【ルーク】視界の中に
馬車を降りると、僕は姉さんに向かって手を差し出した。
姉さんはその手にそっと自分の手を重ね、優雅な仕草で馬車を降り立つ。
──その瞬間。
周囲にいた、グランドナイトガラに参加するため着飾った令息令嬢たちの視線が、一斉に姉さんへと向けられた。
すでに夕日は沈み、夜空には星が瞬いている。
漆黒のドレスをまとった姉さんは、街灯の光を受けて、まるで夜空に散る星々をその身に宿したかのように輝き、幻想的な気配をまとっていた。
周囲から漏れる感嘆の吐息が、誇らしくてたまらない。
──けれど同時に、だからこそ誰にも見せたくなかったのだと、心の中で苦く笑う。
グランドナイトガラの会場──ルーセントホールへ向かう道すがら、姉さんはずっと周囲に視線を巡らせていた。
注がれる視線を気にしているというよりも……誰かを探しているように見える。
──まぁ、姉さんが探す相手なんて、一人しかいないんだけど。
「リナも、準備ができたら来るよ」
そう声をかけると、姉さんはわずかに目を見開いた。
表情の変化は小さいけれど、「どうしてわかったの?」という驚きが、その瞳に浮かんでいた。
そりゃあ……僕だから、わかるに決まっている。
どれだけ姉さんを見てきたと思ってるんだ。
寮暮らしの生徒は多い。
エリューシア学園に通う貴族の子女は、王都在住ばかりではない。リナの支度にも、時間がかかるだろう。
そもそもグランドナイトガラは、最初から最後まで出席しなければならない決まりはない。入退場は自由だ。途中で学園長や生徒会長の挨拶はあるが、それ以外は社交の場として思い思いに過ごせる。
一斉入場なんてしたら、長蛇の列が延々と続くことになる。
ホールに足を踏み入れた瞬間、きらびやかな光が僕たちを包み込んだ。
──ざわめきが、一瞬だけ止む。
グラスの触れ合う音も、弦楽の調べも、その刹那だけ遠くに感じられた。
照明に照らされた姉さんは、その光源すら彼女自身から放たれたのではないかと思わせるほどだった。
漆黒の髪は黒曜石のように艶やかに、白磁の肌は淡く光を返す。
星々を散りばめたように輝くドレスに、視線を奪われない者はいない。
けれど姉さんは、そんな視線を意にも介さず、ただ真っ直ぐに──凛と、前を見据えていた。
姉さんの胸の内に、どんな思いがあるのかはわからない。
姉さんが見ている景色は、僕には見えない。
けれど、その視界の中に──僕は、入りたい。
「姉さん」
ゆっくりと、姉さんが僕を見上げる。
青みを帯びた紫紺の瞳が、まっすぐに僕を捉えた。
今この瞬間、姉さんの視界には──僕しかいない。
その事実に、胸が高鳴ると同時に、誰にも邪魔されたくないというわがままな衝動が胸を満たした。
会場に響く楽曲が、ちょうど曲間に差し掛かる。
僕はそっと姉さんの手を離し、その前にひざまずいた。
「ルーク?」
頭上から聞こえる戸惑いを含んだ声。
それを無視して、僕は彼女へ手を差し伸べる。
「どうぞ、僕と踊ってください──クラリス嬢」
我ながら、少しばかり芝居がかった台詞だと思う。
姉さんの瞳が、揺れる。
それでも──何かを決意したように、彼女は手を重ねてくれた。
僕はその手をしっかりと握り、静かに立ち上がった。
会場中の視線が、僕たちに集まっているのを感じた。
軽やかな音楽がリズムを刻む。僕は姉さんの腰をそっと支え、ステップを踏む。
旋回の合間に踏み込み、引き寄せるたび、ドレスの裾がふわりと舞い、煌めく飾りが光を散らした。
その光景に、周囲から小さな感嘆の声が漏れる。
──胸の奥がざわつく。見惚れる視線が、僕以外の誰かから向けられているのが、どうしようもなく癪に障る。
……だからこそ、この手は離さない。姉さんを引き寄せ、僕のリードで舞わせる。
姉さんと踊るこのひとときは、誇らしくて──そして、かけがえのない時間だ。
……だけど。
姉さんの意識は、今ここにはない。僕には、それがはっきりとわかった。
どうせまた、リナのことを気にしているんだろう。
まだ会場に姿を見せない彼女を、ダンスの最中にも関わらず探している。
僕はもう、嫉妬すら通り越して、諦めに近い感情に落ち着いていた。
……気づいていた。
姉さんが、リナと──僕やアレクシスを、近づけようとしていることに。
理由まではわからない。
けれど、その行動の一つひとつは、明らかにリナと僕たちの関係を取り持つものだった。
おそらく──姉さんはそうやって、リナを幸せにしようとしている。何かから守ろうとしている。
そのために、それが最善の策だと、どこかで結論を出しているのだ。
……まったく。おせっかいにもほどがある。
しかも──無自覚な分だけ、残酷だ。
僕やアレクシスの感情は、二の次。
そしてもちろん……自分のことも。
姉さんは、自分に向けられる好意に、驚くほど鈍感だ。
まるで彼女と周囲との間に、越えられない透明な壁があるようで──そんな感情が自分に向けられるなんて、夢にも思っていないように見える。
そんな姉さんを見ていると……いつか、僕の前から消えてしまうんじゃないかと、不安になる。
気づけば、姉さんの腰に回す腕の力を、ほんの少し強めていた。
ただ──
リナだけは違った。
初めは姉さんに守られているだけだったリナが、気づけば姉さんの心の支えになり、自然と隣にいる存在になっていた。
僕やアレクシスがなれなかった存在に、リナはなろうとしている。
心の中で、小さくため息をつく。
──だから、僕はもう、諦めた。
リナのことばかり考える姉さん。
そんなところも含めて、僕は姉さんが──好きなんだ。
もし姉さんが、何かからリナを守ろうとしているのなら……僕も、リナを守ろう。
それに──
姉さんが、僕やアレクシスをリナに近づけようとしているということは、少なくともアレクシスと同じ程度には、僕のことを認めてくれているということだ。
……その考えが、ほんの少しだけ僕の心を癒やしてくれた。
最後の一音が響き、僕たちはぴたりと動きを止めた。
その瞬間、姉さんと視線が交わる。
テンポの速い曲調だったせいで、少し息が上がっている。密着した体から伝わる熱、朱色の唇から零れる吐息──それらが、僕の心を乱す。
唇を噛み、溢れそうになる感情を必死に押し殺した。
「クラリス」
姉さんの名前を呼ぶ声に、顔を上げる。
視線の先に──彼がいた。
人垣が自然に割れ、空気がひんやりと張り詰める。ゆっくりと、その中心を彼が歩いてくる。
……まったく。どこまでも王子様だね、アレクシスは。
王太子の肩書きにふさわしい、深いロイヤルブルーの礼服。
胸元と袖口には繊細な金糸の刺繍が施されているが、華美に走りすぎることなく、気品と威厳を際立たせている。
肩から流れるマントが揺れるたび、会場の視線をさらっていった。
アレクシスの視線が、真っ直ぐに僕を捉える。
その眼差しは──僕を、確かに恋敵として認識していた。
……遅いよ。
僕は姉さんからそっと体を離し、その手を取った。
まぁ、今はまだ、君が婚約者だ。
だから、この場は譲ろう。
だけど──それでも、負けないから。
アレクシスの強い視線を受け止め、僕は挑戦的に微笑んだ。
ルークは他の攻略キャラたちよりもクラリスをよく見ているので、
彼女の変化にもしっかり気づいていました。
今回のX投稿イラストは、クラリスにダンスを申し込むルークです。
次回ep.133はリナ視点。物語が動き始めます。
9月30日(火) 19:00更新予定です。お楽しみに!
スピンオフ短編
『わたくしの推しは筆頭公爵令嬢──あなたを王妃の座にお連れします』
も公開中です!
クラリスとレティシアの“はじまり”を描いた物語ですので、
よろしければ、そちらもお楽しみください。
https://book1.adouzi.eu.org/n4339lc/




