【アレクシス】異変
私はいつも通り、王太子としての務めを果たしていた。
上位貴族の子息や招待客に笑顔を向け、話に耳を傾け、必要な言葉を返す。
……けれど、心の内では先ほどのクラリスとのダンスが、繰り返し蘇っていた。
劇で彼女の頬に口付けてから──気のせいかもしれないが、クラリスは確かに私を意識するようになった。
おそらく彼女自身、何に戸惑っているのか理解してはいないだろう。
だがそれでも、形式上の婚約者としてではなく、一人の男として、ほんの少しでも意識を向けてくれたのなら。
これほど嬉しいことはなかった。
……少しくらい、私のことで悩んでくれればいいのだが。
自分勝手な願望に、内心で小さく苦笑する。
まだ道のりは長い。だが、一歩を踏み出せたという確かな実感が、胸の内を満たしていた。
ふと、視界の端に会場の入口へ向かうクラリスの姿を捉えた。
おそらく、まだ姿を見せないリナを案じているのだろう。
……その心配の一部でも、私に向けてくれればいいものを。
そう考えた矢先──
背筋に、ぴりりとした違和感が走った。
……これを感じ取れているのは、おそらく私だけだ。
王族特有の高い魔素感知の力が、その微かな変化に警鐘を鳴らす。
それでも私は、表情ひとつ変えずに話を続けた。
この程度で事を荒立てる必要はない。実際、周囲はまだ何も気づいていないのだから。
それでも、肌にまとわりつくような違和感は、刻一刻と広がっていく。
私は静かに息を整え、自らを落ち着けた。
……ただの勘違いであればいい。
そう願った瞬間、空気が震えた。
今までに感じたことのないほどの魔素濃度が、一気に会場全体──いや、おそらく学園全域にまで押し寄せてきた。
さすがに周囲の者たちも異変に気づいたようだ。
魔術の才を持つ者なら、なおさらだろう。怪訝な表情を浮かべ、ざわめきが広がっていく。
遠くから、ノアが足早に近づいてくるのが見えた。
……嫌な予感というのは、得てして当たるものだ。
私は表情を崩さぬまま、周囲に穏やかな笑みを向け、辞する非礼を詫びて輪の中を抜け出した。
ノアと並び、声を潜める。
「何があった」
「──学園内に、魔物が出たと」
私は思わずノアを見た。
彼が冗談を言うような人物でないことは知っている。だが、耳にした言葉をすぐには理解できず、しばし彼を凝視してしまう。
「……どういうことだ」
「わかりません。先ほどホールに入ってきた生徒たちが、そう証言しました」
ノアはすぐさま入口の扉を閉め、外の騒ぎが会場に伝わらぬよう対処したという。
逃げ込んできた生徒たちは、別室に待機させてあるらしい。
……まったく。優秀な部下を持つというのは、これほど心強いものか。
この場には、学園の生徒たちだけでなく、ゲストとして招かれた保護者や有力貴族たちも集まっている。
彼らを危険に晒すわけにはいかない。──王太子としても、一人の人間としても。
「よくやった。会場にいる者は外に出すな。護衛の騎士を外へ向かわせろ」
グランドナイトガラに備えて配置された護衛は多くはないが、多少の魔物なら十分に対処できるはずだ。
──だが。
この魔素濃度は、一体何だ?
今までに感じたことのない圧力。
……いや、一度だけある。
訓練区域で遭遇した、あの魔物。
あれが現れたときの感覚と──あまりに似ていた。
気のせいであればいいが……
だが今は、この会場にいる人々を落ち着かせねばならない。
少なくともここにいる限り、被害は出ないはずだ。
外にいる生徒たちは、騎士たちに救助を任せればいい。
ノアが私の指示を実行するため駆け出す。
その背を見送り、喧騒に包まれる会場へ戻ろうとしたところに──声がかかった。
「アレクシス!」
ルークだった。
いつもは飄々とした笑みを浮かべる彼が、今は明らかに焦りを滲ませていた。
……どうしてこうも、嫌な予感ばかり当たるのだ。
「──どうした」
ルークにこんな顔をさせる理由など、一つしかない。
それでも私は、尋ねずにはいられなかった。
それがただの思い過ごしであってほしいと、心の底から願いながら。
ルークは私の前に来るなり、開口一番、私が最も聞きたくなかった言葉を告げた。
「姉さんが、いない……!」
脳裏に、先ほど入口へ向かうクラリスの姿が蘇る。
「さっき、入口の方で魔物が出たって聞いて……姉さんのこと探したんだけど、どこにもいなくて……!」
ルークの額には汗が滲み、息も乱れていた。おそらく、必死にクラリスを探して走り回っていたのだろう。
胸を衝く焦燥を──すぐにでも駆け出したい衝動を、私はすんでのところで押し留めた。
──私は、王太子だ。私情で動くことは許されない。
……だが、この瞬間ほど、その立場を恨めしく思ったことはなかった。
王太子としての責務を優先せざるを得なかったアレクシス。
その裏で募る焦燥と葛藤が、彼の胸を苛みます。
今回のX投稿イラストは、アレクシスとノア。焦りがにじむ一幕です。
次回ep.140はクラリス視点で、現場に戻ります。
10月21日(火) 19:00更新予定です。お楽しみに!
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