」
……相変わらず、底の知れない人だ。
一体どこから情報を仕入れてくるのか、まったく見当がつかない。
とはいえ、一国の宰相という立場を考えれば、それなりの情報網を持っていて当然なのかもしれない。
それにしても──早すぎる。怖いくらいだ。
僕の腕の中で、姉さんがもぞりと身じろぎする。
まだ眠たげに目をこすりながら、前に立つ父さんの姿を視界に収めた。
「……お父さま?」
姉さんの記憶の中にある父さんは、きっと今より若い姿だろう。
それでも、元々年齢を感じさせない人だからか、すぐに“父”だと気づいたようだった。
父さんは何も言わず手を差し伸べ、僕はその手に姉さんをそっと渡す。
「お父さま、お母さまは?」
──その言葉に、一瞬だけ、息が詰まる。
父さんの表情にも、ほんのわずかに翳りが走った。
……そうだ。
この時点では、姉さんの母──セレナ・エヴァレットは、まだ生きていたはずだ。
だから、姉さんは自然にその名を口にしたのだろう。
でも──この後、彼女は……
胸の奥が、じんと痛む。
「……セレナは、まだ体調が思わしくない。だが、心配はいらない」
「……そうですか……」
姉さんは少しぼんやりした様子で、父さんの肩に頭をもたせかけた。
そして、小さくつぶやく。
「……お父さま。今日は、とてもすてきな殿方たちとお会いしました」
──その中に、僕は含まれていたのだろうか。
目をこすりながら、姉さんは続ける。
「わたくし……将来は、あんな殿方たちと結婚したいです……」
父さんの眉間に、かすかな皺が寄る。
普段ほとんど感情を見せない人だが、今の言葉には、どうやら少し機嫌を損ねたようだった。
「そして……わたくしも、“完璧なしゅくじょ”になって、お父さまとお母さまのような、すてきで、完璧な夫婦に……」
そこまで口にすると、姉さんは再び静かに目を閉じた。
──沈黙が落ちる。
姉さんの目指していたもの。
理想としてきた未来。
その片鱗に触れた気がして、僕はしばらく言葉を失ってしまう。
父さんも、何も言わなかった。
この後、姉さんは母を失う。
その事実を思い出したとき、僕はようやく気づいたのだ。
今の姉さんと、いつもの姉さんの“違い”の正体に。
──感情を素直に表に出す姉さん。
──感情を押し殺し、完璧であろうとし続ける姉さん。
その分かれ目が、きっとこの出来事だったのだ。
そして今、目の前で沈黙を守る父さんも──
同じように、完璧であるために感情を押し殺しているように見えた。
「……もう遅い。お前も夕食を取って、早く休め」
それだけを言い残し、父さんは姉さんを抱いたまま背を向けて歩き出す。
二人の背中を見送りながら、僕は気づく。
──僕とあの人たちの間には、越えられない壁があるのかもしれない。
胸がきゅっと痛んで、僕は黙って拳を握りしめた。
思春期らしく、色々と複雑な感情を持っていますが、姉への思慕はずっと変わらず──
ただ、そばにいたいと願ってきました。
そんなルークの思いが伝われば嬉しいです☺️
次回はセノ視点、6/17(火) 19:00更新予定です。
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今回のイラストは馬車でのひととき。夕日に照らされる二人が印象的です。
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