おやすみの前に
気がつけば、公爵邸にいた。
……どうやって帰ってきたのだろう。記憶がない。
恐ろしいことに、すでに部屋着に着替えている。
おそらくエミリアが手伝ってくれたのだろうが、その過程の記憶がまるで抜け落ちている。
レティシアの暴走をどうにか抑えようとしたところまでは覚えている。
そして、それがまったくの無駄だったことも。
王家オタクのホーソン家令嬢がアレクシスを推すのは、理解できる。できるが──どうか、他人を巻き込まないでいただきたい。
私はたしかにアレクシスの婚約者だが、王族ではない。巻き込まれる筋合いはないのだ。
……とはいえ、推しのために全力で突っ走れる情熱は、尊敬に値するかもしれない。
前世の“推し活”を思い出しながら、私は心の中で静かに頷いた。
演劇ホールを出たあとの記憶は──断片的に、ある。
たしか、笑顔なのに何か底知れない雰囲気をまとったルークと、顔面蒼白のリナに挟まれて……
そして、気づいたら──
……そう、リナ。顔が青かった。
もしかして、観客席からは私とアレクシスがキスしているように見えてしまったのでは……?
──それは、まずい。
もしリナの本命がアレクシスだとしたら、あれを見てひどい誤解をしたのではないだろうか。
私のせいで、リナを傷つけてしまったかもしれない。
今の私は、あのときのリナに負けないくらい、顔が青くなっている自信がある。
どうしよう。なぜ今ここにいるのかも忘れるくらい、焦りで頭がいっぱいだ。
一刻も早くリナに弁明しなければ──!
そう思った矢先、扉の向こうからノック音が響いた。
その音に、一瞬、びくりと肩が跳ねる。
……お、落ち着こう。
もう夜も更けている。今から公爵邸を飛び出して、寮の扉をガンガン叩いたりしたら、完全に不審者だ。
一つ大きく深呼吸して気持ちを整え、扉に向かって「はい」と声をかける。
「姉さん、僕だけど」
ルークだった。
……そうだ、ルークがいた。
リナが変な勘違いをしていないか、一緒にいた彼なら状況がわかるかもしれない。
私は逸る気持ちをなんとか抑えながら、扉を開けた。
──そこに立っていたのは。
いつも通りに見えて、どこかが違う。
そんな、微かに不穏な気配をまとったルークだった。
「……ごめんね、こんな時間に」
「……い、いいのよ」
いつもの笑顔のはずなのに、なぜこんなにも圧が強いのか。
思わず、私は一歩後ずさってしまった。
そのタイミングで、ルークがすっと部屋に入ってくる。
私は内心の動揺を悟られないように努めながら、冷静を装って席をすすめた。
向かい合って、席に着く。
──沈黙。
……え、なに? なにこれ?
ルークは一言も喋らず、じっとこちらを見つめている。
視線の先には……私の、口元。
──やっぱり。
私は勢いよく立ち上がった。
「──違うから」
「え?」
「あなたたちには──その、口づけしていたように見えたかもしれないけど、あれはここ、頬だから」
誰にも何も聞かれていない。でも言わずにはいられなかった。
公衆の面前でキスしたように思われるなど、エヴァレット家の名に関わるし、何より姉の威厳が地に落ちる。リナの前に、まずルークの誤解を解かなければ。
私は“完璧な公爵令嬢”の看板を自ら叩き落とす勢いで、頬を指さしながら捲し立てていた。
ルークは一瞬ぽかんと目を見開いたあと、ぷっと吹き出し、それをきっかけに大爆笑し始めた。
「……ル、ルーク?」
「……っは、バカだなぁ、アレクシスも……!」
突然笑い出したかと思えば、次の瞬間にはアレクシスをからかうような一言。けれどその声には、どこか呆れたような、それでいてどこか同情めいた響きがあった。
私は戸惑いを隠せず、その顔をじっと見つめる。
無表情なはずの私の表情から何かを読み取ったのか、ルークは「ごめん、ごめん」と言いながら、目尻の涙を拭った。
──気づけば、そこにはいつものルークがいた。
よかった。たぶん、私が“破廉恥な姉”になっていないか心配してくれていたのだろう。優しい弟だ。
でも……この様子だと、リナにも誤解されているに違いない。
明日の朝一で訂正しなければ。いや、できれば今すぐ寮に忍び込んで説明に行きたい。
──こういうとき、ゼノの呪術が羨ましい。影を通じて即座に連絡できるなんて、なんて便利なんだろう。まさに異世界版スマホ。
……そういえばこの二日間、彼と一度も連絡をとっていない。「古代の神」の出現に対して備えてくれていたはずだけれど、大丈夫だったんだろうか──
「……姉さん」
──はっ。
目の前にルークがいるのに、思考が迷子になっていた。
リナとゼノのことは、後で考えることにしよう。
私は何事もなかったかのように、ルークへ視線を戻す。空色の瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。
「明日のグランドナイトガラだけど……」
その言葉に、私は思わず身を乗り出しそうになったのを、ぎりぎりで踏みとどまった。
ま、まさか──「リナを誘おうと思ってるんだけど、協力してくれる?」とか言い出すんじゃないでしょうね!?
──大いに結構!
なんでも協力するから! お姉ちゃんに任せなさい!!
「姉さんは、誰にエスコートを頼んだの?」
斜め上からの攻撃に、思わず固まる。
──“私の”エスコート?
……いや、たしかに、公爵令嬢として舞踏会に一人で現れるわけにはいかないのは分かっている。
でも、私の意識はリナのことに集中していて、自分のエスコートのことなど完全に抜け落ちていた。
ゲームの中では──
ヒロインが会場に足を踏み入れたとき、クラリスはすでにそこにいた。
誰かにエスコートされていたかは描かれていない。
たぶん、形式的にはアレクシスなのだろうけど……
リナのためにも、それは避けた方がいい気がする。
「……わたくしに、エスコートは不要よ」
もちろん、リナとの約束を守るために、どこかの令息をふん捕まえ──いや、お願いして、踊ってもらう必要はあるだろう。
だが、エスコートの有無はその約束に含まれていない。
一人で会場に現れたって、問題はない。公爵令嬢だって、おひとり様したっていいはずだ。
「……まったく、そう言うと思ったよ」
ルークは呆れたように肩をすくめ、大げさなため息をついた。
「姉さんは……ほんとそういうとこ、変わらないね」
ふっと柔らかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと手を差し出してくる。
その意味を測りかねて手を見つめていると、ルークがにっこり笑った。
「じゃあ、僕がエスコートさせてもらってもいい?」
思いがけない提案に、私は思わず目を瞬かせる。
いやいや、あなたはリナを──と言いかけて、はっと思い出した。
そういえば、ゲームではヒロインが誰かにエスコートされて会場入りする描写はなかった。
……じゃあ、ルークにエスコートしてもらうという選択肢は、案外悪くないのかもしれない。
エスコートされることで公爵令嬢としての面子も保たれるし、弟であれば、婚約者がいる身としても、余計な憶測や醜聞に巻き込まれる心配はない。
「……そうね。じゃあ、お願いしようかしら」
私は小さく頷き、ルークの手にそっと手を重ねた。
思っていたよりも、大きな手だった。
かつて──彼がエヴァレット家に来たばかりで、ここでの生活に苦しんでいたあの頃。
泣きじゃくるルークの手を取って、立ち上がらせたことがある。
あのときの、小さくてか細い手ではもうなかった。
今、私が握っているのは……完璧を求められるエヴァレット家の、優秀な後継者としての手だ。
少し感慨に浸りながらその手を見つめていると、ルークがゆっくりと、私の手を握り返してきた。
その力強さに驚いて、思わず顔を上げる。
──すぐ目の前に、ルークの空色の瞳があった。
咄嗟に、反応できなかった。
そのまま彼の顔が、すっと近づいてくる。
緑金の髪がさらりと揺れて、ああ、綺麗だな──なんて思っているうちに、頬に何かがそっと触れた。
──それは、アレクシスの唇が触れた場所の、反対側。
私の唇のすぐ、横に。
けれど、それはほんの一瞬のことだった。
気がつけば、ルークの顔は離れていて、彼は少し照れくさそうに笑っていた。
「……おやすみ」
そう言って、握っていた手を離すと、そのまま私の髪を撫でるようにそっと触れる。
私も、「おやすみなさい」と返そうとして──
けれど、声が出なかった。
口が動かない。
そのとき、ようやく自分が動揺していることに気づく。
くすっと笑うルークを見送ることしかできず、私はただその背中を見つめたまま。
……い、今のは……その、家族の……おやすみのキス……よね。
けれど──
これまでルークにそんなことをされた記憶はない。
私からしたこともない。
エヴァレット家にそんな習慣もない。
……意外なところから不意打ちを受けたせいか、頭が回らない。
早鐘のように高鳴る心臓に急かされ、私はふらふらと、ベッドへ向かって歩き出した。
もうそろそろクラリスのキャパがオーバーし始めている模様。
アレクシスが一線を越えていなかったので、ルークもギリギリ踏みとどまりました。
今回のX投稿イラストは、ルークのお休みのキス?です☺️
次回のep.128は短い幕間となるため、ep.129と合わせて連続投稿します。
ep.128は9月16日(火) 19:00更新、ep.129は19:10更新予定です。
お楽しみに!
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