【アレクシス】彼女との距離 3
劇は、驚くほど順調に進んでいた。
胸の奥を駆け巡っていた感情は、幕が上がった瞬間に凪いでいく。
気がつけば、私は自分の体ではないかのように自然に動いていた。──まるで、それが最初から決められていたかのように。
この場にいる誰もが、この舞台のために全力を尽くしてきた。
今、私はエルヴィンであり──クラリスは、ローゼリアだった。
劇中で、私はエルヴィンという男の生き様を、まるで追体験するように歩んでいく。
愛する国と民が苦境に立たされている中、彼は剣を取り、立ち上がらずにはいられなかった。
正しさと責任を背負い、前に進むしかなかった男。
そして、そんな彼の心に灯をともしたのが、ローゼリアだった。
気づかぬうちに惹かれていた。だが、それに自覚が追いついたのは、彼女が敵の手に落ちた、そのときだった。
国のために戦うこと。
一人の女性のために剣を振るうこと。
それは、決して両立できるものではなかった。
彼はまだ王ではなかったが──すでに、人々から「王たりうる存在」としての行動を求められていた。
それでも、エルヴィンは選んだ。
どちらも、諦めないことを。
彼はただ一人、敵陣へと乗り込んだ。ローゼリアを救うために。
無謀と言われても仕方のない行為だった。
彼女を助け出し、どちらも無事でいられたのは──運が良かった。ただ、それだけのことだった。
……私には、選べない。
この場面で、ローゼリアを救いに行くという選択を──私は、取ることができない。
舞台の上では、敵に囚われたローゼリアを演じるクラリスが、牢の中から外を見上げていた。
格子窓から差し込むわずかな光の下で、彼女はただ、静かに空を仰いでいる。
「氷の公爵令嬢」──
その圧倒的な美貌と、何者にも染まらない無表情さゆえに、かつて彼女はそう呼ばれていた。
けれど、いつからだろう。彼女は変わった。
その瞳に、微かだが、確かな感情が宿るようになった。
きっかけは……そう、間違いない。リナと出会ってからだ。
あの日を境に、少しずつ、彼女の中の“氷”は溶け始めた。
無機質だった表情に、かすかな戸惑い、微笑み、そして温もりが、滲むようになっていった。
私が、それに気づかないはずがなかった。
彼女と私は、常に並んで歩いてきたのだから。
私たちの間に、特別な感情があったわけではない。
けれど、誰よりも近い存在だった。何よりも、信頼できる相手だった。
──そして、いつの間にか。
彼女は、私にとって何よりも大切な存在になっていた。
クラリスの演じるローゼリアは、私が思い描いていた理想の姿とは違っていた。
私の中でのローゼリアは、子どもたちを見守る、どこか母のような存在だった。
だが、彼女のローゼリアは──どこまでも、不器用な少女だった。
大切なものを守ろうとして、うまく伝えられず。
愛しいと想いながらも、それをどう表現していいのか分からない。
完璧に見えて、どこか欠けた存在。
けれど、その不器用さは、とても人間らしくて──
……私自身とも、よく似ていた。
気づけば、私の中のローゼリアは──クラリスのローゼリアと、重なっていた。
「……とても、お綺麗でいらっしゃいますね」
気づけば隣で、レティシアも私と同じように舞台の上を見つめていた。
囚われのローゼリア──クラリスの姿を、まるで祈るような眼差しで。
私は小さく呟いた。
「……ああ。私には……遠い存在だ」
その言葉に、レティシアがゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。
彼女の視線を受け止めるように、私も静かにその目を見返す。
「……諦めになられるのですか?」
「……最初から、届かないと分かっていて、手を伸ばす愚か者がどこにいる」
皮肉を込めたつもりだった。
けれどレティシアは、口元に微笑を浮かべながらも、目だけは真剣なまま、クスリと笑った。
「あら。わたくしは──殿下のことを、まさにその“愚か者”だと思っておりましたけれど」
思わず眉をひそめた。
だが、彼女の瞳が少しも笑っていないことに気づいて、皮肉の返しは喉の奥に沈んだ。
「……わたくしは、諦めません」
彼女の声は静かで、それでいて驚くほど揺るぎない。
「わたくしの夢は、王家に誠心誠意、仕えること。そのお相手は──アレクシス様と、クラリス様以外に考えられません」
その勝手きわまりない宣言に、思わず言葉を失う。
彼女がクラリスに強い敬意を抱いていることは知っていた。
けれど、今の言葉に宿っていたものは、それだけではない。
何か、もっと深く、熱く、執着に近いものさえ感じさせた。
「どんな手段を使っても──わたくしは、クラリス様を王妃の座にお連れします」
断言するように言い放ち、レティシアはゆっくりと私を見上げた。
その瞳は、挑戦的で、烈火のように強かった。
「……アレクシス様は、どうなさいますか?」
エルヴィンは、ただ一人、ローゼリアのもとへと駆けた。
なりふり構わず、周囲の制止も意に介さず。
愛する者を救うために、すべてを振り切って──ただ、まっすぐに。
彼は、国を見捨てたわけではなかった。
どちらか一方など選べない。どちらも守り抜けると、本気で信じていた。
だからこそ、彼は迷わず走った。
たとえどんなに傷つこうとも、泥にまみれようとも構わない。
信じるもののために、己を捧げて駆け抜けた。
──では、私はどうだ?
クラリスに特別な想いを抱きながらも、彼女の視線が自分を向いていないと感じただけで、勝手に距離を測り、勝手に絶望し、そして──諦めようとしていた。
私は。
牢屋への道に立ちはだかる敵を斬り伏せ、ようやくローゼリアのもとへ──クラリスのもとへとたどり着いた。
格子窓から差し込む月明かりが、彼女の姿を淡く照らし出している。
その光の中で、彼女はほんのわずかに不安を滲ませた表情を浮かべていた。
私は、微笑んだ。
「──待たせてすまない。もう、大丈夫だ」
……私は、いったい、何をしていたのだろう。
彼女の手を取って牢を後にし、敵城を抜け、ようやく追手の届かない場所へとたどり着いたとき──空は白み始め、東の空に朝焼けが差していた。
その光の中で、私は彼女と向き合う。
どこか安心したような、その柔らかな表情に──私は、ふっと苦笑をこぼした。
「私はお前を守る。これからも、ずっと──」
……諦めたくなど、ない。
泥を被ってもいい。
誰に笑われようとも、構わない。
私は、王太子としてではなく──
ただの一人の男、アレクシスとして。
彼女のもとへ駆けていき、必ずたどり着いてみせる。
そして、彼女と共に、未来を歩むのだ。
「だから……お前の隣に在ることを、許してほしい」
私は強く、強く彼女を抱きしめた。
彼女はいつも、この場面で私が抱きしめると、ぴたりと体を強張らせる。
それがたまらなく愛おしく、だからこそ──つい力を込めてしまいそうになるのを、毎回必死に堪えてきた。
だが、今回は違った。
彼女の体から、すっと力が抜けたのだ。
この後に続く「誓いの口づけ」の場面では、いつも彼女は硬くなったまま、視線を落とし、私と目を合わせようともしなかった。
だが、今、彼女は──
その身を預けるように、そっと目を閉じていた。
……まるで、すべてを委ねるように。
不意に、先ほどのレティシアの挑むような視線が脳裏をよぎる。
──どんな手段を使っても──
……なるほど。レティシアの入れ知恵か。
おそらく、クラリスが緊張を和らげる方法でも尋ねたのだろう。
その結果が、これだ。
舞台上で、無防備なまでに身を委ねる彼女に、思わずため息が漏れる。
あの小悪魔め……やってくれる。
私はそっと腕の力を緩め、片手で彼女の頬に触れた。
演出のために少し汚れた衣装さえ、朝焼けの光の中では、彼女の横顔をいっそう際立たせていた。
ゆっくりと顔を近づけていく。
頬に添えた手のひらで、観客の視線を遮るようにしながら、いつもよりほんの少し、距離を縮めた。
──こんなに無防備な姿を見せた君が、悪い。
口の端をかすかに上げて、私はさらに近づく。
そして──
唇が、彼女に届いた。
ようやく吹っ切れた王太子殿下、調子に乗ってしまったようです。
果たしてこの一幕が、二人の関係にどんな波紋を広げるのか──
次回ep.123は今回のトラブルをリナ視点で振り返ります。
8月29日(金) 19:00更新予定です。
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