【アレクシス】誓い
急激な魔素のうねりが収まり、会場を包んでいた圧迫感が少しずつ和らいでいく。
不安に張りつめていた生徒やゲストたちの表情にも、わずかな安堵が差し始めた。
私は彼らに笑顔で声をかけながらも、意識の一部を入口の方へと向けていた。
……ルークが戻ってこない。
魔素の低下を感じ取った直後、ルークはクラリスを探しに外へ走った。
止められなかった。──いや、止める気になれなかった。
自分の代わりに彼女を見つけてくれることを、どこかで期待していたのだ。
それから、かなりの時間が過ぎた。
それでも、彼は戻ってこない。
胸の奥に、鈍い不安が沈殿する。
ノアからの報告によれば、魔物の掃討は順調に進み、もうすぐホールの入口を開放できるという。
ガラに参加していなかった教師陣に加え、騎士団の応援も駆けつけ、すでに魔物は一掃されたらしい。
あとは、負傷者の救護を残すのみ──そう聞いた。
負傷者。
その中に、まさかクラリスが……
脳裏をよぎった最悪の想像を、奥歯を噛み締めて押し殺す。
……私は、王太子だ。
この場で、感情を表に出すわけにはいかない。
腹の底から沸き起こる焦燥と苛立ちを必死に押さえ込んでいると、入口の方でざわめきが起こった。
──どうやら、扉が開放されたらしい。
それを察知した人々が、一斉に入口へと押し寄せる。
貴族である彼らも、平静を装ってはいたが、得体の知れぬ恐怖と緊張に晒され続けていたのだろう。
抑え込んでいた不安が、ようやく解き放たれたのだ。
ノアが必死に人々を制御している。
だが、さすがにこの人数では彼一人では限界がある。
私はため息をひとつ落とし、彼を助けるために入口へ向かった。
混乱を防ぐため、順番に参加者たちを外へ誘導する。
そのとき──外から入ってくる人影を見て、思わず目を見張った。
「……カスパー学園長」
相変わらず、何を考えているのかわからない笑み。
ゆっくりとした足取りでこちらへ歩み寄るその姿に、眉が自然と寄った。
その穏やかすぎる笑顔が、この場の混乱と不気味なほど噛み合っていなかった。
今回の騒ぎで、予定されていた学園長の挨拶は中止になった。
だが、そもそもこの人は──どうして最初から会場にいなかった?
そんな疑問が顔に出ていたのかもしれない。
カスパー学園長はさらに笑みを深めると、穏やかな声で言った。
「さすがですね、アレクシス殿下。私などいなくとも、場を見事に収めてくださっている」
まるで試されているかのような言葉に、口の端が引きつる。
……落ち着け。こんなときに、この古狸に振り回されてどうする。
そのとき、学園長の背後から、遅れて一人の人物が歩み出た。
私はその顔を認め、無意識に表情を引き締める。
「──そなたが駆けつけてくれたのだな、ダリオ副団長」
「はっ! ライオネルより早馬を受け、直ちに参りました」
いつも上司である団長ヴィンセントの暴走に振り回され、眉間の皺が常態化している生真面目な副団長は、まるで儀式のように丁寧な所作で返答する。
……そうか。ライオネルが救援を呼びに行ってくれたのか。
彼の姿がここにないのも納得だ。おそらく、外で魔物の掃討に加わっているのだろう。
「外の状況はどうだ」
「はっ! 魔物の掃討は完了いたしました。すべて魔石に変じたことを確認しております。念のため、部下に周辺の警戒を続けさせています」
報告は完璧だ。……さすがダリオ副団長。
これがヴィンセントなら、今ごろ魔物相手に大立ち回りを演じて、事態の収拾どころではなかったはずだ。
ふと、カスパー学園長の視線を感じて、そちらに目を向ける。
彼はいつものように笑っていた。
だが、その笑みの奥に──かすかな影が見えた気がした。
その影が、自分の内に押し込めていた不安を静かに掻き立てる。
「……殿下。ここは私たちで引き受けます。負傷者の様子を、見に行っていただけませんか?」
学園長の言葉に潜む意図を、私は即座に悟った。
体が、わずかに強張る。
彼はそれに気づいていながら、まるで知らぬふりをして、笑みを深めた。
「彼らは医務室におります。……殿下が見舞いに行ってくだされば、皆、どれほど心強いことでしょう」
──限界だった。
それまで押し殺してきた焦燥が、胸の奥で軋む。
その痛みに耐えるように、私は学園長をまっすぐに見据えた。
彼もまた、すべてを見透かしたような目で応じる。
「……わかった。では、この場は任せる」
「御意に」
学園長としてではなく、臣下としての礼を取る彼に倣い、ダリオ副団長も膝を折った。
私はそれに小さく頷き、二人に背を向ける。
はやる気持ちに急かされるように、足が勝手に前へと出た。
次の瞬間には、もう走り出していた。
人混みをかき分けて駆け抜ける私に、周囲の視線が集まる。
だが──もう、止められない。
カスパー学園長は、何も言わなかった。
けれど、私は理解していた。
──負傷者の中に、クラリスがいる。
しかも、その反応からして、決して軽傷ではない。
胸の奥が焼けるような焦りを押し込めながら、私はもつれそうになる足を必死に動かし、医務室へと駆けた。
──その光景に、背筋が凍るのを感じた。
白いシーツの上に、黒髪が静かに広がっている。
彼女の肌はいつもよりも白く──いや、青ざめて見えた。
白と黒の鮮烈な対比に、息が詰まる。
一瞬、脳裏をよぎった最悪の想像を、周囲の様子で打ち消す。
ベッドに横たわるクラリスの隣では、リナが腕を枕にして眠っていた。
その傍らで、ルークが二人を守るように座っている。
医務室の入口近くには、ライオネルが立っていた。
彼は私に気づくと、静かに歩み寄ってくる。
「……何があった」
彼が口を開くよりも早く、問いを放っていた。
その声には、抑えきれぬ焦りが滲んでいたかもしれない。
だが、答えは別の方向から返ってきた。
「──強い魔物に襲われました」
振り向くと、少し離れた場所にゼノ先生が立っていた。
その服にこびりついた血を見て、すぐに悟る。
……彼が、クラリスをここまで運んだのだ。
「強い魔物、だと?」
「はい。ホール裏手の噴水で、リナ君が魔物に襲われていたところを、クラリス嬢が助けに入り、負傷したようです」
淡々と事実を述べる声に、私は一瞬、言葉を失った。
次々と疑問が浮かぶのに、どれも言葉にできない。
──なぜ、リナがあんな場所に。
──なぜ、クラリスがそれに気づいた。
──そして、なぜ……あなたが、彼女を。
ゼノ先生のアメジストの瞳が、眼鏡越しにこちらを射抜く。
どこか、すべてを見通しているような目だった。
まるで彼は、すべてを知っていて──
私だけが、何も知らないかのように。
混乱する思考を振り払うように、私はゼノ先生から目を逸らし、クラリスのもとへ歩み寄った。
私に気づいたルークは、疲れたように微笑んで見せる。私は小さく頷いて応じ、視線をベッドに戻した。
クラリスの隣で眠るリナの頬には、まだ泣き腫らした跡が残っている。自分のせいで傷つけてしまったという後悔が、彼女の胸をどうしようもなく締めつけているのだろう。
クラリスは──まるで息を止めているかのように静かだった。血の気を失った顔は青白く、生気が感じられない。かすかに上下するシーツの動きだけが、かろうじて彼女が生きていることを告げている。
シーツの隙間から覗く肩口には包帯が巻かれていた。治癒魔術で傷は塞がれているのだろうが、その痛々しさに自然と眉が寄る。
ほんの、ついさっきのことだ。
あのとき、私は彼女と踊っていた。
まるで永遠がそこにあるように──そう、信じていた。
漆黒のドレスは星空のように煌めき、彼女自身もそれに匹敵するほどに輝いていた。
彼女に触れられることを。
彼女の婚約者であることを。
……彼女の隣に在ることを。
あのときの私は、心の底から感謝していた。
なのに、今。
彼女は深い傷を負い。
そのとき、私は彼女の隣にいなかった。
奥歯を噛みしめる。自責と悔恨が胸を締めつける。
私が──彼女のそばに、いれば……
彼女を、こんな目には遭わせなかった。
──その瞬間。
これまでの彼女の行動が、次々と脳裏を駆け巡った。
リナと出会ってから、少しずつ変わっていったクラリス。
いつもリナを案じ、支え続けていた。
周囲から見れば、ただの過保護にも見えたあの行動は──
……彼女自身、こうなることを予見していたというのか。
手が震えそうになるのを抑え、そっと彼女の頬に触れる。
そこには、うっすらと血がついていた。
拭った指先に、彼女の体温がかすかに残る。
その感触を名残惜しむように確かめてから、私は静かに手を引いた。
胸の奥に、言葉にできない苛立ちが広がる。
それは彼女に向けたものではない。
──気づけなかった、自分自身への怒りだ。
もし、あのとき理解していれば。
ヒントは、いくつもあったはずなのに。
再び奥歯を噛みしめる。
なぜクラリスが、リナの危険を察知していたのかはわからない。
きっと、彼女には言えぬ事情があるのだろう。
それを私に明かすほどには、まだ信頼されていないのかもしれない。
──だとしても。
彼女を傷つけるものは、許さない。
クラリスがリナを守るというのなら、私は彼女たちを脅かす、すべてを排除する。
……激しい感情が、静かに形を変えていく。
それは怒りではなく、誓い。
その誓いを胸に、静かに背を向けた。
これでグランドナイトガラ編は終了です!
長かった……終わって良かった……(泣)。
今回のX投稿イラストは、ベッドで横たわるクラリスに触れながら、誓いを立てるアレクシス。
今までのイラストとテイストが違いますが、その部分も含めてお楽しみください。
次回ep.148、とうとう最終章に入ります。
11月18日(火) 19:00更新予定です。お楽しみに!
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