【リナ】守りたい
何が起こっているのか──私には、まるで理解できなかった。
クラリス様の腕にしがみつき、縋るように身を寄せる。
目の前に立つその人は、ふわふわとした世界で私を呼んでいた“誰か”だった。
……怖い。
その人──少年なのだろうか──は微笑を浮かべ、こちらを見つめている。
けれど銀色の瞳は、何も映していないように見えた。
背筋に冷たい恐怖が走り、体が震える。
でも同時に、どうしようもなく“彼”に近づきたい衝動にも駆られる。
怖いのに、懐かしい。
ずっと会いたかったのに、一緒にいたくない。
そんな相反する感情が、胸の中で渦を巻いていた。
そのとき、震える私の手をクラリス様がそっと包み込む。
私はクラリス様を見上げ──息を呑んだ。
クラリス様の瞳が……金色に、輝いていた。
私たちの前に立ちはだかる“彼”を見据えるその瞳は、いつもの紫紺の色じゃない。
銀色の瞳に相対するかのような、強い金の光を宿していた。
その輝きを見た瞬間、私の中に新たな震えが走る。
──私は……この目を知っている……
何かを思い出しかけた瞬間、“彼”がその手をこちらに向けてきた。
クラリス様が咄嗟に氷魔術を構築する。
私たちの前に、高い氷の壁が立ち上がった。
クラリス様が本気で魔術を使うところを、私は初めて見た。
授業で見てきた魔術よりも、ずっと速く、力強い──
「──っ……」
だがそれは、一瞬にして漆黒の炎に呑まれ、霧散した。
雪の結晶のように砕け散る氷の向こうで、“彼”は変わらず微笑を浮かべている。
その笑みが、ぞっとするほど変わらないのが怖かった。
クラリス様が唇を噛む。
もう、次元が違いすぎて、何がなんだかわからない。
でも一つだけ確かにわかった。──クラリス様の力をもってしても、“彼”の力は上回っている。
──どうしよう、このままじゃ……!
私は震える拳を握りしめた。
恐怖で動かない体を、必死に叱咤する。
──私だって、クラリス様を……
「──逃げなさい」
その言葉に、私は目を見開いた。
クラリス様は“彼”を見据えたまま、私に小さく告げる。
「ホールに行けば、アレクシス様たちがいるわ。きっと、あなたを守ってくれるから──」
信じられない言葉を聞いた気がして、声が出ない。
口を開くけれど言葉にならず、また閉じる。
その代わりに、私はクラリス様のドレスの裾を掴んだ。
星空のように輝いていた黒のドレスは、私を守ってくれたせいで破れ、ところどころ裂けていた。
クラリス様自身も傷を負っている。
炎の中から引き上げてくれた腕は赤く染まり、ひりつく痛みに耐えているように見えた。
それは、私を助けた代償──胸の奥が、申し訳なさでいっぱいになる。
──クラリス様も、一緒に……!
私の想いが伝わったのか、クラリス様は視線だけをこちらに向けた。
「……二人一緒に逃げるのは、無理よ」
その答えに、私は声より先に涙が溢れた。
「わ、私も……残ります……っ」
なんとか言葉を絞り出す。
クラリス様は一瞬だけ眉根を寄せ、すぐに“彼”へと向き直った。
「──足手まといよ」
ぴしゃりと放たれたその一言が、私を拒絶する。
……でも。
クラリス様は、下手くそだ。
感情を表現するのが下手くそで──嘘をつくのも、下手くそだ。
だって、わかる。
クラリス様が、必死で私を守ろうとしていることくらい──わかる。
胸の奥が、じんじんと痛んだ。
──守りたい。
私だって、クラリス様を守りたいんだから。
きっとその気持ちは、一緒だから。
でも──私には、その力がない。
目の前にいる大切な人を──大好きな人を、守れる力が……私には、ない。
こらえきれなくなった涙が、次から次へと目からこぼれ出す。
胸の痛みを抑えるように組んでいた手に、ぽつぽつと落ちた。
──そのとき。
私の手が、かすかな光に包まれていることに気づいた。
──なに、これ……?
光は私の全身を覆い、まるで無数の光の胞子に抱かれるように体が発光していく。
それに気づいたクラリス様が振り返り、目を見開いた。
「リナ……!?」
「ク、クラリス様……!」
何が起こっているのかわからず、私は助けを求めるようにクラリス様を見上げる。
次の瞬間、私を包んでいた光が粒子となって宙へ舞い上がり──目の前で、一つに収束した。
私はそれを受け取るように、両手を広げる。
光は次第におさまり、その中心に“それ”が姿を表した。
「……鍵?」
私の手のひらに残ったのは、かすかに光を放つ鍵。
どこか古びているのに、壊れそうなくらい繊細で──それでいて、不思議なあたたかさを宿している。
まるで、ずっと昔から大切に守られてきた宝物のよう。
手のひらにすっぽり収まるそれは、ただの小さな鍵にしか見えないのに……
どうしてか、宝石よりもずっと尊いものに思えた。
「──『封印の鍵』……!?」
クラリス様の驚愕の声に、私も思わず顔を上げた。
ふ、ふういんの……かぎ?
なに、それ……?
問いかけようとした、その瞬間。
こちらを見ていた“彼”の顔から、ふっと笑みが消えた。
全身に、ぞわりと鳥肌が走る。
“彼”の銀色の瞳が──何も映していないと思っていたその瞳が、私を捉えた。
本能でわかった。
“彼”にとって……私は邪魔なんだ。
だから……消そうとしている……
逃げなければ。
そう頭ではわかっているのに、足は地面に縫い付けられたみたいに動かなかった。
感覚が麻痺したように、何も感じられない。
“彼”が、動く。
私は、動けない。
その手がこちらに向けられるのが、驚くほどゆっくりに見えて──
ああ、もうダメだ、と思った。
私はこのまま……死ぬんだ。
……嫌だ。
クラリス様と、別れたくない。
まだ、一緒にいたい……!
“彼”の手から放たれた漆黒の炎が、刃となって迫る。
私は呆然と、それを見つめることしかできなかった。
──クラリス様──
固く目を閉じる。
それが到達するその瞬間まで、私は少しでも長くクラリス様のことを考えていたかった。
──ザシュ……
鈍い音が肌を切り裂く。
漆黒の炎の刃が、私を貫く──
……けれど、痛くない。
ああ、死ぬときって痛くないんだ。
そう思って、ほんの少し安心した。
恐る恐る目を開ける。
赤い。
赤い血が、空中に飛び散っている。
「──……っ」
けれど、それは私の血ではなかった。
私の前で──私の代わりに、漆黒の刃に貫かれた……
クラリス様の、血だった。
クラリスを守りたい一心で、ついに「封印の鍵」として覚醒するリナ。
そんな彼女に、残酷な現実が突きつけられます。
今回のX投稿イラストは、リナと「封印の鍵」です。
次回ep.142は久しぶりのゼノ視点。
10月28日(火) 19:00更新予定です。ゼノ推しの皆さん、お楽しみに!
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