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完全無欠の悪役令嬢はポンコツヒロインをほうっておけない  作者: Kei
第八章 運命の時! グランドナイトガラ

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誓いの口づけ

 何かが──触れた。


 けれど、それがどうしてそこにあるのか、私には理解できなかった。


 閉じていた目を開きたくなったが、劇がまだ終わっていないことだけは分かっていたので、私はじっと堪える。


 その感触は、幕が降り、音楽が完全に止むまで、確かにそこにあった。


 そして、ゆっくりと離れていく。


 私は恐る恐る、目を開けた。


 ──すぐ目の前に、アレクシスの薄氷のような瞳があった。


 息がかかるほどの距離で、彼の視線がまっすぐ私を見ている。


 あまりに近すぎて──私の思考は、一瞬で真っ白になった。


 ……な、なぜこんなに近くに?

 今の、あの感触は──


 私はかすかに震える手をそっと伸ばし、その箇所に触れる。


 ──唇の、すぐ隣。


 かろうじて「頬」と呼べる場所に、確かに残っていた温もり。


 視線をほんの少し下にずらすと、彼の口元が視界に入った。


 ……まさか……いや、そんな、はず……


 今の私、無表情でいられているのだろうか?

 それすらも分からないほど、頭の中は混乱していた。


 そんな私を、アレクシスはじっと見つめる。

 そして、ゆっくりと──口の端を上げた。


 彼は私の腰に添えていた手をそっと解くと、ふいに顔を寄せ、耳元に低く囁いた。


「……次は、外さない」


 その声が耳朶をかすめ、全身を電流のように駆け抜けていく。


 ……次? なに、それ。

 外さないって……どういう意味……?


 次も何も、劇はこれでもう終わりのはずで──


 私は言葉を失い、ただ呆然と彼を見上げた。


 アレクシスはどこか満足げに微笑むと、私の耳にかかった髪を指先でそっとすくう。

 そして、そのまま、軽く耳に触れた。


 ──ひんやりとした指先が、優しく耳を撫でる。


 瞬間、ぞくりと全身に何かが走った。


 耳から伝わったその感触が背筋を這い、胸の奥まで痺れるような衝撃となって広がっていく。


 思わず息を呑んだ。逃げ出したいのに、足は動かず、声も出ない。


 なのに、アレクシスはそんな私を見下ろしながら、何も言わず、ただ静かに微笑んでいる。

 その表情は、ひどく穏やかで──ひどく、確信に満ちていた。


 ……これは、嫌がらせ?

 まさか、まだ怒ってるってこと……?


 けれど──たぶん、もう怒っていない。


 劇が始まる前まであった、あの張り詰めた空気。息をするたびに感じていた、彼との間の居心地の悪さ。

 それが、今はもう、嘘のように感じられなかった。


 劇中、ローゼリアを救いに現れたエルヴィン──アレクシスの表情を見たとき、私は、ああ、許してもらえたのだと思った。


 彼の中で、どんな心の変化があったのかはわからない。

 それでもあの瞬間の彼の顔は、いつもの──私の知っている、アレクシスだった。


 だから私は、安心してしまったのだ。

 レティシアの言葉を思い出しながら、「誓いの口づけ」のシーンで、すべてを彼に委ねた。


 ……その結果が、これ。


 脳内は混乱の渦。体はこわばり、身動き一つ取れない。

 そんな私を見つめながら、アレクシスはふっと微笑を浮かべ──耳に触れていた手を、ゆっくりと離した。


 そのタイミングを見計らったように、レティシアが勢いよく舞台裏から飛び込んでくる。


「アレクシス様、クラリス様……っ! お疲れ様でございましたぁ……!!」


 彼女は感極まったようにぽろぽろと涙をこぼしながら、私の手を両手でぎゅっと握りしめる。

 その様子に、アレクシスは苦笑を浮かべると、何も言わず私たちに背を向けて歩き出した。


 ……その背中が遠ざかっていくのを、私はまた、見つめることしかできなかった。




 控室で着替えを済ませ、制服姿に戻ってからも──私の思考は、なお混沌の渦の中にあった。


 ……確かに、ゲーム中でも「学園祭でアレクシスのクラス劇を鑑賞するイベント」は存在していた。

 ラストの「誓いの口づけ」の場面、アレクシスは演技の最中に一瞬、観客席にいるヒロインへと視線を向ける。

 その視線を受け、ヒロインは──以前、生徒会室でふたりきりで行った「誓いの口づけ」の練習を思い出し、そっと頬を染める。


 ……けれど、今日の私は、それどころではなかった。


 心に余裕なんてなくて、アレクシスの様子も、リナの反応も、まるで目に入らなかった。

 だって、あのシーン──私は目を瞑っていたのだから。


 実は、裏ではそんなことになっていた……? それで、勢い余って──

 いや、意味がわからない。わからなすぎる。


 頭の中で考えれば考えるほど、思考が混線していく。

 自分でも自分の動揺の正体がつかめず、ただひたすら、ぐるぐると答えのない迷路を彷徨っているようだった。


「クラリス様、ありがとうございます」


 そのとき、髪を梳いてくれていたレティシアが、うっとりとした声でそう呟いた。

 彼女は私と同じ公爵家の令嬢であり、本来ならこんな侍女のような役目を担う必要などないはずだった。

 けれど、もともと着替えを手伝う予定だった生徒と代わって、いつの間にか私のお世話をしてくれていた。


 ……ありがたいけれど、どうして彼女からお礼を言われるのか、いまひとつ分からなくて、私は思わず首を傾げる。


「わたくしは……何もしておりませんが」


 私の疑問に、レティシアはくすりと笑った。


「クラリス様がご快諾くださらなければ、この劇は実現しませんでした。劇が成功したのは、クラリス様のおかげです……本当に、感謝しています」


 ……ああ、そういうことか。

 レティシアとしては、この劇を何としてでも成功させたかったのだろう。

 私が承諾しなければ、アレクシスが頷くこともなかっただろうし……そう思えば、確かに、私は彼女の願いに応えたのかもしれない。


 でも、本当に……これは成功だったのだろうか。

 私なんかよりも、もっと表情豊かで、舞台にふさわしい人が演じていたほうが、劇としては完成度が高かったのでは──


 そんなふうに自分の中で反省会が始まっているうちに、心の中に渦巻いていた動揺も、少しずつ静まっていった。


 ……うん。あれはきっと夢だったのだ。

 私、目を瞑っていたし。目を開けてもすぐ目の前に、あんなに整った顔があったし。

 そう、私は白昼夢を見たのだ。あれは幻に違いない。


 そんなふうに、必死に自分を落ち着けようとしていたそのとき。

 髪を梳き終えたレティシアが、そっと私の肩に手を添えた。


「それに……わたくし、将来の王と王妃の、記念すべき『誓いの口づけ』を後押しできたことに、心からの感謝と感動をお伝えしたくて……」

「──お待ちください」


 いやいやいや。ちょっと待ってほしい。


 私はできる限り冷静を装って言葉を挟んだが、内心では冷や汗が止まらない。


 その言い回しでは、まるで──私とアレクシスが……キ、キスをしたように聞こえるではないか。


「何か……何か誤解があるように思えるのですが……」

「まあ、クラリス様ったら。確かに、初めての口づけを皆に見られてしまって、恥ずかしいお気持ちはわかりますけれど……」

「──ですから、く、口づけなどしておりません」


 ……どうやら、アレクシスの唇が私の頬に触れたのは、幻覚でも夢でもなかったらしい。そこは、もう、認めるしかない。


 だが、口と頬では、意味がまるで違う。まさに、天と地ほども。


 もしあの行為が“演出”で、観客にキスだと思わせる意図があったのなら──それは完璧な演技だったと称賛すべきかもしれない。


 けれど、それはあくまで演出。本当にしていないことを、していたことにはできない。


 ましてや──もしリナの本命がアレクシスだったとしたら、今回の出来事は、グランドナイトガラに暗い影を落としかねない。


 私は必死に否定を続けるが、レティシアは「あらあら」とでも言いたげに、実に微妙な、生暖かい笑みを浮かべていた。


 ……だめだ、完全に誤解されている。早急に、訂正しなければ。


「確かにアレクシス様の……その、唇が触れたのは事実ですが、それは、ここ──頬です。口ではございません」


 私はそっと、アレクシスの唇が触れたあたり──よりも少しだけ頬寄りの場所に指を添える。


 その“少しだけずらす”という小さな抵抗が、私の中では非常に重要なのだ。……気持ちの問題である。


 しばしの沈黙のあと、レティシアはわずかに眉根を寄せ、頬に手を添えて小首を傾げた。


「……焚き付け方が足りなかったのかしら」

「え?」

「いえ、なんでもございません」


 そう言って、彼女はすぐにいつもの微笑みを取り戻す。


「そうですわね。初めての口づけは──皆のいないところで、お二人だけで、ごゆっくりと……」

「で、ですから、それは誤解だと──」


 なおも幻想に酔いしれるレティシアに、私はひたすら否定の言葉を繰り返すしかなかった。


策士レティシアは不満そうですが、どうにか大事な一線は超えずに済んだクラリス。

しかし、対外的にはしっかり「誓いの口づけ」を交わしたことになってしまいました。


ちなみに、アレクシスが耳に触れたのは、赤くなっているのを確かめて、クラリスの動揺ぶりを確認するためです。

今回のX投稿イラストは、そんなクラリスに満足げに微笑むアレクシスです。


次回ep.127は、ルークの大逆襲。

9月12日(金) 19:00更新予定です。お楽しみに!


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 『わたくしの推しは筆頭公爵令嬢──あなたを王妃の座にお連れします』
(クラリスとレティシアの“はじまり”を描いた物語です)

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 『毎日プロポーズしてくる魔導師様から逃げたいのに、転移先がまた彼の隣です』
(社畜OLと美形魔導師様の、逃げられない溺愛ラブコメです)

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