誓いの口づけ
何かが──触れた。
けれど、それがどうしてそこにあるのか、私には理解できなかった。
閉じていた目を開きたくなったが、劇がまだ終わっていないことだけは分かっていたので、私はじっと堪える。
その感触は、幕が降り、音楽が完全に止むまで、確かにそこにあった。
そして、ゆっくりと離れていく。
私は恐る恐る、目を開けた。
──すぐ目の前に、アレクシスの薄氷のような瞳があった。
息がかかるほどの距離で、彼の視線がまっすぐ私を見ている。
あまりに近すぎて──私の思考は、一瞬で真っ白になった。
……な、なぜこんなに近くに?
今の、あの感触は──
私はかすかに震える手をそっと伸ばし、その箇所に触れる。
──唇の、すぐ隣。
かろうじて「頬」と呼べる場所に、確かに残っていた温もり。
視線をほんの少し下にずらすと、彼の口元が視界に入った。
……まさか……いや、そんな、はず……
今の私、無表情でいられているのだろうか?
それすらも分からないほど、頭の中は混乱していた。
そんな私を、アレクシスはじっと見つめる。
そして、ゆっくりと──口の端を上げた。
彼は私の腰に添えていた手をそっと解くと、ふいに顔を寄せ、耳元に低く囁いた。
「……次は、外さない」
その声が耳朶をかすめ、全身を電流のように駆け抜けていく。
……次? なに、それ。
外さないって……どういう意味……?
次も何も、劇はこれでもう終わりのはずで──
私は言葉を失い、ただ呆然と彼を見上げた。
アレクシスはどこか満足げに微笑むと、私の耳にかかった髪を指先でそっとすくう。
そして、そのまま、軽く耳に触れた。
──ひんやりとした指先が、優しく耳を撫でる。
瞬間、ぞくりと全身に何かが走った。
耳から伝わったその感触が背筋を這い、胸の奥まで痺れるような衝撃となって広がっていく。
思わず息を呑んだ。逃げ出したいのに、足は動かず、声も出ない。
なのに、アレクシスはそんな私を見下ろしながら、何も言わず、ただ静かに微笑んでいる。
その表情は、ひどく穏やかで──ひどく、確信に満ちていた。
……これは、嫌がらせ?
まさか、まだ怒ってるってこと……?
けれど──たぶん、もう怒っていない。
劇が始まる前まであった、あの張り詰めた空気。息をするたびに感じていた、彼との間の居心地の悪さ。
それが、今はもう、嘘のように感じられなかった。
劇中、ローゼリアを救いに現れたエルヴィン──アレクシスの表情を見たとき、私は、ああ、許してもらえたのだと思った。
彼の中で、どんな心の変化があったのかはわからない。
それでもあの瞬間の彼の顔は、いつもの──私の知っている、アレクシスだった。
だから私は、安心してしまったのだ。
レティシアの言葉を思い出しながら、「誓いの口づけ」のシーンで、すべてを彼に委ねた。
……その結果が、これ。
脳内は混乱の渦。体はこわばり、身動き一つ取れない。
そんな私を見つめながら、アレクシスはふっと微笑を浮かべ──耳に触れていた手を、ゆっくりと離した。
そのタイミングを見計らったように、レティシアが勢いよく舞台裏から飛び込んでくる。
「アレクシス様、クラリス様……っ! お疲れ様でございましたぁ……!!」
彼女は感極まったようにぽろぽろと涙をこぼしながら、私の手を両手でぎゅっと握りしめる。
その様子に、アレクシスは苦笑を浮かべると、何も言わず私たちに背を向けて歩き出した。
……その背中が遠ざかっていくのを、私はまた、見つめることしかできなかった。
控室で着替えを済ませ、制服姿に戻ってからも──私の思考は、なお混沌の渦の中にあった。
……確かに、ゲーム中でも「学園祭でアレクシスのクラス劇を鑑賞するイベント」は存在していた。
ラストの「誓いの口づけ」の場面、アレクシスは演技の最中に一瞬、観客席にいるヒロインへと視線を向ける。
その視線を受け、ヒロインは──以前、生徒会室でふたりきりで行った「誓いの口づけ」の練習を思い出し、そっと頬を染める。
……けれど、今日の私は、それどころではなかった。
心に余裕なんてなくて、アレクシスの様子も、リナの反応も、まるで目に入らなかった。
だって、あのシーン──私は目を瞑っていたのだから。
実は、裏ではそんなことになっていた……? それで、勢い余って──
いや、意味がわからない。わからなすぎる。
頭の中で考えれば考えるほど、思考が混線していく。
自分でも自分の動揺の正体がつかめず、ただひたすら、ぐるぐると答えのない迷路を彷徨っているようだった。
「クラリス様、ありがとうございます」
そのとき、髪を梳いてくれていたレティシアが、うっとりとした声でそう呟いた。
彼女は私と同じ公爵家の令嬢であり、本来ならこんな侍女のような役目を担う必要などないはずだった。
けれど、もともと着替えを手伝う予定だった生徒と代わって、いつの間にか私のお世話をしてくれていた。
……ありがたいけれど、どうして彼女からお礼を言われるのか、いまひとつ分からなくて、私は思わず首を傾げる。
「わたくしは……何もしておりませんが」
私の疑問に、レティシアはくすりと笑った。
「クラリス様がご快諾くださらなければ、この劇は実現しませんでした。劇が成功したのは、クラリス様のおかげです……本当に、感謝しています」
……ああ、そういうことか。
レティシアとしては、この劇を何としてでも成功させたかったのだろう。
私が承諾しなければ、アレクシスが頷くこともなかっただろうし……そう思えば、確かに、私は彼女の願いに応えたのかもしれない。
でも、本当に……これは成功だったのだろうか。
私なんかよりも、もっと表情豊かで、舞台にふさわしい人が演じていたほうが、劇としては完成度が高かったのでは──
そんなふうに自分の中で反省会が始まっているうちに、心の中に渦巻いていた動揺も、少しずつ静まっていった。
……うん。あれはきっと夢だったのだ。
私、目を瞑っていたし。目を開けてもすぐ目の前に、あんなに整った顔があったし。
そう、私は白昼夢を見たのだ。あれは幻に違いない。
そんなふうに、必死に自分を落ち着けようとしていたそのとき。
髪を梳き終えたレティシアが、そっと私の肩に手を添えた。
「それに……わたくし、将来の王と王妃の、記念すべき『誓いの口づけ』を後押しできたことに、心からの感謝と感動をお伝えしたくて……」
「──お待ちください」
いやいやいや。ちょっと待ってほしい。
私はできる限り冷静を装って言葉を挟んだが、内心では冷や汗が止まらない。
その言い回しでは、まるで──私とアレクシスが……キ、キスをしたように聞こえるではないか。
「何か……何か誤解があるように思えるのですが……」
「まあ、クラリス様ったら。確かに、初めての口づけを皆に見られてしまって、恥ずかしいお気持ちはわかりますけれど……」
「──ですから、く、口づけなどしておりません」
……どうやら、アレクシスの唇が私の頬に触れたのは、幻覚でも夢でもなかったらしい。そこは、もう、認めるしかない。
だが、口と頬では、意味がまるで違う。まさに、天と地ほども。
もしあの行為が“演出”で、観客にキスだと思わせる意図があったのなら──それは完璧な演技だったと称賛すべきかもしれない。
けれど、それはあくまで演出。本当にしていないことを、していたことにはできない。
ましてや──もしリナの本命がアレクシスだったとしたら、今回の出来事は、グランドナイトガラに暗い影を落としかねない。
私は必死に否定を続けるが、レティシアは「あらあら」とでも言いたげに、実に微妙な、生暖かい笑みを浮かべていた。
……だめだ、完全に誤解されている。早急に、訂正しなければ。
「確かにアレクシス様の……その、唇が触れたのは事実ですが、それは、ここ──頬です。口ではございません」
私はそっと、アレクシスの唇が触れたあたり──よりも少しだけ頬寄りの場所に指を添える。
その“少しだけずらす”という小さな抵抗が、私の中では非常に重要なのだ。……気持ちの問題である。
しばしの沈黙のあと、レティシアはわずかに眉根を寄せ、頬に手を添えて小首を傾げた。
「……焚き付け方が足りなかったのかしら」
「え?」
「いえ、なんでもございません」
そう言って、彼女はすぐにいつもの微笑みを取り戻す。
「そうですわね。初めての口づけは──皆のいないところで、お二人だけで、ごゆっくりと……」
「で、ですから、それは誤解だと──」
なおも幻想に酔いしれるレティシアに、私はひたすら否定の言葉を繰り返すしかなかった。
策士レティシアは不満そうですが、どうにか大事な一線は超えずに済んだクラリス。
しかし、対外的にはしっかり「誓いの口づけ」を交わしたことになってしまいました。
ちなみに、アレクシスが耳に触れたのは、赤くなっているのを確かめて、クラリスの動揺ぶりを確認するためです。
今回のX投稿イラストは、そんなクラリスに満足げに微笑むアレクシスです。
次回ep.127は、ルークの大逆襲。
9月12日(金) 19:00更新予定です。お楽しみに!
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