目覚め
──気づいたとき、私は母を見上げていた。
夢なのか、記憶なのかもわからないまま。
ベッドに横たわる母の手を握りしめながら、完璧な淑女になると誓った私に、母は少し寂しそうに微笑んだ。
「素敵よ、クラリス」
それなら──と、母は穏やかに続けた。
「完璧で……そして、幸せな淑女になってちょうだい」
私は首を傾げる。完璧で、幸せな淑女。
一体それは、どんなものなのだろう。
私の反応に、母はくすりと笑った。
「あなたのことを誰よりも大切に想ってくれる、素敵な殿方と一緒に、幸せになってほしいわ」
「お父様やお母様のようにね」と、いたずらっぽく微笑む。
……ますますわからなかった。
完璧であることと、誰かと共に生きること。
その二つが、どう関係するというのだろう。
母は、私の頬を包み込むように両手を添えた。ひんやりとした手の温度が心地よい。
母の手はいつも冷たかった。けれど、不思議とその冷たさが、心を落ち着かせてくれた。
「今はわからなくてもいいわ。でも、覚えていて。わたくしは、あなたに幸せになってほしいの」
灰青の瞳が、優しく細められた。
「あなたはエヴァレット家の子だから、完璧であることを求められるでしょう。でも、それだけでは“完璧”とは言えないのよ」
「そう……なのですか?」
「ええ。本当の意味で完璧な淑女は、幸せでなければならないの」
──完璧な淑女は、幸せでなければならない。
母が言うのだから、きっとそうなのだろう。
まだ理解は及ばなかったが、私はこくりと頷いた。
母は私の頭を撫で、静かに笑った。
「とても楽しみだわ。あなたは、どんな殿方と一緒になるのかしら。わたくしも、それを見たいわ……」
その言葉の奥に潜む悲しみの色に気づかず、私は顔を輝かせた。
私が“約束”を守れば、母はきっと元気になる。
──あのときの“魔法使いさん”の言葉は、本当だったのだ。
その希望を胸に、私は完璧を目指し続けた。
──母が亡くなってからも。
母との本当の“約束”を、忘れてしまってからも。
私は、完璧を求め続けた。
その記憶が、どこか遠い夢のように薄れていく。
「気になる人、です」
学園祭の前夜。
リナの問いかけに、私は唐突に母との“約束”を思い出した。
前世の記憶を取り戻す前までは、私はただ完璧を追い求めていた。
そして記憶を取り戻してからは、世界を救うために──自らの死を回避するために──ひたすら足掻いてきた。
どうすれば自分を完璧にできるか。
どうすればリナを完璧なヒロインに育てられるか。
そのことだけを考えて生きてきた。
“誰かと幸せになる”未来など……一度も、考えたことがなかった。
──でも。
リナの言葉を受けて、一瞬だけ脳裏に浮かんだ“ある顔”に。
私は、気づかないふりをした。
だって私は、悪役令嬢だから。
この世界のヒロインではないのだから。
そんなこと、許されるはずがない。
だから私は──その感情に、静かに、そして確かに蓋をした。
──グランドナイトガラの夜から、一週間。
長い夢を見ていたようだった。
目を覚ませば、私は公爵邸のベッドの上にいた。
治癒魔術のおかげで傷そのものは塞がっている。
けれど、まるでそこにまだ刃が残っているかのように──痛みだけは消えなかった。
その残滓のような痛みにうなされながら、私は長い間、夢と現のあわいを彷徨っていた。
前世の夢。
子供の頃の夢。
前世の記憶を取り戻した後の夢。
そして──ただの悪夢。
もう、どれが現実で、どれが幻なのかもわからない。
どんな夢も──今は痛みしか残さなかった。
……地獄のような日々だった。
けれど、一週間が経ち、ようやく痛みが薄れはじめると、ぼんやりしていた意識が次第に現実に戻ってきた。
部屋には、代わる代わる人が訪れた。
身の回りの世話をしてくれる専属侍女のエミリア。
学園医務室の先生、ミレイユ。
そして、ルークや父エドワードも、時折様子を見に来てくれた。
……でも、それ以外の顔は見ていない。
リナは……大丈夫だろうか。
ゲームでは、グランドナイトガラの夜──
ヒロインが絆を結んだ攻略キャラと共に「古代の神」を退けた後、王城へ招かれ、「封印の鍵」の力について教えを受ける。
その一連のイベントが、物語の転換点になるはずだった。
それももう、終わったのだろうか。
……結局、リナは誰と絆を結んだのだろう。
今の状況は、私が知るシナリオから大きく外れている。
つまり──私の知らないイベントが、あちこちで発生しているということ。
一体どんなイベントが起きたのか。
詳しく。スチル付きで。できれば回想機能も使わせて。
……だめだ。気になる。
攻略対象たちの反応とか、もう全部気になる。
そんなことを考える余裕が出てきた私は、ようやく身体を起こせるようになった。
エミリアに支えてもらいながら、ベッドの背にもたれるように上体を起こしていると、扉がノックされる。
入ってきたのは──父だった。
改めてその顔を見ると、血色の悪さが目についた。
いつも冷静沈着な人だからこそ、余計にやつれて見える。
……きっと、心配をかけてしまったのだろう。
「……調子はどうだ」
ほとんど感情を見せない父の声。
それでも、そのわずかな揺らぎの中に、確かな心配の色を感じ取る。
親子でなければ気づけない、ほんの小さな変化だった。
「はい。こうして体を起こせるようになりました。ご心配をおかけして、申し訳ございません」
治癒魔術は、本人の体力と魔素を代償に強制的に傷を塞ぐ。
けれど、本当に癒えるには──自分自身の回復力に頼るしかない。
しかも今回は、失血が多すぎた。回復に時間がかかるのも当然だ。
……まぁ、ラスボス相手にこの程度で済んだのだから、運が良かったほうだろう。
肩の傷は治癒魔術で塞がっていたが、薄く跡が残っている。
ミレイユ曰く、時間が経てば元通りになるらしい。
とはいえ、しばらくオフショルダーのドレスはお預けだ。
「……王城から、呼び出しがかかっている」
父の低い声に、私は無意識に背筋を伸ばしていた。
……来たか。
私はゆっくりと俯く。
父の視線を感じながらも、その顔を見ることができなかった。
父からは──あの夜に起こったことについて、何も問われてはいない。
けれど、彼はすべてを知っているはずだ。
国の中枢を担う人間であり、ゼノから報告を受け、今回の件の指揮を執っていたはずなのだから。
……半信半疑だったのかもしれない。
間接的にとはいえ、まさか娘からもたらされた情報が、ここまでの事態を招くとは、夢にも思っていなかったのだろう。
だが、事は起こってしまった。
そして、そのすべてを知っていた私は──おそらく、“危険人物”と見なされている。
城への召喚とは、すなわちそういうことだ。
「……承知いたしました」
私は小さく承諾を口にした。
そのとき、視界の端で父の拳が、わずかに力を込めるのが見えた。
「……お前が歩けるようになったら、登城することになる。それまで、しっかり体を休めなさい」
淡々とそう言い残すと、父は踵を返して部屋を出ていった。
静まり返った室内で、私は天井を見上げる。
……あの夜の記憶が、静かに蘇る。
──「古代の神」は顕現した。
私が漆黒の刃に倒れた後、リナは「封印の鍵」の力を使って、「古代の神」を退けたのだろう。
けれど、私はその瞬間を見ていない。
……それでも、わかる。
“あれ”はまだ、生きている。
これからヒロイン──リナは、攻略対象とともにラストバトルの地──つまり、“本体”のいる場所へ赴き、本当の意味で「古代の神」を封印しなければならない。
リナはすでに、「封印の鍵」を手に入れている。
きっと、彼女ならやり遂げるだろう。
──私の役目は、終わったのだ。
自身の破滅を防ぐために。
そして、世界の破滅を防ぐために。
私は、全力で走り続けてきた。
……そして今、すべてが終わった。
これから、どうすればいいのだろう。
胸の奥にぽっかりと空いた虚しさだけが残っている。
私は甲子園を制した高校球児のように、燃え尽きた気持ちでベッドに身を沈めた。
最終章になります。
ようやく、クラリスの心の変化を描くことができました。
今回のX投稿イラストは、そんな葛藤するクラリスです。
次回ep.149は、王城に参ります。
11月21日(金) 19:00更新予定です。お楽しみに!
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