最後のフラグ 2
ともかく、今日、どうしても回収しなければならないフラグはあと一つ。
──だが、これが最難関だった。
正直、うまくいく自信はない。
このフラグを回収するには、リナを危険にさらす可能性があるからだ。
私は息をひとつ吐き、心を落ち着けようとする。
「姉さん、大丈夫?」
いつもと違う私の様子を察したのか、ルークが気遣わしげにこちらを見つめていた。
相変わらず優しい弟だ。
──だが、今回はその優しさを利用させてもらうことにする。
「ごめんなさい。初めてのお祭りだから、少し疲れてしまったみたい。飲み物を買ってきてくれないかしら?」
私の頼みに、ルークは疑うことなく頷いた。
「わかった。リナ、姉さんのこと頼んだよ」
ルークはそう言い残し、大通りへ向かう。
静寂が戻る。
喧騒が遠のき、路地には私とリナだけが残された。
私は手近な場所に腰を下ろし、リナも隣に座る。
「クラリス様、本当に大丈夫ですか?」
リナが心配そうに覗き込んでくる。彼女の素直な瞳が不安げに揺れていた。
たぶん、今の私は顔色が悪いのだろう。表情筋こそ動かないが、顔色は正直らしい。
私は視線を逸らし、胸の内に湧き上がる罪悪感を抑える。
──この後、私はリナを路地裏へ向かわせ、暴漢に襲わせなければならない。
そして、”彼”が彼女を救う。
それが最後のフラグだった。
彼との好感度が一定以上なら、彼は必ず助けに来る。
だが──もし、そうでなかったら。
私は身震いした。
そのときは、必ず私がリナを守る。
しかし、どちらにしても彼女に恐怖を味わわせてしまうのだ。
ゲーム画面の向こうで見ていた危機ではない。
目の前で起こる、生身の危機。
私は無意識にリナの手を握る。その手の温かさが、わずかに心を和らげてくれた。
「ク、クラリス様?」
私の突然の行動に、リナは戸惑いながらも顔を赤らめ、小さな声を上げた。
──そのとき。
路地裏から、何かが倒れるような大きな音が響いた。
私とリナは一斉に音のした方に目を向ける。二度、三度と物音が続き、その後、静寂が訪れる。
──来た。
リナは音のした方向と私を交互に見やり、やがて何かを決意したように口を開く。
「……クラリス様、様子を見てきます。ここで待っていてください」
──そう、それでいい。
ゲーム通りに動けば、彼が来る。彼がリナを守ってくれる。
私は小さく頷いた。
だが──
彼女の手を握っていた自分の手に、無意識のうちに力がこもる。
リナは驚いたように目を瞬かせるが、すぐに優しい微笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ、クラリス様。ちょっと見てくるだけです」
リナはそう言いながら、私の手をそっと解き、路地裏へと足を踏み入れた。
私はその背中を見送りながら、奥歯を噛みしめる。
──何をやっているの、私は。
すんでのところで助けられるとはいえ、自分より体格のいい男たちに襲われる恐怖を、彼女は味わうことになる。
フラグを回収するためとはいえ、リナに心の傷を負わせてまで得たいものなんて、何もないはずだ。
──フラグを逃したって、構わない。
リナが傷つくくらいなら、そのほうがずっとマシだ。
私は顔を上げ、彼女の後を追って走り出した。しかし、すでにリナの姿はどこにもない。
焦燥感に駆られながら、私は細い路地を駆け抜ける。
次の角を曲がった瞬間──
「っ……!」
勢いよく何かにぶつかり、よろめく。
「おいおい、痛ぇじゃねぇか」
「ご、ごめんなさ──」
反射的に謝りながら顔を上げた私は、息を飲んだ。
──どうして、ここに?
目の前に立っていたのは、ゲーム内でリナを襲うはずだったゴロツキたちだった。
一人は、鍛冶屋の鉄槌でも持ち上げられそうな分厚い腕を持つ大男。もう一人は痩せぎすで、蛇のように細い目が特徴的だ。
「なんだ、すげぇ別嬪さんじゃねぇか。ラッキー!」
太い腕の大男がニヤリと笑い、隣の細身の男がいやらしく舌なめずりする。
──こいつらがここにいるということは、リナは無事なのかしら……
内心で安堵の息をつく。ゲーム内のイベントと同じなら、リナはこいつらに襲われているはずだった。
とはいえ、目の前で不躾に笑う男たちは気分のいいものではない。正直、彼らがこの場で私に手を出せるとは思えないが、身を這うような不快感はどうしても拭えない。
「姉ちゃん、オレたちと楽しいことしようぜぇ」
太い腕がこちらに伸びてくる。私は冷静にその手を振り払った。
「──下がりなさい、無礼者。今なら見逃してあげるわ」
冷え切った声が自然と口をついて出る。放たれた言葉に圧されてか、男たちはわずかに後ずさった。
だが、所詮はそこまでの男たちだ。目の前にいるのが自分たちより格上であると気づくほどの知性はないらしい。
「なんだよ、威勢がいいな」
そう言いながら、大男は再び歩み寄る。
私は、自分でも思っていた以上に苛立っていた。
不安を抱えながらもリナを送り出し、それでも耐えられなくなって彼女を追いかけてきた。
心の奥にわだかまる自己嫌悪と焦りが、形を持たない棘のように私を苛んでいたのだ。
男たちを排除しようと、私は一歩踏み出す。
──私は、自分が冷静だと思っていた。しかし、そうではなかった。
氷魔術で足元を凍らせてしまおうと手をかざした、そのときだった。
「おっと、それはさせねぇよ」
背後から伸びてきた腕が、私の手を掴む。
「っ──」
とっさに振り払おうとするが、あっけなく後ろ手にひねられ、がっちりと羽交い締めにされた。
「おお怖い。魔術が使えるってことは、姉ちゃん、お貴族様か」
耳元で囁く声が耳障りだ。
男は三十代半ばだろうか。小麦色の肌に浅黒い髭を生やしている。体格はそれほど良さそうではないが、その手の力は驚くほど強い。
「こりゃお宝ゲットだな」
残りの二人が嬉々として近づいてくるのが視界の端に映る。
──しまった。
唇を噛む。油断していた。
ゲームでは、暴漢は二人組だったはず。しかし、現実は三人組だったのだ。
男を振り払おうとするが、単純な男女の力の差は埋めがたい。その腕が容赦なく私を拘束し、男たちの視線が絡みつく。生理的な嫌悪感が全身を駆け巡り、私は思わず身を強張らせた。
眼前に迫る男の手が伸びる。
私は反射的に目をぎゅっと瞑った。
だが──
いつまで経っても、その手が私に触れることはなかった。
続けざまに三度、鈍い音が響く。何かが地面に崩れ落ちるような、あるいは闇に呑み込まれるような音。
そして、私を縛っていた拘束がふっと解けた。
恐る恐る目を開ける。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
太い腕の大男、細身の男、私を羽交い締めにしていた髭面の男──
彼らは、文字通り”いなくなっていた”。
そこには誰も立っていない。
「……え?」
息を呑む。
──まさか……
頭の中に、ひとつの答えが浮かび上がる。
それは、私の知る限りたった一人しかなし得ない芸当だった。
静寂だけが、路地裏に漂っている。
震え出しそうになる体を自分で抱きしめ、力が抜けたようにその場にへたり込んだ。公爵令嬢としての完璧な立ち振る舞いなど、今はどこか遠い世界の話に思えた。
「クラリス様!?」
慌てた声が路地裏に響く。顔を青ざめさせたリナが駆け寄ってきた。
「どうしたんですか、クラリス様!?」
肩にしがみつくようにして、彼女は必死に私を覗き込む。彼女の目には心配が溢れていた。
「……大丈夫よ」
取り繕うように目を閉じ、私はそっと立ち上がった。
背後からルークの声も聞こえてくる。おそらく、私たちがいないことに気づいて探してくれていたのだろう。
しかし──
この場で何があったのかは、私にしかわからない。
目を閉じたほんの一瞬の間に、すべての痕跡が消えていたのだから。
たった数秒で完璧に痕跡を消し去る力。
自分の力に自信を持っていたはずの私が、それを軽く超える存在の影に打ちのめされる。
私は唇を噛みしめ、震える手をぐっと握り締めた。
次回は2/28(金) 19:00更新予定です。




