【ゼノ】その目が映すもの 2
視界の先に、漆黒の炎が立ち上がる。
あまりの禍々しさに、思わず足が止まりそうになった。
──この先は、危険だ。
「影」としての勘が、鋭い警鐘を鳴らす。
だがそれは同時に、彼女たちが危機に陥っている証にほかならなかった。
私は迷わず、噴水へと駆け抜ける。
小道を抜けたその先に──
“それ”は、いた。
噴水の前に立つ姿は、一見すれば子どものよう。
男か女かも判別できぬ中性的な容貌。
彫刻のごとく整った美は、目を奪うと同時に、視線を拒ませるほどの忌避感を放っていた。
一瞬だった。
“それ”を目にした刹那、全身が縫い付けられたかのように動きを止める。
同時に、“それ”の手が静かに掲げられた。
その手の先を認識した瞬間──世界が。
赤く、染まった。
血。
赤い。
視界は、赤に呑まれていく。
宙を貫く漆黒の刃。
その刃に貫かれたものから飛び散る血潮が、世界を赤く塗り替えていった。
そして、それが彼女の──クラリスの血であると理解したとき。
私は頭の芯が、氷のように冷えていくのを感じた。
──また……間に合わなかった、のか。
「では一曲──踊りましょう、ゼノ」
あのときの声が脳裏に蘇る。
冗談めかして彼女へ差し伸べた手に、彼女のそれが重ねられたとき。
私は気づいた。
いや、知っていながら、ずっと見ぬふりをしていた。
自分の厄介な感情を──その瞬間、認めざるを得なかった。
同時に、私はこの目をくれた母に感謝した。
世界はやはり、美しい。
影に生きる私にさえ、そう思わせてくれるほどに。
彼女を、この目に映せる奇跡を与えてくれたことに。
けれど──現実は、残酷だ。
私は、動けなかった。
またしても、動けなかった。
あのとき。
母を永遠に失った、あの瞬間のように。
私は、また失うのか──
「いやぁぁぁぁぁぁっ!!」
夜を切り裂く悲鳴に、我に返る。
地に伏したクラリスの傍らで、リナが蒼白な顔で震えていた。
崩れ落ちそうになりながらも、必死にその手を彼女へと伸ばしている。
──だが、その手が導くように。
リナの目の前に、巨大な鍵穴が現れた。
宙に浮かび、低い共鳴音とともに異様にして荘厳な光を放つ穴。
「な……っ」
思わず声が漏れる。
錯覚を見ているのではと疑いながらも、視線を逸らすことはできなかった。
「え……!?」
リナ自身も固まっていた。
伸ばした手を宙に止めたまま、目の前の光景を理解できずにいる。
凍りついたような場の中で──ただ一人、“それ”だけが動いていた。
“それ”から立ち上る漆黒の炎はさらに勢いを増し、鍵穴に近づけまいと凝縮した漆黒が刃と化して突き出される。
狙いは、リナ。
──そうか。先ほどクラリスを貫いたのも、これか。
ギリ、と奥歯を噛みしめる。
腹の底から沸き上がる黒い感情を押し殺し、私は即座に呪術を展開させた。
影を媒介に、クラリスとリナの体をこちら側へと引き寄せる。
「え、え……!? ゼ、ゼノ先生っ!?」
リナは、自分が一瞬で別の場所へ移されたことに気づき、さらに混乱しているようだった。
私はそれには応えず、血溜まりに沈むクラリスの体を窺う。
漆黒の刃に貫かれた肩口からは、とめどなく血が流れ続けている。
それは彼女の漆黒のドレスを深紅に染め、絹の裾は血に張り付き、重く垂れ下がっていた。
夜空のように光を弾いていたであろうその布地は、今や鈍く沈み、白い肌との対比だけが痛ましいほど鮮烈に目に映った。
私は自身の袖を引きちぎり、傷口に押し当てる。
白かった布は、みるみる赤く染まっていった。
急所は外しているようだが、このままでは──
コートで彼女の上半身を覆い、その身をそっと抱き上げる。そして、視線を鋭く前方へと向けた。
──敵はまだ、そこにいる。
“それ”は突然移動した彼女たちに動じることなく、ゆっくりとこちらに向き直っていた。
虚無の瞳は、リナと──その傍らに浮かび上がる巨大な鍵穴に注がれている。
「クラリス様……」
抱きかかえられたクラリスの顔からは、すっかり血の気が失せていた。
それに劣らぬほど青ざめたリナが、震える声で彼女の名を呼ぶ。
──ここは一旦、彼女たちを連れて離脱するしかない。
「影」であることの秘匿よりも、今は彼女たちを守ることが優先だ。
私は“それ”が動き出す前に、即座に決断した。
──しかし。
「クラリス様を……よくも、クラリス様を……」
リナのつぶやきとともに、宙に浮かぶ鍵穴がゴゴ、と音を立てる。
傷ついたクラリスを前にして、リナの感情が昂ぶっていた。
それに呼応するかのように、鍵穴と──彼女の手に握られた鍵のようなものが、白銀の光を放ち始める。
──まさか、これが……
考えをまとめる間もなく、“それ”が再び漆黒の刃を突き出した。
鍵穴の異変に意識を奪われていたせいで、撤退の機を逃してしまったのだ。
私はクラリスの体を抱きかかえたまま、刃の軌道に影を出現させる。
通常の刃なら、影で別の場所に飛ばすことが可能だった。
だが──漆黒の刃は影を無視するかのように素通りし、真っ直ぐこちらへ迫ってくる。
──このままでは。
判断を誤った。
刃を防ぐため影を使ったせいで、自分たちを退避させるための術式を構築する時間がない。
自分一人ならまだしも──彼女たちを置いていくことは、もはや私の選択肢にはなかった。
少しでも彼女たちを刃から庇うため身を翻した、そのとき。
白銀の光が壁となり、漆黒の刃は塵となって消えた。
「……!?」
先ほど、巨大な鍵穴が出現したときと同じような衝撃に、私は息を呑む。
「……だから」
静かに──しかし確かに、怒りを孕んだ声が隣から響いた。
「クラリス様を……こんな目に合わせて──」
白銀の光は、もはや鍵や鍵穴だけでなく、リナをも包みこんでいる。
滴り落ちる頬の涙でさえ、淡く光り輝いていた。
これが──「封印の鍵」の力……
彼女は血が滲むほど唇を噛み、“それ”を睨みつける。
“それ”の表情に──初めて、焦りの色が浮かんだ。
「許さないんだから──……っ!!」
リナの怒りに呼応するように、白銀の光が一面を照らす。
彼女の手にしていた鍵が宙に浮かび、ゆっくりと回転しながら巨大な鍵穴へと吸い寄せられていく。
荘厳な光が大地を照らし、まるで天上から下ろされた神の審判のごとく、鍵は確かな軌跡を描いて鍵穴に突き立った。
カチリ──と、世界を揺るがすような音が響く。
その瞬間。
学園全体を覆っていた魔素の奔流が、まるで逆流するかのように一気に収束していく。
淀んだ瘴気のように重く垂れ込めていた空気が澄み、肌を焼くような圧迫感がふっと和らいだ。
──これが、“封印”……?
リナの持っていた鍵は、確かに“何か”を閉じた。
空気が変わる。
説明のつかない感覚が、それをはっきりと告げていた。
私は光の収束を見届けながら、“それ”に目を向ける。
──いない。
つい先ほどまで、噴水の前に立っていた“それ”の姿は跡形もなく掻き消えていた。
音もなく、影すら残さず。
ただ、不自然な沈黙だけが広場を支配している。
白銀の光に照らされた噴水の周囲には、異様なまでに静謐な世界が訪れた。
……終わった、のか……?
静けさの裏に残されたのは、胸をざわつかせる余韻だけ。
冷たい風が吹き抜け、クラリスの血に濡れた黒衣を揺らした。
「クラリス様、クラリス様……っ!!」
自分がどれほどのことを引き起こしたのかなど、まったく意に介さず──
ただ私の腕の中にいるクラリスの安否だけを案じて、リナは子どものように泣きじゃくっていた。
私はその姿を横目に、改めてクラリスの傷へと目を落とす。
応急処置だけでは、とても止血しきれない。
急所は外しているとはいえ、このままでは命が危うい。
──時間がない。
私はリナに声をかけることもせず、クラリスの体を抱き直した。
そして、周囲の気配に警戒を払いながらも、医務室へ向かって走り出した。
なんとか「古代の神」を退けたものの、クラリスは瀕死の重傷。
果たして、彼女は助かるのか──
今回のX投稿イラストは、そんなクラリスを抱きかかえるゼノです。
次回ep.144はルーク視点。
姉さんのことが心配でたまりません。
11月4日(火) 19:00更新予定です。お楽しみに!
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