ヒロインの笑顔 2
ライオネルとの個別指導は、剣術訓練用のホールで行われる。
この場所は一般の生徒たちの目につきにくい位置にあり、ゼノの個別指導のときと同様、彼女が特別扱いされていることが目立たないよう配慮されていた。
なにせ、リナが生徒会の見習いになった時点で、周囲からのやっかみは既に始まっているだろう。それに加えて、この学園でも特に人気のある教師であるゼノとライオネルから個別指導を受けていると知れれば、嫉妬から嫌がらせをする生徒が出るのは目に見えている。
実際、ゲーム内でも似たような場面があった。リナが嫌がらせを受け、それを攻略キャラが助けることで好感度が上がるイベントだ。
だが、今のリナの状態では助けに来てくれる攻略キャラはいない。嫌がらせを受けるだけではあまりにも不憫だ。
「お待ちしておりました、リナ殿。……クラリス殿とルーク殿もご一緒ですか」
朗らかな声とともにライオネルが現れる。
明るい笑顔が彼の持つ柔らかな雰囲気をさらに引き立てているが、その背後に見える剣士としての風格は隠しようがない。
ライオネル・アッシュフォード。彼はこの国の王立騎士団の一員でありながら、学園の特別講師として剣術を教えに来てくれている。高潔な人柄と確かな実力から、学園内外を問わず多くの人々に慕われている存在だ。
彼の親しみやすい笑顔に、リナも少し緊張がほぐれたのか、小さく頭を下げた。
だが、その表情にはどこか不安の色が残っている。無理もない。彼女はこれまで、危険だという理由から初回の授業以降、木剣の使用を禁じられていたのだから。
まあ、あの鬼神のような素振りを見れば、誰だって木剣を取り上げたくなる。剣術に関してはポンコツな彼女だが、無駄に体力と筋力だけはしっかり備わっていて、それが逆に危険さを増幅させているのだ。見ていて冷や冷やする。
「今日は剣術の基礎をもう一度確認しつつ、少しずつ実戦に移っていくつもりです」
ライオネルは優しく語りかけながら説明を始めた。その声には押し付けがましさは一切なく、ただ彼女を導こうとする穏やかな意志が込められている。
ああ、やっぱりライオネルは素敵だ。その包容力と気配りで、全国の乙女ゲーマーを虜にしただけのことはある。
リナはライオネルの言葉に真剣な表情で耳を傾けていた。顔を上げ、瞳をまっすぐに向けるその姿には、必死に応えようとする意志が垣間見える。
彼女はぎこちなくもライオネルの一挙手一投足を見逃さないようにしており、その姿に私は少し安心した。
この調子なら、好感度も順調に上がっていくに違いない。リナの頑張りとライオネルの指導が噛み合えば、きっと彼女の成長も期待できる。
まさに一石二鳥!
ライオネルから木剣を手渡されたリナは、それを恐る恐る手に取り、構えた。しかし、その顔色はどこか青白い。肩に力が入りすぎているのだろうか、手の震えがほんの少し伝わってくるようだった。
「ねぇ、姉さん。リナの顔、青くない?」
隣でリナの様子を見守っていたルークが、不安げに耳打ちしてくる。
私もリナをじっくり観察する。確かに、彼女の顔は青ざめ、初回の授業のときとも違う不自然な硬さが見て取れた。
リナの目は木剣に釘付けになっている。その視線には恐怖にも似た感情が滲んでいた。
そこで私はようやくその理由に思い至る。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。一体何回、このゲームをプレイしたというのか。
私は静かにリナに近づいた。彼女の視線は木剣から動かない。周囲の声も耳に届いていないようだった。
心配そうに彼女を見守っていたライオネルが私の動きに気づく。
「クラリス殿?」
彼の呼びかけに、私は無言で頷く。
ライオネルは少し戸惑ったようだったが、私に場所を譲り、一歩後ろに下がる。
「リナさん」
小さく名前を呼ぶ。だが彼女の耳には届いていないのか、反応はない。
リナは木剣を握ったまま、微動だにしなかった。その手はかすかに震えており、彼女が抱える恐怖が手に取るように伝わってくる。
私はそっとその震える手に自分の手を添えた。彼女の手が驚きに跳ねるのを感じながらも、逃さないように優しく包み込む。
耳元で、小さな声で囁いた。
「これは誰かを傷つけるためのものではないわ。あなたは誰かを守るために、この剣を振るうのよ」
リナの視線がゆっくりと顔を上げ、私の目を捉えた。至近距離で覗き込んだ彼女の瞳には驚きが揺れている。
まるで、幼子が初めて世界の広さに触れたときのような戸惑いと、微かな希望がそこにあった。
──リナ・ハート。「Destiny Key ~約束の絆~」のヒロイン。
乙女ゲームのヒロインにふさわしい、天真爛漫で花のように可憐な少女。だが、その背景にはヒロインに似つかわしくない暗い過去が隠されている。
このゲームはリリース後、乙女ゲーマーの間で多大な人気を博し、すぐに設定集が販売された。その中にはゲーム本編では語られない細かな設定まで記載されており、特にヒロインの経歴には驚かされた。
彼女は幼い頃、両親を盗賊に襲われ、孤児となった。その後、「星の祈り」と呼ばれる孤児院で育ち、院長や仲間たちの温かさに支えられ、現在の明るく純粋な性格が形作られた──これがゲーム本編で明かされる彼女の背景だ。
だが設定集には、ゲームでは触れられない真実が記されていた。
それは、彼女が両親を失った盗賊襲撃の際、自ら盗賊の剣を奪い、その人物を刺殺していたというものだった。
救出されたとき、彼女の周囲には両親と盗賊の亡骸が横たわっており、彼女自身は気を失っていた。その場面を目撃した衛兵たちは、彼女の両親が娘を守るために盗賊と相打ちになったと結論付けた。そして、彼女自身もその出来事の記憶を失っていた。
この設定を初めて読んだときの衝撃は忘れられない。
「ナニコレ誰得設定!?」と本気で叫びたくなるほどだった。それ以来、ゲーム本編で彼女の笑顔を見るたびに、いたたまれない気持ちになったものだ。
しかしもし、この記憶が完全に消え去ったわけではなく、彼女の無意識の中に潜んでいるのだとしたら?
そして今、剣を握ることでその記憶が呼び起こされようとしているのだとしたら──
「剣はあくまで道具。あなたは道具を正しく使うことができる。だから、道具を必要以上に怖がる必要はないのよ」
この剣は、彼女が過去に誰かを傷つけたものとは違う。これは彼女がこれから、多くの人を救うための力となるものだ。過去に囚われず、未来へ歩み出すための手段なのだ。
気づくと、リナの手の震えは止まっていた。まるで剣そのものの存在を確かめるように、彼女は柄をゆっくりと握り直す。その仕草には、どこか覚悟のようなものが感じられた。
やがてリナは肩の力を抜き、剣を自然と下げる。その動きに合わせるように、私もそっと手を離した。
リナの視線が一瞬、私の手を追ったかと思うと、彼女は顔を上げて私を見つめる。そして、気恥ずかしそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます、クラリス様」
──ああ、なんてかわいいの。
その笑顔は、まるで光そのものだった。
最初の奇行ばかりが印象に残っていたが、彼女はやっぱりヒロインだ。女の私ですら胸が高鳴るほど、その笑顔は愛らしく、まぶしい。
あまりの眩しさに、心まで浄化されそうになるのをぐっと堪え、私は顔をそらす。気を取り直して訓練を進めてもらおうと、ライオネルに視線を向けた。
しかし、その彼の顔は──呆然としていた。いや、それだけではない。何か憑き物が落ちたかのような、複雑な感情が混じった表情をしていた。
おや? まさか、ライオネルもヒロインの笑顔の破壊力にやられてしまったのかしら?
「ライオネル様?」
呼びかけると、彼はハッとしたように目を瞬かせた。
「……っ、も、申し訳ございません! では、続きを行いましょう!」
彼は慌てて背筋を伸ばし、声を張り上げる。普段はあれほど余裕たっぷりで大人の魅力を振りまくライオネルが、こんなに動揺している姿は滅多に見られるものではない。
だが、リナの笑顔がその原因であるのなら──大いに結構だ。むしろ、これこそ私の狙い通りと言える。
私は、ライオネルの指導を真剣に受けるリナの姿を眺めながら、内心満足げに頷いた。




