落ち着いて考えよう
──まずは状況を整理しなくては。
私は深呼吸をして、心の中で自分に言い聞かせた。突然の記憶の奔流で混乱していたが、この場で何が起こっているのかを冷静に理解する必要がある。
前世で夢中になってプレイしていた乙女ゲーム「Destiny Key ~約束の絆~」。この世界のストーリーは、「封印の鍵」と呼ばれる力を持つヒロインが、攻略キャラたちとの絆を深めることで、「古代の神」の復活を阻止する物語だった。そして私は、そのヒロインの前に立ちはだかる悪役令嬢──クラリス・エヴァレットとして転生していた。
なぜこんなことになったのかはわからない。だけど、そこは悩んでも仕方がないと理解し、ひとまず棚上げする。
少し目を閉じて、クラリスとしての今世を思い返す。
この学園──「Destiny Key ~約束の絆~」の舞台であるエリューシア学園での日常は、ゲームの序盤とほとんど同じように進んでいる。ヒロインは平民出身で、貴族社会の礼儀や文化に疎い。だからこそ、時折無礼を働いてしまうことがあった。今まさに起こったのは、その典型的なシーンだったのだ。
「クラリス、さっきのは少し言いすぎだ」
前を行くアレクシスの声に、私はそっと目を開けた。彼の整った顔立ちと鋭い青い瞳が、まっすぐにこちらを射抜いてくる。短めのブロンドの髪は日差しを受けて輝き、その姿はまさに王族の威厳を体現していた。
アレクシス・フォン・エルデンローゼ──彼はこの国の王太子であり、学園の生徒会長でもある。そして、ヒロインが初めて出会う攻略キャラだ。
冷静沈着で知的、誰にでも公平で、その厳格な姿勢から「聖王子」の異名で称えられている。民衆からの人気は絶大で、彼自身も国を背負う覚悟を持ち、常に冷静に状況を見定める姿が印象的だった。
彼は表面上は完璧な王族の佇まいを見せるが、その裏には深い優しさと責任感が潜んでいる。学園内では学問や剣術の成績も優れ、誰もが認めるリーダーシップを持っていたが、それが時折、近寄りがたさをも生んでいた。
そんなアレクシスルートでは、彼の内に秘めた弱さや葛藤が徐々に明かされ、信頼関係を築くことで彼が抱える重責を分かち合えるようになるのが見どころだった。最後にはヒロインと真の絆を選び、二人が将来の王と王妃として未来を歩むことを約束するハッピーエンドを迎える。
そして私は、その二人の仲を妨害する王太子の婚約者──礼儀のなっていない、平民出身のヒロインをいじめる、見事な悪役令嬢。
「……そうかもしれません」
私は一瞬だけ目を伏せ、冷静を装いながら答える。アレクシスが私にたしなめる言葉をかけるのは珍しいことではなかったが、今日は前世の記憶を思い出したばかりで、内心の動揺を隠し切れなかった。彼の言葉に、自分がやや厳しすぎたことを認めざるを得なかった。
──彼が正しい。リナは平民で、この世界の礼儀に疎いのは当然のこと。
私の内心で納得が生まれる。そんな彼女に対して無礼を責めるのは、私の役割とはいえ、本来の私の性格に反していた。だからこそ、素直に「申し訳ありません」と言葉を続けた。
アレクシスの表情が驚きに変わる。彼は、一瞬目を見開いた後、眉をわずかに寄せた。私の素直な謝罪を予想していなかったことは明白だった。
──しまった。やらかした。
この世界でのクラリス・エヴァレットは、強気で冷徹な令嬢として知られている。素直に謝る姿は、彼らの認識とあまりにも異なっていた。
頭の中が一瞬真っ白になるが、幸いなことに、このクラリス、内心が表に出ない完璧なポーカーフェイスの持ち主だった。
私は冷静さを保ちながら「用事を思い出しましたので、失礼いたします」と告げて、アレクシスの横を通り過ぎる。彼の視線を感じながらも、一切の振り返りを見せることなく、廊下を進んだ。
──やはり、まずは状況を整理しなくては。この世界は今どんな状況なのか、そして私がどう動くべきなのかを。




