【ルーク】僕だけが知っている 1
僕にとっての姉さんは。
すべてが完璧で、それゆえ近寄りがたく、そして──
「姉さんがおかしい?」
隣を歩くアレクシスの言葉を、僕は訝しげに反芻した。彼は前を向いたまま、苦虫を噛み潰したような表情をしている。姉さんの話題を出すとき、いつも悔しそうな顔をするアレクシスだが、今日の表情には戸惑いの色が混じっている気がした。
「そうだ。弟のお前から見て、何か気づくことはないか?」
「何か、ねぇ……」
大体からして、姉さんは普通じゃない。むしろ、昔から常識外れのおかしさがデフォルトだ。
でも、そんなことはアレクシスも百も承知だろう。彼が気にしているのは、いつものおかしい姉さんが、さらにおかしくなっているということなのだろう。
僕は考えるように顎に指を当てた。
最近の姉さん……僕の目には、相変わらず完璧無比な公爵令嬢に見える。
どんな状況でも微塵の隙を見せず、気品と威厳を保つ姿は、まさに公爵令嬢の鑑だ。人目を引く美貌に加え、礼儀作法や学識、剣術に至るまで抜け目がない。それはいつもと変わらずだ。
ただ、一つだけ心に引っかかることがあった。
「そういえば……僕と同じクラスの特待生のことを気にしてた」
「リナ・ハートか」
さすが生徒会長。この学園の異分子とも言える特待生の存在も、しっかり把握しているというわけか。
「うん。親切にしてあげろって言われた」
「親切に……!? 彼女が……!?」
僕の言葉に、アレクシスは明らかに驚いた表情を浮かべた。その気持ちはよくわかる。
あの姉さんが特定の誰かを気にかけて、しかも「親切にしろ」なんて言うのは、僕にとっても青天の霹靂だったのだから。
クラリス・エヴァレット。この完璧な公爵令嬢が僕の“姉さん”になったのは、僕が三歳のときだった。
僕の家はエヴァレット家の分家で、僕は五人兄弟の末っ子だった。本家の一人娘だったクラリスが未来の王太子の婚約者に内定し、本家を継ぐ人間がいなくなったことで、分家の中でも目立たなかった僕に白羽の矢が立った。
エヴァレット夫人はすでに病で他界しており、エドワード公爵は再婚を望まず、家督を継ぐ者を養子として迎える必要があったらしい。そうして僕は、新しい“父さん”の長男、新しい“姉さん”の弟となった。
まだ物心つくかつかない頃のことだったが、姉さんに初めて会ったときの印象は、今でも鮮明に覚えている。
彼女はまるでお人形のように綺麗だった。艶やかな黒髪に整った顔立ち、宝石のような深い紫の瞳。しかし、そこには感情がなかった。その視線が無表情で僕を見下ろしていたのだから、幼い僕にとっては衝撃的だった。同じ生き物とは思えなかったし、絵本の中で出てくる魔女が人間に化けているのではないかと、本気で恐れていた。
姉さんはそのときから、すでに完璧だった。剣術も魔術も、幼いながらその域は常人のそれを凌駕していた。
エヴァレット家の家訓である「完璧であれ」を見事に体現した完全無欠の人。それが姉さんだった。その存在感は圧倒的で、まだ幼かった僕には、大きなプレッシャーとなった。
ただ──そんな完璧な姉さんだったけれど、決して冷たい人ではなかった。
エヴァレット家の跡取りとして迎えられた僕には、振り返ると到底子どもがこなせるとは思えないような課題が、毎日のように課せられた。
毎日泣いていた。泣きながら勉強し、泣きながら剣を振る。家庭教師は事あるごとに僕を姉さんと比べ、「クラリス様ならば……」と溜め息交じりに僕の未熟さを嘆いた。
ある日、僕は泣きながら木剣で素振りをしていた。もう腕が上がらなくなるまで振り続けたが、どうしても型が崩れる。泣きすぎて視界がぼやけ、手が木剣を握る力を失い、その場にへたり込んだ。
もう嫌だ。ここから逃げ出したい。
前の家には戻れないことはわかっていた。でも、この地獄のような日々から、とにかく逃げたかった。
視界に足が見えた。姉さんだった。無表情のまま、僕をじっと見下ろしている。
怖かった。姉さんの静かな視線が、全てを見透かしているように感じられた。怖さが涙を誘い、更に泣いた。
すると、姉さんはしゃがみ込み、地面に転がった僕の木剣を拾い上げる。そして、もう片方の手で僕の手を掴んで無理やり立たせた。
「見ていなさい」
そう言うと、姉さんは僕の隣に立ち、静かに木剣を構えた。そして、流れるように素振りを始めた。
その型は驚くほど美しかった。家庭教師が見せるお手本とは違い、無駄な力が一切入っておらず、どこか真似しやすさを感じさせる動きだった。
しばらく振った後、姉さんは僕を見つめ、「やってみなさい」と命じた。
僕は言われるがまま、差し出された木剣を受け取り、構え直した。
初めは、手足がぎこちなく、まるで木偶の坊のようだった。しかし、何度か振るううちに、少しずつ姉さんの動きを再現できるようになっていった。力みが抜けていくと同時に、心の重荷も少しだけ軽くなるような気がした。
いつの間にか、涙は止まっていた。
僕が型どおりに振れるようになると、姉さんは小さく頷き、「続けなさい」と一言残して、立ち去っていった。
その後ろ姿を、僕は呆然と見送るしかなかった。
それからというもの、姉さんは僕が困っていると、何も言わずに近づいてきて、的確にコツを示してくれるようになった。
その言葉には温かみなど一切なかったが、家庭教師の回りくどい指導よりも、よほど実践的でわかりやすかった。再現もしやすく、結果が出るのが早かった。年が近いせいもあるのだろう。姉さんは、僕がどこでつまずいているのかを、誰よりも熟知していた。
当時の僕は幼すぎて、姉さんの行動の意味がまるでわかっていなかった。ただ、姉さんに教えてもらえると、なぜかできるようになる。それだけは理解していたから、素直に従った。もちろん、相手は姉さんだ。わかりやすい指導でも、一切の容赦はなかったけれど。
そんな日々を重ねるうちに、僕は少しずつエヴァレット家の生活に慣れていった。
周りの目も、徐々に僕を認めるものへと変わり、気がついたら、笑顔を見せられるようになっていた。
その頃になって、ようやく僕は気がついた。
姉さんは完璧だ。しかし、その完璧さを手に入れるまでに、僕など想像もできないほどの努力をしてきたのではないか。
だからこそ、僕がどこでつまずいているのかを瞬時に見抜き、それを乗り越えるための道筋を示すことができるのだ。
姉さんだって、最初から完璧だったわけじゃない。常人では考えられないほどの努力を重ねた結果、あの完璧さを手にしたのだ。
その事実を理解したとき、僕の中で姉さんは「怖い人」ではなくなっていた。
姉さんも僕と同じ人間で、ただ誰よりも努力を惜しまない人──尊敬できる人。
そのことを認めるのは、正直少し気恥ずかしかった。
家族に対して素直にそういった感情を表すことができる年齢ではなくなっていた僕は、その思いを胸の内に隠した。
姉さんはああいう人だから、周囲から「氷の公爵令嬢」なんて誤解されて呼ばれているけれど、僕は本当の姉さんを知っている。
僕だけが知っている──はずだったのに。




