【ゼノ】影 1
エルデンローゼ王国は、大陸随一の大国である。
王家は国民を慈しみ、法のもとに統治され、他国との外交にも問題はない。繁栄と平和が続く国。表面をなぞる限り、これほど理想的な国はないように見えるだろう。
──実に、非の打ちどころのない国だ。
だが、影のない国など存在しない。
王国が光を浴びれば浴びるほど、その裏には深く濃い闇が広がる。
その闇を処理し、秩序を守り続けてきたのが「王家の影」と呼ばれる一族だった。
特に建国当初は、王家と国に仇なす者たちが後を絶たなかった。
反乱を企てる貴族、密かに王座を狙う王族の分家筋、他国の刺客や密偵──彼らは「影」の手によって音もなく葬られた。
やがて王国は安定し、「影」の出番は徐々に減っていった。
時が経つにつれ、人々の記憶から「王家の影」の存在は薄れ、ついにはその名すら囁かれなくなった。
それでも──影は決して消えない。
王家が光である限り、影はそこにある。
目には見えぬが、確かに存在し続け、王家と国を守り続けているのだ。
そして今、その役目を担っているのが、私──ゼノ・ラヴェルという男だった。
薄暗い研究室に朝の光が差し込む。
魔術の参考書と古文書が山積みになった机の上で、本日の授業で使う予定の魔法陣のサンプルを一つずつ並べていく。
私はエリューシア学園の魔術教師として、生徒たちに魔術の指導を行っている。
魔術理論を教え、貴族の子息や令嬢たちが魔術を安全に扱えるよう育て上げるのが役目だ。
一方で、教師という立場を利用して、古代の遺物や失われた魔術の研究に没頭する道楽者でもある。没落した貴族の出身という肩書きは、余計なしがらみを生まないため都合がいい。魔術の腕前は貴族社会でもそれなりに知られているが、学園の外では目立つことのない、取るに足らない存在だ。
──それが「表の顔」。
私の本当の役目は、「王家の影」として、王家と国を裏から守護すること。
表では学園の教師として振る舞い、裏では反逆者や不穏分子を探り出し、必要とあらば葬る。
目立つことなく、あくまで「学園の教師」という役割に徹しながら、その裏で国の秩序を維持してきた。
授業の準備を終えると、もう一つの仕事に取りかかった。
机の上、わずかに広がる漆黒の影──これは、私が操る呪術の一つだ。
この影は、王宮や学園周辺に潜ませた「影の目」とつながっている。影に意識を送り込み、建物の隙間や人々の背後に潜んであらゆる物音や会話を拾い上げる。
昼は些細な情報を集め、夜はさらに深く影を這わせ、王宮の奥深くにまで干渉することができる。
影は単なる情報収集だけではない。
いざという時は、影から形を成し、目標を闇に引きずり込むことも可能だ。
痕跡を一切残さずに相手を消し去る。これが「王家の影」に代々伝わる呪術である。
机上に広がる影に触れ、指先で記録をなぞる。昨夜から今朝にかけて収集した断片的な情報を、私は淡々と確認していった。
──くだらない。
王宮の侍女が貴族たちの噂話を囁き合い、とある中級貴族が些細な不正を働いた程度。どれも国を揺るがすような事態ではない。不正の件は、後ほど宰相に報告して処理させるとしよう。
ため息をつきながら呪術を解き、手元の影を消す。
最近の政情は安定しており、「影」としての私の出番はほとんどない。
そのため、今では「表の顔」──魔術教師として、国の未来を担う貴族子女の育成に注力する日々だ。その中には、現在学園に在籍する王太子アレクシスの警護も含まれている。
そして最近、もう一つ任務が加わった。
それが「封印の鍵」である少女──リナ・ハートの監視である。
鍵についての詳細は、私にもすべては知らされていない。古くから伝わる伝承に過ぎないが、鍵が現れるときは国に危機が訪れる前兆であり、その危機を打破するためには鍵の存在が不可欠だとされている。
歴代の王たちはこの伝承を重んじ、鍵の力を頼りに国の難局を乗り越えてきた。
その力を宿す少女の監視。
それが、私に課せられた新たな使命だ。
鍵は、この国にとって必要不可欠な存在なのだろう。だが、力というものは使い方ひとつで容易く災厄へと転じる。
彼女の力を見極め、必要とあらば覚醒する前にその芽を摘む──それもまた、私の役目に含まれていると理解していた。
表向きには「保護」という名目で、彼女を手の内に収める。その裏では、必要があれば迷うことなく刃を振るう。
国とは、そうして守られるものだ。
ふと、机の隅に積まれた先週の定期テストの答案が目に留まった。
山積みの答案の中で、ひときわ整った魔法陣が一番上に置かれている。
それは模範解答以上の精度を誇り、線一本の歪みもなく、魔素の流れを完璧に計算して描かれていた。
まるで宮廷魔術師が仕上げたかのような見事な魔法陣。
──“彼女”の作品だ。
クラリス・エヴァレット。筆頭公爵家であるエヴァレット家の令嬢であり、王太子アレクシス殿下の婚約者。
彼女の才知は王宮でも評価され、筆頭公爵家としての威厳を保つにふさわしい存在感を持つ。
だが、あるときから、彼女の行動は私の目に少々奇妙に映るようになった。
クラリスは「封印の鍵」であるリナに、まるで保護者のように寄り添い、彼女を導こうとしているようだった。
表向きにはただの先輩後輩関係に見えるが、そこには確かな意図がある。それは貴族の気まぐれや慈善行為とは明らかに異なり、目的を持って動いている人間の行動だ。
そもそも、彼女はそういった行動を取る人間ではなかったはずだ。
──リナが、「封印の鍵」であることを知っている……?
「封印の鍵」の存在を知る者は限られている。私を除けば、王と宰相、騎士団長、魔術師団長、そして学園長──たった五人だけ。
たとえ彼女が宰相の娘であっても、あの男が公私を混同するとは思えない。彼女が「封印の鍵」について知っているとは考えにくかった。
私は彼女の描いた魔法陣に指を滑らせながら、目を細める。
様々な疑問が思い浮かんだが、根底にあるのは一つ。
──彼女は本当に、”クラリス・エヴァレット”なのか。
私が知る彼女は、優秀でありながらどこか無機質な存在だった。必要以上に感情を表に出さず、常に冷静さを保ち、ただ結果を出すだけの令嬢。
エヴァレット家に求められる役割を完璧にこなす彼女にとって、感情など不要だったのだろう。だからこそ、彼女の行動は常に一貫しており、予測しやすかった。
王太子の婚約者という立場でありながら、警戒するほどの人物ではなかった。
──あのときまでは。
異変が生じたのは、リナが学園に入学してまもなくのことだった。
彼女は私の研究室を訪ね、リナへの個別指導について言及した。
人としての感情が欠如しているようにしか見えなかった彼女が、他人のためにわざわざ私を訪ねてきたこと自体が驚きだった。
その後、リナの魔術の未熟さを目の当たりにして、さすがの私も驚愕した。「封印の鍵」としては、あまりにもお粗末な実力だった。
とはいえ、私の役目は彼女を育てることではない。それは学園長の仕事であり、私は教師として最低限のことをこなすだけだ。
──それが、気づけば巻き込まれていた。
最初は、学園長が仕組んだことだと考えた。彼が私を「王家の影」だとは知らないはずだが、魔術の実力は見抜いている。リナを鍛えるための適任者として私を利用したのだろう──そう結論づけた。
だが、すぐにそれが誤りだと気づいた。
影を使い、学園内外での彼女の行動を追った結果、リナの成長を後押ししているのは、クラリス・エヴァレット自身だった。
生徒会への推薦、個別指導の依頼。
リナを導き、周囲の人間たちとの関係を強化しようとしているのは、ほかでもないクラリスだったのだ。
私の知る彼女では説明がつかない行動の数々。それに私は戸惑い、いくら考えても答えは出なかった。
ならば──と、私は彼女の動向に積極的に関与することにした。
定期テスト対策と称し、彼女とリナの早朝特訓に立ち会った。監視するには、直接関わるのが最も手っ取り早い方法だ。
そして、私は確信した。
──クラリスは、リナが「封印の鍵」であることを知っている。
そして、リナが「封印の鍵」としての力を発揮できるように育て上げようとしている。
彼女はそのために動いている。
彼女の行動を説明するには、それ以外に考えられなかった。もはや偶然などではない。
そう確信した瞬間、もう一つの仮説が脳裏をかすめる。
──彼女は、私が「王家の影」であることにも気づいているのではないか。
本来、ありえないことだった。「王家の影」の存在を知る者は、この国では王と宰相のみ。
だが、彼女の行動はこれまでの予測を悉く覆してきた。
常識の範囲内で物事を捉えていたら、彼女の動きに後れを取る。ならば、ありえない事象にも目を向け、あらゆる可能性を視野に入れるべきだ。
私はそう判断した。
そして──試してみることにした。
次回は3/10(月) 19:00更新予定です。
建国祭編ラストです。




