彼女の意思 1
定期テストまで残り一週間。毎日の早朝特訓の成果で、リナは目に見えて成長していた。
もちろん、優等生とはまだ言えない。だが、少なくとも赤点を免れるレベルには達しているだろう。ようやくスタートラインに立てた、といったところか。
もし彼女のステータスが数値で見えるなら、ポンコツと揶揄されることはもうないはずだ。
何より大きく変わったのは、リナ自身のやる気だった。
正直、何が彼女をここまで駆り立てているのか、私にはわからない。けれど、ゼノとの早朝特訓に全力で取り組む彼女の姿勢からは、強い意志が感じられた。私はほとんど見守るだけだったが、それでもひしひしと伝わってくる。
──もしかして、リナの本命はゼノなの?
そう疑いたくなるほど、彼女のやる気は眩しかった。
もしそうならば、難易度の高いゼノルートを進めるよう、慎重にサポートしなければならない。彼のルートは、一つでもイベントを逃せば失敗してしまうのだから。
「リナ殿はよく頑張っていますね」
低く響く声に、思考が引き戻される。声の主に目を向けると、ライオネルが穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
──だから、その微笑みは心臓に悪いのよ……!
少しは自重してほしい。
リナは少し離れた場所で、黙々と素振りを続けている。
早朝から勉強し、日中は授業と生徒会の仕事。そして今はこうして、ライオネルの個別指導に励んでいるのだ。
私はこの個別指導にも、結局ほぼ毎回同伴している。
リナの「一緒に来てほしい」という無言の圧を感じ取り、つい断れずにここまできた。さすがヒロイン、その魅力は攻略キャラ以外にも存分に発揮されるらしい。
最近は稽古の内容にも変化が出てきて、素振りだけでなく打ち込み稽古や受け太刀稽古も加わった。ライオネル相手にひたすら剣を振るリナと、容赦なく受け流すライオネル。二人のやり取りは、見ているだけで胸が熱くなる。
──イベントスチルだわ……!
ゲーム内でも、ライオネルとの個別指導でこの場面は存在する。
彼に真剣な眼差しを向けるヒロインの横顔と、どこまでも誠実に指導する彼の姿が、美しいスチルとして描かれていた。
実際にこの光景を目にしたときは、思わず感涙しそうになった。もちろん無表情のままで。
今日は稽古の締めとして、リナが素振り百回に取り組んでいる。
ライオネルはリナの様子を見守りながら、私の隣に立っていた。
「彼女は体幹がしっかりしていますね。飲み込みが早いのも、そのおかげでしょう。これなら授業についていけないことは、もうないと思いますよ」
その言葉に、自然とリナへ視線を送る。
確かに、リナの体つきは細いながらも芯があり、剣を振る姿も様になってきた。
きっと、彼女のステータスを確認できれば、「体力」だけは飛び抜けているに違いない。問題は、残りのステータスがまだ追いついていないことだけれど。
「ライオネル様のおかげです。ご指導、感謝いたします」
礼を言い、軽く頭を下げる。
いくら力があっても、それを活かせなければ意味がない。ライオネルはリナの長所を見抜き、そこを引き出してくれた。その成果が、今目の前にあるのだ。
「ク、クラリス殿、顔を上げてください」
ライオネルの慌てた声に、私は顔を上げた。
すると、想像以上に近い場所に、彼の顔があった。
どうやら彼は、こちらを覗き込むように屈んでいたらしい。私が顔を上げたことで、二人の距離はたった十センチほどしかなかった。
ライオネルの瞳が、至近距離で私を映している。
青みを帯びた灰色の目がわずかに揺れていた。
──近い、近すぎる。
イケメンに至近距離で見つめられることの破壊力を、私は改めて思い知った。
いや、知っていたけれど、知識と実体験はまったくの別物だ。
「……クラリス殿……」
私を呼ぶライオネルの声は、どこか掠れていた。
その頬にはうっすらと赤みが差している。彼も、この状況に戸惑っているらしい。
目の前のこの造形美をもう少し堪能していたい──いやいや、ダメだ。心臓が持たない。
私は内心の葛藤と戦いながら、視線だけをなんとか逸らす。
その瞬間だった。
カラン──
甲高い音と同時に、何かが倒れる気配がした。
反射的に視線を向けると、地面に倒れ伏すリナの姿が目に飛び込んできた。
「──リナ!」
自分でも驚くほど、強張った声が漏れる。
クラリス・エヴァレットとしての仮面が剥がれ落ち、悲鳴に近い叫びが口をついて出た。
リナの細い体はぴくりとも動かない。そばに駆け寄ると、彼女は脂汗を浮かべ、荒い息を繰り返していた。
体が凍りつく感覚に襲われる。
「医務室に運びます」
すぐそばから響いた低い声に、私ははっと顔を上げる。
気づけばライオネルが、すでにリナの状態を冷静に確認していた。
彼の瞳には、動揺も焦りも見えない。常に戦場を駆ける騎士としての顔だった。
「……お願いいたします」
そう返した声は震えていた。
ライオネルはひと言もなく、リナの華奢な体を容易く抱き上げた。あまりにも自然な動作に、思わず見惚れそうになるが、今はそれどころではない。
私は自らの動揺を噛み締めながら、ライオネルの背を追った。
廊下に響く靴音が、妙に遠く聞こえた。




