悪役令嬢の真骨頂 2
思い通りに進むシナリオに満足しつつ、私は目的地の前で足を止めた。
ゼノの研究室の前だ。今日から彼のリナへの個別指導が始まる。
正直、最初から彼女を攻略キャラと二人きりにするのはためらわれたため、私も同伴した。最初の授業のように混乱が起きたら、個別指導の話そのものが消えてしまう危険があるからだ。
逆に言えば、初回をうまく乗り切り、指導が軌道に乗ってしまえば、後は二人きりにすることで各キャラの個別ルートに進む可能性が高まる。
ステータスも上がり、好感度も上がる。一石二鳥。笑いが止まらない。表情筋は動かないけれど。
「ゼノ先生、失礼いたします」
ノックをすると、「どうぞ」と短く返事が返ってきた。それを待ってドアを開けると、優雅に椅子に腰掛けるゼノの姿が目に入ってくる。
その手には紅茶らしき飲み物の入ったカップが握られていた。彼は一口それを口にすると、椅子から立ち上がる。
その一連の動作が、まるで舞台上の役者のように洗練されている。毎度のことながら、けしからん色気だ。
隣を見ると、リナが赤くなった顔を片手で覆い隠している。見てはいけないものを見てしまったかのように、目を固く瞑っていた。気持ちはわかる。
「リナ君と……クラリス嬢も一緒だね」
ゼノが少しホッとしたように見えるのを私は見逃さなかった。リナを一人で相手にするのは、彼にとってもかなりの負担だったのだろう。
攻略キャラにこんな扱いを受けるヒロインっていったい……
しかし、ゲームはまだ始まったばかりだ。諦めるにはまだ早い。
「今日はわたくしも時間がありましたので、なにかお手伝いできればと」
ゼノは軽く頷き、リナを座らせると、魔術の理論について説明を始めた。彼の説明は理路整然としており、誰が聞いても納得するはずのものだ。
……はずなのだが。
リナは説明の途中で眉をひそめ、完全に混乱した表情を浮かべている。
ゼノもさすがに気づいたのか、説明を繰り返そうとするが、リナの目はますます迷子になっていく。
私はふと思い当たることがあり、それを口にした。
「リナさん。まさかあなた、魔素の流れを感じられていないのでは?」
ゼノがハッとしたようにこちらを振り向く。彼もそれを失念していたようだ。この学園にいる生徒で、その基本的な感覚がない者がいるとは想像していなかったのだろう。
リナが気まずそうに視線を彷徨わせる様子から、それが事実であることを私は確信した。
「まそのながれ……?」
「何それ」と言わんばかりの反応に、私は唖然とした。
嘘でしょ? この世界に住んでいて、しかもヒロインなのに、魔素の流れを感じられていないなんて。
しかし、すぐに思い直す。貴族にとって魔術は嗜みだが、平民出身の彼女にとってはほとんど馴染みのないものだろう。魔術を使う機会もなければ、触れる機会もなかったはずだ。
そんな彼女に魔素の流れを理解しろというのは、酷な話かもしれない。
私は無言で彼女の手を取った。リナの体がビクリと震える。
そんなにビビらなくても、取って食べたりしないわ。
「いい? あなたの手は、今空気に触れているわ」
リナは顔を真っ赤にしながら、首がもげるのではないかと思うぐらい、コクコクと頷く。
「この世界のすべての魔術は”魔素”と呼ばれるエネルギーを基にしているの。魔素は空気中や生き物の体内に存在し、魔術を扱う者が意識的に引き出し、制御することで発動するのよ」
口で説明するのは簡単だが、理解するのは難しい。これは何よりも体で覚える必要があるからだ。身体能力の強化に近いものがある。
今の私は前世の記憶があるから、これを理解できないリナの気持ちもわかる。だから、一番わかりやすいやり方で彼女に伝えるのだ。
「わっ……!」
リナが身を震わせた。私の手から伝わってきた魔素の流れを感じたのだろう。私は小さく頷く。
「──わかったようね。それが、魔素よ」
私がやったのは、触れ合った手を通じて、魔素を彼女に流し込むことだ。これにより、彼女は今、”魔素”が何たるかを理解したはずだ。
もちろん、これだけで魔術を扱えるようになるわけではない。しかし、リナは確実に、魔術の根源を理解した。魔術習得の第一歩を踏み出せたことになる。
内心ホッとして視線を上げると、ぼうっとした様子のリナがこちらをじっと見つめていた。
ん? 初めて魔素を感じられたことに感動しているのかしら?
「きれい……」
きれい? 今私は魔素を流し込んだだけだ。もちろん、魔素を具現化したものはきれいと表現できるものもあるだろう。だが、まだその段階にないリナが、何に対して「きれい」と表現したのか?
「リナさん?」
「……っ、ごめんなさい!」
訝しげに彼女の名前を呼ぶ私の声に、リナは正気に戻ったように慌てて手を離した。
「あ、あのっ、ありがとうございます! とてもよくわかりました!!」
まるで恥ずかしい思いをしたかのように、顔を茹でたこのように真っ赤にして、何度も頭を下げた後、彼女は慌てて走り去っていった。
え、何? なんだったの?? いきなり魔素を流し込むなんて、やりすぎたかしら?
呆然とする私の隣から、小さな笑い声が聞こえてきた。そちらに視線を向けると、ゼノが口元を押さえながら体を震わせている。
「なるほど。クラリス嬢、君という人物を、私は誤解していたかもしれない」
彼の声はどこか愉快そうだが、その瞳には新たな興味の色が宿っている。
ゼノは少し身を乗り出し、視線を絡め取るように私を見つめる。その視線が妙に熱を帯びているのは気のせいだろうか。
「……どういう意味でしょうか?」
警戒するように返したが、ゼノは答えず、微笑を浮かべたまま再び椅子に腰を下ろした。その優雅な動作が、余計に私の警戒心を煽る。
私の企みがバレたわけではないわよ、ね?
彼女の手のぬくもりが残る手を見つめながら、私は内心首を傾げた。




