【リナ】手のひらのぬくもり 4
そんな忘れられない出会いから二日後、私は再びお二人と遭遇することになる。
初めての魔術の授業だった。
魔術が貴族の嗜みであり、特別な才能だということは知っていた。でも、それは平民にはほとんど関係のない話だった。
私にとって魔術なんて、絵本やおとぎ話の中の世界。まさか自分がその魔術を学ぶ立場になるなんて、想像したこともなかった。
授業が始まると、教壇にはゼノ先生が立っていた。その瞬間、クラス全体の空気が変わった気がした。
なんというか……先生とは思えないほど美しい。
男の人に「美しい」という表現が正しいのかはわからないけれど、思わずその言葉を使いたくなるほどの美貌と雰囲気だった。長いワインレッドの髪がさらりと揺れるたびに、まるで神話の登場人物が目の前にいるような錯覚を覚える。
その圧倒的な存在感に息を飲み、見惚れてしまった。じっと見つめていると、なんだか頭がふわふわしてきて……危うく思考が迷子になりそうだった。
慌てて視線を手元の初級魔術書に移す。
……だが、これがまた、さっぱりわからない。
ゼノ先生が魔術書の内容について丁寧に説明しているはずなのに、その言葉がまるで頭に入ってこない。
魔術書に目を落としてみても、そこに書かれている言葉は、私にとっては異世界語に等しかった。
え、これ、本当に同じ国の言葉……だよね?
貴族と平民で使っている言語が違うんじゃないかと、本気で疑いたくなる。周囲の生徒たちは、みんなスラスラと魔術書を読んでいる。
それを横目に見ながら、ますます自分が場違いな存在に思えてきた。
そのとき、ゼノ先生が教室全体に向けて告げた。
「上級生にアシスタントとして参加してもらいます」
その言葉に、一瞬希望が湧いた。
わからないことがあれば、上級生に質問すればいい。きっとわかりやすく教えてくれるに違いない。
けれど、その希望は次の瞬間、音を立てて崩れ去った。
教壇の前に現れたのは、あの二人だったのだ。
王太子殿下、アレクシス・フォン・エルデンローゼ様。そして、筆頭公爵家の令嬢、クラリス・エヴァレット様。
二人の姿が現れるだけで、教室全体の空気が一変する。その存在感は圧倒的だった。
特にクラリス様の紫紺の瞳が、じっと私に向けられた瞬間、私は硬直した。
だめだ……こんな方々に「わからない」なんて言えない……!
結局、何一つ理解できないまま実践練習の時間が始まってしまった。
周りの生徒たちは次々と初級魔術の構築に成功し、ロッドの先に小さな火を灯している。
どうして何もないところから火が出るの!? これ、ロッドに隠しボタンでもあるの?
私はロッドを凝視しながら、必死に火を出そうと集中した。
「どうしたのかな? リナ君」
ゼノ先生の声が聞こえた気がしたが、それどころではない。
火よ、出て! お願いだから出て!!
ロッドを前に突き出し、気合を込める。
「え、ええぇぇい!」
叫んでみても、ロッドは沈黙を保ったままだ。
もう一度振りかぶり、今度は全力で振り下ろす。
お願い、出てきて! 火!!
心の中で火に向かってエールを送り続けるが、ロッドから火が出る気配は一向にない。
そのとき、突然、冷たい手が私の手に触れた。
「おやめなさい」
ピタリ。私は動きを止めた。
その瞬間、手のひらから伝わる冷たい感触が、混乱していた私の意識を静かに引き戻していく。
ぼんやりとしていた視界が徐々に焦点を取り戻し、やがて自分の手に添えられた、白く細い手の存在に気がついた。
その手の主に、私は恐る恐る視線を移す。そして次の瞬間、目が合った。
「落ち着きなさい。魔術の構築に必要なのは、何よりも冷静さよ」
その声は静かでありながらも、決して揺るがない力強さを持っていた。
クラリス様の紫の瞳が、まるで凍りつくように冷たく、それでいてどこか優しさを湛えて私を見つめている。
その眼差しに導かれるようにして、私は振り上げていた手をゆっくりと下ろした。
自分の手に触れる冷たさは、一見無機質なようでいて、どこか穏やかで心地よい。その感触が、私の高ぶっていた感情を鎮めていく。
鼓動の高鳴りが徐々に落ち着いていくのを感じながら、私はようやく深い息を吐いた。
その時、自分の手に添えられた手の美しさに気がついた。白く透き通るような肌、繊細な指先。それがクラリス様の手だと悟ると、思わず顔に熱が集まるのを感じた。
「あ、あの……クラリス様……」
震える声で名前を呼ぶと、クラリス様の手がそっと離れていった。その冷たさが失われた瞬間、私はひどく寂しさを感じた。
その感情に戸惑いながらも、追いかけるようにして顔を上げる。
クラリス様の端正な顔立ちが目の前にあった。紫紺の瞳が冷静に私を見つめているのに、その奥にほんのわずかな優しさが宿っている気がして、心臓が大きく跳ねた。
「……っ!」
私は顔が熱を持って沸騰するような感覚に襲われた。冷静さなんて、保てるわけがない。
「あのっ、す、すみませんでしたっ!!」
もう限界だった。自分がどう感じているのかを整理する余裕などない。
私は全力でその場から逃げ出した。




