【リナ】初めてのお泊り 2
──そして、今に至る。
執事らしき初老の男性に丁寧に迎えられ、侍女らしき可憐な女性に荷物を持たれ、私は言われるがままに屋敷へ足を踏み入れた。
靴越しに感じる床の感触はふんわりと柔らかく、絨毯が驚くほど上質なことが察せられる。
これ、絶対高いやつだ……!
一歩踏み出すごとに神経がすり減る。
どうやら私は直接、クラリス様の部屋に通されるらしい。靴はもちろん、服も心も清めてから出直したい気持ちでいっぱいだった。
そんな心境で冷や汗をかきつつ、侍女さんの後ろをついていくと、途中でルークくんと鉢合わせた。
ああ、そうだ。
ルークくんはクラリス様の弟なんだから、ここにいるのは当然か。
ルークくんは目を丸くし、私の登場に驚いている様子だった。
「リナ? 一体どうしたの?」
「……どうしたんだろうね……」
私自身にも答えはなく、小さく呟く。ルークくんの疑問に答えられる説明を、今の私は持ち合わせていなかった。
「わたくしが呼んだのよ」
私たちの疑問を解消できる唯一の人物が、ルークくんの背後からすっと現れる。
「姉さんが?」
ルークくんが振り返り、訝しげに問いかける。変わらず凛とした美貌をたたえるクラリス様は、静かに頷いた。
「定期テストまで一週間、リナさんにはこの屋敷で寝泊まりしていただきます」
「──は? えぇっ!?」
「……ええっと……」
どうしてそうなったのか。
初めてこの話を聞かされたとき、私は今のルークくんと同じように声を上げた。
二度目の今も、やっぱり納得はできていない。
どうやら定期テストの勉強で根を詰めすぎた私が倒れてしまったことを、クラリス様は自分のせいだと受け止めたらしい。二度とそんなことが起こらないようにと、私を直接監視下に置くことに決めたようだ。
いや、あれは完全に私の自己管理の問題であって、クラリス様に責任など一切ないのだけれど。
完璧な公爵令嬢である彼女にとって、それは耐え難い失態だったのだろう。
私のせいでそんな思いをさせてしまったのだから、ここで「そんなに気を遣わないでください」と逆らうのも、なんだか申し訳ない。
──でも、こんなところで寝たら、余計に寝不足になりそうだ……
普段の生活だけでも、私は緊張しっぱなしだというのに。これ以上クラリス様を追い詰めないようにしないと……!
「エミリア。彼女の荷物は南側の客室に運んでちょうだい。わたくしも定期テストまで、客室で寝泊まりします」
「承知いたしました」
「え、えぇ……?」
さりげなく衝撃の発言をされ、私は思わず変な声が出た。
どうやら侍女さんはエミリアさんというらしい。クラリス様の侍女にふさわしく、彼女の動きは一つひとつが優雅で品がある。
流れるような動作で私の荷物を持ち上げると、柔らかな足音で屋敷の奥へと向かっていった。
──とても美しい光景だったけれど、それどころじゃない。
「クラリス様! そこまでしていただくわけには──」
「安心なさい。部屋は別よ」
さらりとそう言われ、私は心の中でズッコケた。
いやいやいや、違う。心配なのはそこじゃなくて!
「ク、クラリス様、さすがに……!」
「大丈夫よ。わたくしはどこでも眠れます」
──そうじゃないんですってば!!
話がどこまでも噛み合わない私たちを見かねたのか、ルークくんが助け舟を出してくれた。
「姉さん。ちょっとやりすぎじゃない? リナが困ってるよ」
至極もっともな言葉に、私は内心感謝を送る。
「……迷惑、だったかしら」
クラリス様がかすかに眉をひそめ、小さく呟いた。
普段のクラリス様なら、こんなことで動揺などしないはずだ。それなのに、わずかに伏せられた瞳に、彼女の困惑を感じ取る。
──あれ? ちょっと待って。
今、クラリス様……少しだけど、落ち込んでる?
隣に立つルークくんも、明らかに動揺している様子だった。
「──い、いいえ!! 迷惑なんてちっとも!! むしろ光栄です!!」
慌てて叫んだ私の声が、屋敷に響き渡る。
クラリス様が驚いたように目を見開いた。
……しまった。声が大きすぎた。
けれど次の瞬間、クラリス様は安心したように微笑んだ。
「なら、良かった」
──ああ。
それは本当に、かすかに浮かんだ、淡い微笑みだった。
普段、氷のように冷たく見えるクラリス様の表情が、ほんのわずかだけ柔らかくなった。
その瞬間、私もルークくんも、完全に言葉を失った。
──きっと、無自覚なんだろうなぁ……
私は早鐘を打つ心臓を押さえながら、心の中で静かに白旗を振った。
次回は2/7(金) 19:00更新予定です。




