古代の神
異常な魔素濃度が全身を押し潰す重力となってのしかかり、私は地面に縫い付けられたように動けなかった。
息の仕方すら忘れ、震える唇からは空気が漏れるだけ。
眼前では、漆黒の炎が空に向かって轟音を立てて燃え盛っていた。
その中心で、炎に包まれたリナが必死に何かを叫んでいる。
──リナ……!!
彼女を呼ぶ声は喉から先に出ることなく、かすかな息さえ炎の咆哮に掻き消えた。
……こんなの、私は知らない!
課金ルート以外は、すべてフルコンプしたはずだ。
バッドエンドだって、スチル回収のために涙をこらえて選んだのに。
漏れ聞いた課金ルートでさえ──こんな展開はなかった。
本来、グランドナイトガラの夜に現れるのは、「古代の神」の力の一端にすぎない。
個別ルートに入った後、「古代の神」の本体が復活する前に、「封印の鍵」の力で完全に封じ込める流れのはずだ。
──けれど、これではまるで……
なすすべもなく地面に這いつくばる私を嘲笑うかのように、漆黒の炎はリナを呑み込んでいく。
その中から、必死にこちらへ手を伸ばしてくる彼女の姿が見えた。
私は奥歯を噛みしめる。
──完璧な公爵令嬢として積み上げてきた矜持、そのすべてを振り絞り、地面に押し付けられた体を無理やり引き剥がした。
両手を地につき、渾身の力を込めて氷魔術を構築する。
足元から冷気が奔流となって駆け巡り、青白い氷の紋様が大地を覆っていく。瞬く間に氷の壁が立ち上がり、漆黒の炎を取り囲んだ。
灼熱と極寒がぶつかり合い、火花を散らすように轟音が響く。
ほんの一瞬、炎がその勢いを緩めた。
私はその刹那を逃さず、地を蹴った。
炎の中から伸ばされたリナの手に──届く。
「リナっ!!」
私はその手を掴んだ。
けれど、彼女の体はすでにほとんど炎に呑まれている。
私の手までもが漆黒に包まれ、ジリジリと肌を焦がす痛みが走った。
炎は、まるで異物を拒絶するかのように私を押し返してくる。
──リナを離しなさい……!!
全身に力を込め、私は彼女の腕を抱えるようにして引きずり出した。
抵抗するかのように炎が荒れ狂い、氷とぶつかり合いながら爆ぜる。
視界が光と闇に塗り潰される中、私は一歩、また一歩と必死に後退した。
やがて、重力から解き放たれたように──リナの体が炎から抜け出す。
「リナっ……!」
私はその小さな体をしっかりと抱きとめた。
──火傷も煤も、ついてはいない。あの炎は、リナを傷つけるものではなかった。
炎に翻弄されていたせいか、ドレスの裾は乱れている。整えられていたはずの髪も崩れ、ほつれが頬にかかって揺れていた。
それでも彼女が無傷であることに、胸の奥で堰を切ったように安堵が広がった。
「クラリス様……」
リナがゆっくりと私を見上げた。
私の存在を確かめると、かすかに微笑む。
私は何も言わず、彼女を強く抱きしめた。
腕の中で「ふえっ!?」と動揺する声が上がったが──知ったことではない。
……良かった。リナが無事で、本当に良かった……!
先ほどの恐怖が脳裏に蘇る。
彼女を失うかもしれないと思ったあの瞬間の恐怖は、高濃度の魔素に押し潰される恐怖よりも、はるかに重く私を苛んでいた。
私の震えを感じ取ったのか、どうしていいかわからずにオロオロと手を彷徨わせていたリナが、その動きを止める。
そして──恐る恐る、背中に腕を回してきた。
抱きしめ返すその仕草に、胸の奥が熱くなる。
「クラリス様の……声が、聞こえました」
私の胸元で、リナが小さくこぼした。
思わず腕の力を緩め、彼女を見つめる。リナは柔らかい微笑を浮かべていた。
「助けてくださって……ありがとうございます、クラリス様」
──もし、私が攻略対象だったら。
きっとここで、彼女に口づけ、愛を告げていたことだろう。
だが残念ながら、私は悪役令嬢。彼女の運命の相手ではない。
それに──
「クラリス様……!」
リナも“それ”に気づいたのか、身を強張らせて私に身を寄せてきた。
私は彼女を地面に座らせ、その前に立ちはだかる。
先ほどまで轟音とともにうねりを上げていた漆黒の炎は、リナを失ったことで勢いをなくしていた。
しかし、魔素の濃度は下がらない。むしろ一点に凝縮していく。
やがて──炎は収束し、人の形を成した。
……やっぱり。
内心で歯噛みする。
目の前に現れたのは、先ほどの炎と同じ漆黒の髪と、何も映さない虚無の瞳を持つ少年。
恐ろしいほどに整った顔立ちが、かえって異様さを際立たせていた。
私は、その姿を知っている。
──「古代の神」。
やはり──けれど、なぜ。
入り混じる戸惑いが焦りを募らせる。
ゲームの中で「古代の神」が人の姿を取るのは、ただ一度。
それはラストバトル。
グランドナイトガラで想いを通わせた相手と絆を育て、完全な「封印の鍵」の力を得たヒロインが、顕現した「古代の神」を封じる──それが正規のシナリオだった。
本来、この時点で現れるのは「古代の神」の力の一端。
ヒロインは漆黒の炎に囚われかけるが、攻略対象に救われる。
そこで初めて、「封印の鍵」の力を発動する──不完全な、状態で。
……つまり。
今のリナでは、この姿となった「古代の神」を封じられない──
リナを背に、必死で打開策を探す。
だが思考はまとまらず、焦燥だけが胸を焼いていく。
そのとき、不意に腕を掴まれた。
いつの間にか私の隣に立っていたリナが、小刻みに震えながら「古代の神」を見据えている。
彼女は私以上に、この状況を理解できていないはずだ。
未知への恐怖が、その瞳に濃く滲んでいた。
──守れ。
私の中の“何か”が、激しく叫んだ。
……そうだ。私は、リナを守る。
理由なんていらない。
それは考えるよりも先に、私の本能が選んだ答えだった。
そのために。
そのために、私はここにいるのだから。
“今度こそ”──彼女を守るために。
ヒロイン・リナを守るため、ついに覚醒した悪役令嬢クラリス。
彼女の真の背景は、もう少し先で明かされます。
今回のX投稿イラストは、覚醒クラリス。
ちょっとドレスが破れすぎかもしれません(笑)。
次回ep.141はリナ視点。クラリスのために奮闘します。
10月24日(金) 19:00更新予定です。お楽しみに!
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