【ライオネル】その手を離さない
学園に戻った瞬間、鼻をつく血の匂いが押し寄せた。
そこら中に魔物の死骸や、すでに魔石へと変じた残骸が転がっている。
俺とともに駆けつけた副団長率いる救援部隊の面々も、その異様な光景に顔をしかめていた。
「なんなんだ、これは……」
誰もが胸に浮かべていた疑問を、ダリオ副団長が低く吐き出す。
普段からヴィンセント団長の無茶に振り回されているせいで、彼の眉間には常に深い皺が刻まれている。
今はそれが、一段と濃く刻まれているように見えた。
「……まったく。嫌な予感がしていたんだ。あの人が突然、訓練に行けなんて言い出すから……どうせ良からぬことを企んでいるとは思っていたが、まさかこんな──」
「副団長、落ち着いてください。団長への文句は後にしましょう」
「……ああ、そうだな」
部下の一言に冷静さを取り戻した副団長は、すっと顔を上げて灰緑の瞳を周囲へ向ける。
「負傷者の確認を急げ。避難している者がいれば保護しろ。残存する魔物は確実に仕留めろ」
「「「はっ!!」」」
短く鋭い指示と同時に、騎士団一の精鋭と名高いダリオ隊が一斉に散開していった。
……さすが、ダリオ副団長だ。
普段は突発行動ばかりの団長の尻拭いをさせられているが、戦場では冷静沈着な采配を振るう名参謀。
この副団長がいなければ、王立騎士団はとっくに瓦解していただろう。
ヴィンセント団長とダリオ副団長──この二人の組み合わせだからこそ、俺たちは“歴代最強の王立騎士団”と呼ばれているのだ。
すでに魔物と交戦していた教師陣とも合流し、一糸乱れぬ連携で次々と斬り捨てていく。
魔物の残党はまだ散見されるものの、出現直後の異様な強さはすでに失せていた。
──本当に、この状況は何なんだ……
だが、今は考えている余裕はない。
俺も援護に加わろうと足を踏み出した、そのとき。
「ダリオ副団長。よく来てくださいました」
闇の帷を裂くようにして、カスパー学園長が姿を現した。
あまりに気配を感じさせぬ登場に、思わず身を固くする。
副団長も同じだったのか、顔をしかめて眉間の皺をさらに深く刻んだ。
「カスパー先生……驚かせないでください」
「おや、ダリオ副団長ともあろう者が、私のような老いぼれに驚くことはないでしょう」
どうやら副団長は、学園長が一教師だった頃の教え子らしい。
確かに、カスパー学園長は長きにわたりこの学園に在籍している。
俺が特待生として学園に入学した頃には、すでに彼は学園長だった。
だから俺は、彼と「学園長と生徒」という距離感でしか接したことがない。
だが、副団長にとってはどうやら違うらしい。
言葉の端々や視線のやり取りから伝わるのは──もっと近い、「一教師と生徒」の距離感だった。
「生徒たちやゲストはルーセントホールにいます。もう新たな魔物が現れることはないでしょう。ここにいる残党を片づけたら、彼らを迎えに行きましょう」
「……? それはどういう意味ですか」
「……ああ、シリル師団長の結界のおかげで外までは伝わらなかったのかもしれませんね」
学園長の説明によれば──異常な魔素の高まりを契機に、どこからともなく魔物が出現したらしい。
そして今は、それが嘘のように収束しているという。
俺には、まるで感じ取れなかった。
だが、ダリオ副団長が現場に着いたときに魔素のことを一切口にしなかったことを思えば──学園長の言葉は真実なのだと、認めざるを得なかった。
「にわかには信じがたいですが……」
「おや? 私が嘘をついているとでも?」
「……とんでもない。そんなことは思ってもいませんから、その笑顔はやめてください」
「まったく、失礼な教え子ですね」
副団長と学園長のどこか気安いやり取りに、思わず苦笑が漏れる。
だが、今は状況が状況だ。早く魔物の残党を一掃しなければならない。
そして、なぜ急激に魔素濃度が上昇したのか──その原因の究明も急がねばならない。
俺は周囲を見渡した。
騎士団の面々と肩を並べて戦う教師陣の中に、ゼノ先生の姿はない。
あのとき、俺に騎士団への救援を頼んだ先生のおかげで、こうして駆けつけることができた。
ゼノ先生に限って、魔物に遅れを取るなど考えられない。
だが、この場に姿がないということは──
嫌な予感が胸の奥をよぎった、その瞬間。
視界の端を、一つの影が横切った。
それはゼノ先生だった。
無事な姿を見て、安堵が胸を満たしかける。──ほんの一瞬のことだ。
彼の腕に抱かれている人物の姿を認めたとき、全身の血の気が引いた。
「──クラリス殿……?」
月明かりに照らされた白磁のような肌が、青白く光を返していた。
だが、その肌には──まったく、生気が感じられなかった。
ゼノ先生に抱えられたクラリス殿の姿は、すぐに俺の視界の外へと消えていく。
全身を鎖で縛られたかのように、動けなかった。
嘘だ。……まさか、彼女が。
戦場では、何人もの負傷者を見てきた。
時には、仲間を失うこともあった。
そのたびに、俺は──エリアスのことを思い出した。
目の前で命を散らした弟の光景が、まるで焼きついたように離れない。
先ほどのクラリス殿は、その“あのとき”とあまりに重なって見えて──
脳裏に浮かんだ不穏な光景を振り払うように、俺は頭を振り、顔を上げた。
視界の先に、ルーク殿とリナ殿の姿が見えた。
ルーク殿の顔には、いつもの明るさの欠片もない。焦燥と不安に塗りつぶされた表情で、ゼノ先生の背中を追っている。
その手を握るリナ殿も、涙に濡れた瞳のまま必死に足を進めていた。
心臓がうるさい。
耳鳴りのような鼓動が、頭の奥で鳴り響いている。
それと同時に、「双剣の儀」で彼女と重ねた手の感触が蘇ってきた。
あのときの指先の冷たさが、まるで今も残っているようで──
手のひらに爪が食い込むほど、拳を強く握りしめる。
──こんな、こんなことになるなら。
俺は……彼女の手を、離さなかった。
「どうした、ライオネル」
立ち尽くしたままの俺に気づいたのか、ダリオ副団長が声をかけてきた。
俺はできるだけ感情を表に出さないように、拳を握りしめたまま副団長を振り返った。
しかし、副団長の眉間に刻まれた皺が一層深くなるのを見て、隠しきれていないのだと悟る。
「ライオネル先生。ここは私たちに任せて、怪我をした生徒たちの様子を見に行ってもらえますか?」
ダリオ副団長が口を開くよりも早く、カスパー学園長が静かに言葉を挟んだ。
彼の視線は、ゼノ先生が走り去っていった方角へ向けられている。
──もしかすると、彼もクラリス殿が運ばれたことに気づいているのかもしれない。
気のせいだとしても、その横顔には、わずかに憂いの色が差して見えた。
「ダリオ副団長、ライオネル先生は生徒たちに信頼されている講師です。魔物の掃討は私たちでも可能ですが、生徒たちの心のケアは、彼にこそ任せたいのです」
「……どうせ拒否権はないのでしょう?」
副団長の皮肉に、学園長は答えず、ただ口元に笑みを深めた。
そして、その視線を俺に向ける。
「では、ライオネル先生。医務室に向かっていただけますか?」
「──……はい。ありがとうございます、学園長」
俺は二人に頭を下げ、踵を返した。
──どうか、無事で。
心の中で、強く祈る。
エリアスを失って以来、神に祈りなど捧げてこなかった。
それでも今の俺には、こんなことしかできない。
けれど、今度は。今度こそは。
彼女が、無事であったのなら。
もう──あの手を、離さない。
ダリオ副団長とカスパー学園長の掛け合いが、書いていて楽しかったです(笑)。
今回のX投稿イラストは、そんな苦労人副団長と古狸学園長です!
次回ep.146は、生死をさまようクラリス。
11月11日(火) 19:00更新予定です。お楽しみに!
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