ヒロインの行方
ようやくアレクシスから解放された私は、よろよろと──表面上は完璧な公爵令嬢の体面を保ったまま──念願の壁にたどり着いた。
壁を背に、固く目を閉じる。
──やはり、心臓に悪い。今夜の攻略対象たちの破壊力が強すぎる。視界に収めるのも慎重さが求められるほどだ。
けれど、これでリナとの約束は果たした。ルークだけではなく、アレクシスとも踊ったのだ。万一、弟はノーカンだと言われても、アレクシスはカウントされるだろう。
あとはリナが本命と踊り、無事に個別ルートへ進めば──
……リナ。
私はゆっくりと目を開け、周囲を見渡した。
……いない。まだ、来ていない。
不安がじわりと頭をもたげる。奥歯を噛み締め、必死に自分に言い聞かせた。
大丈夫。きっと準備に時間がかかっているだけ。
だって、今日は彼女の人生におけるターニングポイントだ。ヘアスタイルが決まらなくて、鏡の前で右往左往しているのかもしれない。
あるいは──どこかで転んで泣いているのかも。
私は壁から背を離し、ホールの入口へ足を向けた。
……迎えに行こう。
きっと、何もない。ただ少し遅れているだけで……
途中で慌ててこちらに駆けてくるリナと出くわして──彼女はきっと、笑顔でこう言うのだ。
──ご、ごめんなさい! 遅くなりました!!
そんなこと、気にしなくていい。
本番はこれからだ。
だから……だから、ちゃんと、姿を見せて。
不安を噛み殺しながら、入口に向かって歩を進める。
入口に続く通路の角で、急いでいた私は、向こうから来た人物とぶつかりそうになった。すんでのところで足を止め、その人物の顔を見上げる。
「申し訳ございませ──」
「……クラリス殿?」
そこには、見慣れた顔があった。
「ライオネル様……!」
漆黒に近い濃紺の騎士服に、銀糸で縁取られた礼装用のマント。
普段の飾らない騎士姿とは違い、舞踏会にふさわしい気品が漂っている。
肩章や胸元の徽章が彼の功績を静かに物語り、その堂々たる立ち姿が視線を引き寄せて離さなかった。
あまりの眼福に、先ほどまでの不安が吹き飛び、私は一瞬、拝みそうになってしまった。
不意打ちすぎて、危うくファンムーブを炸裂させそうになった自分を、必死に叱咤する。
……落ち着け。ここは舞踏会の会場、推し活の現場じゃない。
けれど、そのおかげで少しだけ冷静さを取り戻せた。
どうやらライオネルは、今しがた会場に着いたらしい。
彼は特別講師とはいえ、ゼノに並ぶ人気教師だ。もしすでに会場にいたなら、女子生徒だけでなく男子生徒にも囲まれていたはずだ。
ゲーム中では、ヒロインが会場に現れたとき、攻略キャラたちは皆すでに揃っていて彼女を出迎えていた。
ライオネルが今到着したのなら、リナが遅れているのも不思議ではない。
私はほっと胸を撫で下ろす──が、次の瞬間、ライオネルがぴくりとも動いていないことに気づく。
彼はこちらを凝視したまま、ぽかんと口を開けて固まっていた。
「あの……ライオネル様?」
名を呼ぶと、弾かれたように背筋を伸ばし、次の瞬間には顔を真っ赤に染めていた。
リトマス紙のような反応だ。……何か酸性のものにでも触れたのだろうか。
「──も、申し訳ありません……っ」
真っ赤になったのを自覚しているのか、その大きな手で顔を覆い、思い切り横を向いてしまう。
一体どうしたというのだろう。もしかすると、リナのことを考えながら歩いていて、私に出くわしたせいで恥ずかしくなったのかもしれない。
もしそうなら、わざわざツッコミを入れるのも野暮だ。私は見なかったことにする。
「こちらこそ申し訳ございません、ライオネル様。少し急いでいたものですから……わたくしの不注意でした」
そう告げると、ライオネルは心配そうにこちらを見つめ返してきた。
「何かあったのですか?」
どう答えるべきか、一瞬迷う。
リナがまだ会場に来ていないのは、不自然なことではない。……私が過保護に考えすぎているだけだ。
……けれど。
私は、正直に打ち明けることにした。
「リナが……まだ会場に来ていないようなので、迎えに行こうかと……」
その瞬間、またしても不安が押し寄せてくる。
私の中の“何か”が、しきりに警鐘を鳴らしていた。
それはもう、無視できないほどの強さで私を揺さぶってくる。
気づけば、私は無意識に自分の体を両腕で抱きしめていた。
背中から這い出すような得体の知れない恐怖に、寒気を覚える。
私は──一体、何に怯えているのだろう。
自分の中に広がる、形を持たない感覚。
それをどう表現すればいいのかわからず、言葉が喉に詰まった。
ライオネルは、そんな私をじっと見守っていた。
そして、私がそれ以上言葉を継げないことを悟ると、静かに口を開く。
「……お任せください、クラリス殿。俺が、リナ殿を迎えに行ってきます」
その言葉に顔を上げると、包み込むような深い微笑みがあった。
先ほどのリトマス紙のような反応の名残で、少し頬が赤い。
けれど、その笑顔には不思議と安心させられるだけの力があった。
私は肩に入っていた力をゆっくりと抜いた。
「……ありがとうございます、ライオネル様。でも、ライオネル様も今来たばかりでは……」
「俺は構いませんよ。……もう、ここに来た目的は果たせましたから」
意味深な言葉に、私は思わず首を傾げる。
そんな私に、彼は苦笑を残し、優雅に一礼すると踵を返した。
リナを迎えに向かうライオネルの背中を見送りながら、私はその言葉を反芻する。
目的……?
──はっ。そうか。
リナを迎えに行くということは、リナと二人きりになるということ。
やはり、リナとライオネルの絆も順調に育っているのね……!
確信と安堵が胸に広がり、私は深く息をついた。
良かった。いろいろ不安になることも多かったが、シナリオは順調に進んでいる。
きっとリナはグランドナイトガラで、想い人と絆を結ぶはず。
そして私は、無事死亡フラグを回避──
「──噴水だ」
その声が耳に落ちた瞬間、私は背筋に氷の刃を突き立てられたように身を固くした。
ここにいるはずのない人物の声。
けれど、それが聞こえたということは──
「彼女は、噴水に向かっている」
……静かな声の中に、焦りが滲んでいた。
全身が凍りつく。
ゼノ──彼の声に問いかけたい衝動を、必死に押し殺した。
だめだ。ここでは話せない。周囲には人が多すぎる。
彼は影を媒介に声を届けられる。
きっと今も、私の耳元には小さな影が生まれているはずだ。そこに向かって話せば、彼に声は届く。
けれど、それを口に出した瞬間、周囲から怪しまれるに違いない。
私は表面上は何事もなかったかのように顔を上げ、入口へ向かって歩き出した。
──リナが、噴水に向かっている。
……そんなルートは存在しない。
バッドエンドのときでさえ、ガラに参加してから噴水に向かうはずだった。
なのに、なぜ。
恐怖に体がこわばる。
止まりそうになる足を、私は必死に前へと動かし続けた。
ライオネルはクラリスをひと目見たくて、会場まで足を運びました。
今回のX投稿イラストは、そんなライオネルの礼装姿です。尊い。
次回はep.136,137を連続投稿します。
それぞれ、10月10日(金) 19:00、19:10更新予定です。お楽しみに!
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