【ゼノ】その目が映すもの 1
「いつか、君に本当の世界を見せてあげよう」
──彼女はそう言った。
いつものように、私の何も映さぬ網膜に、彼女の愛する花畑を映し出した後で。
私は、世界を知っているつもりでいた。
彼女の影が見せてくれる景色こそが、私にとってのすべてだったからだ。
彼女が映してくれるからこそ、私は世界を知った気になっていたのだ。
世界は、美しい。
彼女の言葉の通り、もしこの目で世界を見られる日が来たなら──
それはきっと、さらに素晴らしいに違いない、と。
幼く、愚かだった私は、疑いもせずそう信じていた。
時は流れ──
彼女は約束を果たしてくれた。
だが、世界が最初に私へ突きつけたのは──赤。
彼女の血で塗り潰された、惨たらしい赤だった。
──そして、今。
宙を裂き、突き立つ漆黒の刃。
そこから飛び散る鮮烈な赤は、あの日と同じ色だった。
私が最初に見た、世界の色。
彼女の──母の血に染まった、あの赤と。
リナがルーセントホールを通り過ぎ、噴水の方角へ歩みを進めたそのとき──
私の「影」としての直感が、最大の警鐘を鳴らし始めた。
一見すれば自然な足取りで、何の違和感もない。
だが、クラリスから聞かされていた流れとは、明らかに食い違っていた。
背筋を這うような悪寒が、私を即座に突き動かす。
それをクラリスに伝えると、彼女も迷わずリナの後を追った。
その決然とした声を聞いた瞬間、私は確信する。──これは、想定外の事態だ。
「……すまない。私の落ち度だ」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
なぜ彼女に謝るのか、自分でもわからない。
だが、もっと早く察していれば防げたのではないか──その悔恨が喉を焼いた。
「……リナは、きっと大丈夫です」
クラリスは苦笑を滲ませながら、そう口にした。
きっと彼女自身も、何かに悔いを抱いているのだろう。
私は小さく唇を歪める。
そうだ、後悔している暇などない。
まだ、何かが起こったわけではないのだから。
立ち上がり、研究室を後にした。
「王家の影」の一族にだけ伝わる呪術は、影を媒介にしてあらゆることを可能にする。
自由に移動し、遠景を映し出し、声を届け、音を拾う。
さらには、影を介して対象を入れ替える──人にさえ、干渉し得る力だった。
本来なら、影を使えば一瞬で移動できる。
だが──私が「王家の影」であることは、決して知られてはならない。
ゆえに学園内では、自らの足で移動するしかなかった。
研究室のある校舎からルーセントホールまでは距離がある。
私は表情を崩さぬまま、足取りだけは焦るように、速く、速く進んだ。
──早く。彼女たちのもとへ……
周囲では、ガラに向かう生徒たちが楽しげに歩いている。
彼らからの挨拶に軽く応じながらも、胸の内は焦燥に支配されていた。
──らしくない……
内心で自嘲する。
私は「王家の影」。影の末裔として、国と王家に忠誠を誓い、その身を捧げてきた。
表舞台に立つ人間ではない。
影の中で生き、影の中で死ぬ。
これまで葬ってきた数を思えば、それは当然の生き方だった。
疑問を抱いたことなど、一度もない。
ただ──母も、そう生きていたように。
目尻を軽く押さえる。
母から受け継いだ“忘れ形見”が熱を帯び、今の思考を真っ向から否定するように疼いていた。
この国を、王家を守れ──それが、母の教え。
そして彼女は、私にこの“目”を残した。
それは次代への餞別だったのか。
それとも、母としての最後の愛だったのか。
……今となっては、わからない。
私は前を見据えた。
この“目”は、確かに世界を映し出している。
この目を手に入れるまで、私は暗闇の中で生きてきた。世界との接点は、この手に触れる感触だけだった。
そこから救い出してくれたのは、母の“目”だった。
だからこそ、私は決めた。──彼女との約束を果たすと。
この国と、王家を守る。
そしてそれは、今この瞬間においては、彼女たちを守ることと同義だった。
……そうだ、と自分に言い聞かせる。
私はさらに歩を速め、目的の地へ向かった。
状況は、刻一刻と悪化していた。
学園全体を、異様なほどの魔素が覆い尽くしていく。
リナが噴水へ到達したあたりから高まり続けていた魔素濃度は、ついにこれまで感じたことのない域に達した。
──その瞬間。
黒い霧が地を這い、空気を濁らせ──そこから次々と魔物が姿を現した。
私は目を疑う。あの禍々しい出現の仕方は、まるで呪術のようだった。
──これが、「古代の神」の力……?
これではまるで──
脳裏をかすめた考えを振り払う。
今はただ、この魔物たちを退け、彼女たちのもとへ向かわねばならない。
途中、ライオネルと遭遇し、騎士団への救援を任せた。
宰相の采配で、副団長率いる精鋭部隊が近隣にいるはずだ。軍馬を使えば、一の時もあれば到着できる。
幸い、出現した魔物は教師陣でも対処可能なレベルだった。実戦経験の浅い生徒たちでは危険だが、救援が来るまでなら持ちこたえられるだろう。
ただ──
……それでは遅すぎる。
このままでは、噴水に辿り着けない。
焦燥に歯噛みしたそのとき、不意に朗々とした声が響いた。
「──まったく。学園に無断で入り込むとは、作法を知らぬ魔物たちですな」
現れたのは学園長──カスパー・リュミエール。
飄々とした笑みを浮かべ、厄介な生徒でもあしらうかのように魔物たちを見渡している。
その笑みは、やがてゆっくりとこちらに向けられた。
まるで思いがけないものを見つけたかのように、彼は片眉をわずかに上げる。
「おや、ゼノ先生。こんなところにいてよろしいのですか?」
──学園長の笑顔は、決してその心を映さない。
私が学生だった頃。彼がまだ一介の魔術教師にすぎなかった頃から、ずっとそうだった。
だが今はさらに色濃く、まるで全てを見通すかのような眼差しで、私を射抜いてくる。
私は、苦笑するしかなかった。
「……そうですね。私は、行かなければなりません」
「ならば行きなさい。後は私たちで片付けましょう。何、騎士団の救援が来るまでくらい、この老体でも持ちこたえられます」
疲労に彩られていた教師陣の顔に、安堵が広がる。
──老いてなお、この古狸の魔術の腕は健在だ。
その微笑の裏に潜む容赦のなさは、相手をする魔物にすら同情を禁じ得ない。
だが今の状況においては、それこそが何よりも頼もしい。
私は学園長に一礼し、噴水へと駆け出した。
ゼノの中には、今もなお母の影が息づいています。
今回のX投稿イラストは、母の死を目にしてしまった少年時代のゼノです。
次回ep.143は後編。
ようやくクラリスたちのもとにたどり着きます。
10月31日(金) 19:00更新予定です。お楽しみに!
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