【リナ】不器用な王子様 1
舞台の幕が静かに降りるのと同時に、《ミスティルローズ》の花びらが、はらはらと空中に舞い落ちていく。
その花は、エルデンローゼ王国の象徴。
そして、「二人の誓いが永遠に続く」という伝説を体現する特別な存在だ。
──「エルデンローゼの誓い」。
その物語のラストを飾る、象徴的な演出だった。
エルヴィン様とローゼリア様が……
いや、アレクシス殿下とクラリス様が、ゆっくりと降りてきた幕に隠れ、やがて見えなくなる。
私は、動けなかった。
隣に座るルークくんの表情を見るのが怖くて、視線を向けることもできない。
脂汗がにじむ。背筋を固くしたまま、椅子に縫いとめられたように動けなかった。
昨日、クラスの飲食店の仕事を終え、ルークくんと並んで生徒会室に戻る途中のことだった。
日は傾き、廊下にはもう夕闇が忍び込んでいた。先の方、生徒会室の扉がわずかに開いていて、そこから夕日が漏れている。
きっと、アレクシス殿下やクラリス様が中にいらっしゃるのだろう──
そう思うと、嬉しくて、私は自然と足を速めていた。
けれど。
扉の隙間から漏れ聞こえてきた声に、思わず立ち止まった。
「……勝手をして、申し訳ございません。ディアナ様がケガをされ、儀に出られる状態ではなかったため、私が代役を──」
「それなら──なぜ、私を呼ばなかった?」
その声は、間違いなくアレクシス殿下とクラリス様のものだった。
けれど、そこにあったのは、いつもの穏やかなやりとりではなかった。
張り詰めた空気が、扉の隙間から溢れてくるようだった。
私が足を止めたのに気づいて、ルークくんも歩を止め、不思議そうに眉をひそめる。
アレクシス殿下の声には、明らかな苛立ちが滲んでいた。
一方で、クラリス様の声音は淡々としているようで──けれど、微かに揺れているようにも感じた。
詳細はわからないが、おふたりの言葉から察するに、「双剣の儀」で何かすれ違いがあったのだろう。
私の心臓が、うるさいほど打ち鳴らされていた。
どうしよう。クラリス様が困っている。
でも、私が口を出していいようなことじゃないかもしれない……
頭が混乱して、思考がぐるぐる回る。
「……申し訳ございません」
その声が、耳を打った。
──クラリス様の、声だ。
今まで聞いたことのない。ひどく、悲しい声音だった。
理由はわからない。でも、それはまるで、何か大切なものを手放してしまった人のような、そんな痛みを帯びていた。
次の瞬間、私の中で何かが弾けた。
その衝動が、私の足を前に動かす。
隣にいたルークくんも、まるで同じ衝動に突き動かされたように、一歩を踏み出した。
私たちは、ためらいなく生徒会室の扉を開く。
中には──
深く頭を垂れるクラリス様と、俯いたまま立ち尽くすアレクシス殿下の姿があった。
クラリス様はこちらに背を向けていて、表情は見えない。
アレクシス殿下も、夕陽を背にしていて、顔は影に沈んでいた。
だが、その手がゆっくりとクラリス様へと伸ばされていくのを見た瞬間──
胸の奥で、何かがざわめいた。
──クラリス様に、触れないで。
理由なんてわからない。ただ、今の殿下に、クラリス様へ触れてほしくないと、強く思った。
ルークくんも同じ気持ちだったのだろう。彼が一歩前に出て、その手を静かに、けれど確かに掴んだ。
殿下の手は、クラリス様に届くことなく、止まった。
私は安堵の息をついて、クラリス様の傍に立つ。そして、彼女の手を、そっと握りしめた。
クラリス様が、驚いたように顔を上げ、こちらを見つめる。
私は、クラリス様を安心させたくて、できる限りの笑顔を向けた。
──もう、大丈夫。
私が……私たちが、クラリス様を守るから。
「おはよう、リナ」
次の日、クラリス様はいつも通りに挨拶をしてくれた。
でも……たぶん、昨日は眠れなかったんだと思う。顔色が、少し悪い。
その姿を見た瞬間、胸の奥がムカムカしてきた。
何があったのかは知らない。でも、クラリス様をこんな顔にさせたアレクシス殿下に、どうしようもなく腹が立っていた。
もちろん、もしかしたらクラリス様が何か失敗したのかもしれない。そんなの、考えられないけれど。
それでも、クラリス様はきちんと謝っていた。それを許してあげられないなんて、王子様のくせに心が狭すぎる。
私は──クラリス様には、幸せになってほしい。
だから、クラリス様を幸せにしてくれる人と、一緒になってほしいって、心の底から思ってる。
アレクシス殿下は婚約者で、一番近くにいるはずの人なのに──
今のままじゃ、とてもクラリス様を任せられない。
ライオネル先生やルークくんのほうが、よっぽどクラリス様を幸せにしてくれそうだ。
ライオネル先生は、クラリス様を前にするとちょっと意識しすぎて、なかなか踏み込めないみたい。
だから、応援の意味も込めて、「双星の舞」を一緒に踊ってほしいってお願いしてみた。
お二人の舞は本当に素敵だったし、お似合いだと思った。ライオネル先生なら、クラリス様をちゃんと大事にしてくれるはず。
ルークくんは、いつだってクラリス様に優しい。
残念ながらクラリス様は、ルークくんのことを“弟”としてしか見ていないみたいだけど……
でも、この前の「星降るパフェ」のときは、さすがのクラリス様も動揺していた。
あのときの顔を見て、「これは……いけるかも」って、ちょっと思った。
少なくとも、ルークくんはクラリス様に悲しい顔をさせたりしないと思う。
ゼノ先生は……うーん、まだちょっとよくわからない。
でも、クラリス様のことを憎からず思ってるのは、なんとなくわかる。
もともとゼノ先生って、クラリス様のことを観察するように見ていた気がする。
それがなんだか、ちょっとだけモヤモヤして──上手く言えないけど、嫌な感じだった。
クラリス様も、それを感じ取っていたのか、ときどき居心地悪そうにしていた。
でも……夏休みの後から、先生の視線が変わった。
それは本当に、ささやかな変化だったけど──
誰よりもクラリス様を見ている私には、ちゃんとわかった。
今の先生の目は、どこか優しくて、見守るようなまなざし。
そう言うと変かもしれないけど……でも、前に感じていたモヤモヤは、もう感じなくなっていた。
クラリス様のまわりには、ちゃんとクラリス様を大切にしてくれる人たちがいる。
もちろん、私だって。
絶対に、クラリス様を大切にするって、決めてるんだから。
「じゃあ、今日も頑張りましょうね!」
私は、クラリス様が無理をしているのに気づかないふりをして──でも、元気づけるつもりで、その手をぎゅっと握った。
クラリス様は、少しだけ驚いたように目を見開いた。けれど、その手が振り払われることはなかった。……よかった。
「リナだけずるいよ」
そう言って、ルークくんもクラリス様の反対の手を取る。
私とルークくんに両側から手を握られて、クラリス様は無表情のまま、けれど少し困ったように眉を下げていた。
──その表情が、とても可愛くて。
この人に、もう二度と悲しい思いをさせたくない──そう、心の底から思った。
生徒会室に着くと、すでにアレクシス殿下は忙しそうに仕事をしていた。
──見た目は、いつも通りの殿下。
けれど、一瞬こちらに視線を向けたかと思えば、すぐに手元の書類へ目を戻し、淡々と周囲に指示を飛ばしていく。
……感じ悪っ。王子様なのに、ちっとも優しくない。
私はクラリス様をかばうように、そっと握った手に力を込めた。
昨日のことを、すぐにクラリス様に謝ってくれてたら、見直したのに。
やっぱりクラリス様には、もっと優しくて誠実な人と幸せになってほしい。
夏休みに、私の剣の特訓をしてくれた騎士団長のヴィンセント様──ううん、ヴィンセント師匠。
師匠は、婚約者のいたご令嬢と恋に落ちて、その婚約を破棄させてまで結ばれたって噂を聞いた。
なんて素敵なストーリー! 物語の中の騎士様みたい!
……まあ、実際の師匠は騎士様っていうより、ちょっと野生味強めで荒っぽいけど。そこは、物語補正でいいことにする。
だったら、クラリス様にだって、別の人と結ばれる未来があってもいいはずだ。
「姉さん、大丈夫?」
ルークくんが、クラリス様の耳元でそっと囁く。
その声音には、心からの心配と優しさがにじんでいた。
……うん、やっぱりルークくんって、いいよね!
その眼差しからも、クラリス様へのまっすぐな愛が感じられる!
クラリス様は、一拍だけ間をおいて、小さく頷いた。
そして、私たちの手をぎゅっと握り返してから、そっと手を離す。
「大丈夫」──きっと、そう言いたいんだろうけど。
その横顔は……あんまり、大丈夫そうには見えなかった。
リナの中のアレクシス評価、急降下中です(笑)。
クラリスを悲しませる相手は、たとえ王子様であっても容赦しません。
次回ep.124では、王様と騎士団長に遭遇!
9月2日(火) 19:00更新予定です。お楽しみに!
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