【アレクシス】彼女との距離 2
結局、昨夜はよく眠れなかった。
本来なら、学園祭の運営で疲労困憊のはずだ。だというのに、頭の中は混乱したまま整理がつかず、少しも心が休まらなかった。
けれど、私は生徒会長だ。学園祭は、まだあと二日も残っている。
──そして、今日はクラリスとのクラス劇がある。
私は姿勢を正し、鏡に映る自分と静かに向き合った。
クラリスほどではないにせよ、私も王族として、感情を表に出さない術は心得ている。
……もっとも、彼女の前では、それがことごとく通用しないことも多いのだが。
今日は──きちんと謝ろう。
昨日の自分の言動は、彼女にとって理解しがたいものだったはずだ。
もしかすると、私の中に芽生えた……そう、嫉妬にも似たこの感情に、気づかれたかもしれない。
その理由を、きちんと伝えたい。
うまく言葉にできる自信はない。だが、それでも、このまま距離を置いたままでは、私のほうが耐えられそうになかった。
まずは、謝罪だ。
そして、クラス劇が無事に終わったら──
グランドナイトガラの夜。
彼女にダンスを申し込み、この想いを伝えよう。
クラリスは、なぜかルークとリナに両手を繋がれた状態で生徒会室に現れた。
まるで両親に手を引かれた幼子のように、彼女の手はしっかりと二人に握られている。
ルークは、あからさまに挑発するような目をこちらに向けていた。クラリスのそばに立つその姿は、まるで「僕のほうが姉さんを理解している」とでも言いたげだ。……相変わらず性格が悪い。
リナもまた、視線をこちらによこしている。普段の朗らかな表情は鳴りを潜め、驚くほど真っ直ぐで、強い目をしていた。
その眼差しはまるで──「クラリス様を傷つける人は、絶対に許さない」──そう語っているかのようだった。
……どいつもこいつも……
視線を二人から外し、私はクラリスに目を向けた。
彼女は……平静を装ってはいるが、わずかに顔色が悪い。昨夜、私と同じように、眠れなかったのだろうか。
ほんの少しでも──彼女が私のことで悩んでいたのなら。
そう思うだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
……いや、何を考えているんだ、私は。
慌てて視線を逸らし、手元の書類に目を落とす。
今のままでは、彼女に謝ることなどできそうにない。あの二人がそばにいては、なおさらだ。何を言っても遮られ、台無しにされるのが関の山だろう。
せめて、クラス劇までに二人きりになれる機会を作ろう。
そして──きちんと、謝ろう。
私は意識を切り替え、生徒会長としての役目へと心を戻す。
今は、学園祭の準備という目の前の仕事に、集中することにした。
……見通しが甘かったかもしれない。
クラス劇の時間が迫る中、結局クラリスと話す機会は一度も訪れなかった。
エルヴィンの衣装に袖を通しながら、私は小さくため息をつく。
この状態で完璧な舞台を演じられるはずがない。
せめて、幕が上がる前に──一言でも、彼女と話しておきたかった。
「アレクシス様」
ほぼ着替えを終えた頃、レティシアが姿を現した。
普段は情熱に満ちた彼女だが、今は驚くほど落ち着いている。
すでにやるべきことはやり終えた。今はただ、全員が全力を尽くすのみ。
そのことを理解しているからだろう。
彼女は、まるで戦を前にした指揮官のような静けさをまとっていた。
「……ありがとうございます、アレクシス様」
突然の感謝に、私は思わず眉をひそめる。
「何を言っている。まだ劇は始まってもいないぞ」
「ふふっ、そうですね……ですが、それでもわたくしは──お二人が主役を引き受けてくださったことに、心から感謝しているのです」
口元に手を添えて笑った彼女は、すぐにその表情を引き締め、真っ直ぐに私を見つめた。
「わたくしのホーソン家は、代々、心から王家に忠誠を誓ってまいりました。だからこそ──『エルデンローゼの誓い』をクラス劇として上演できたこと、そして、その主役をアレクシス様とクラリス様に演じていただけたことが……わたくしにとって、何よりの誇りなのです」
エルデンローゼ王国には、古くから続く三つの公爵家がある。
政の中枢を担い、宰相を代々輩出する筆頭・エヴァレット家。その影響力は、王国随一と称される。
王族の分家筋に連なり、貴族社会の頂点に君臨するヴィステリア家。格式と伝統を重んじるその姿勢は、宮廷においても特別な威光を放っている。
そして、芸術と文化の守護者・ホーソン家。王宮を彩る装飾や儀礼の数々には、代々ホーソン家の手が深く関わっているという。
三家はそれぞれ異なる領域で王家を支え、互いに干渉することなく、絶妙な均衡を保ち続けている。──それが、この国の安定を長らく支えてきた。
中でもホーソン家は、格式や権勢では他の二家に劣るかもしれない。
だが、その忠誠心だけは、誰にも真似できない。王家への想いと技術を、その手にすべて注いできた家なのだ。
レティシアは少し芝居がかった仕草で手を胸に当て、優雅にかしずく。
「次代の王と王妃の、華々しい第一歩を演出できたかもしれないことに──わたくしは、何よりも感謝しております。ありがとうございます、アレクシス様」
「次代の王と王妃」──その言葉に、私は思わず自嘲めいた笑みを漏らした。
「……本当にそうであれば、よいのだがな」
ぼそりと漏れた言葉に、レティシアは小さく首を傾げた。
「……どういう意味でいらっしゃいますか?」
私は、答えられなかった。
このままでは、そう遠くない未来に──クラリスは、私の手の届かないところへ行ってしまう。
レティシアの思い描く未来が──自分が当然のように思い描いていた未来が、叶わないこともあるのだと、私はようやく理解し始めていた。
沈黙した私を見上げて、彼女はしばらく言葉を選ぶように目を伏せ──やがて、そっと微笑んだ。
「……アレクシス様。どうか、わたくしにお任せください」
その声は、静かでありながら、どこまでも確かだった。
しばらくして──ローゼリアの衣装に身を包んだクラリスが、レティシアに手を引かれて現れた。
劇中の騒乱を表現するため、衣装にはあえて控えめな乱れが加えられていた。
それでも──いや、それだからこそ。
彼女は、息を呑むほど美しかった。
私は、この機会を逃すまいと、じっと彼女を見つめた。
けれど、どうしても言葉が出ない。
喉の奥に重たいものが引っかかったようで、声にならなかった。
私が口を開くより早く──クラリスが、そっと声を発した。
「……アレクシス様」
その名を呼ばれた瞬間、心臓が小さく跳ねた。
彼女の口から紡がれる自分の名が、どうしようもなく特別なものに思えた。
「昨日は……本当に申し訳ございませんでした」
先に謝られてしまったことに、焦りがこみ上げる。
いや、違う、そうじゃない。謝るのは、私のほうなのに。
どうにかして言葉を返そうとした、その瞬間。
「わたくしの勝手な判断で動いたことで……アレクシス様まで巻き込んでしまうところでした」
──違う。
違う、クラリス。そうじゃないんだ。
私が苛立っていたのは、そんな理由からじゃない。
クラリスとの距離は、ほんの一メートル。
けれど、その一歩が、どうしようもなく遠く感じられた。
私は……巻き込まれたかったのだ。
君が困っているとき──
そばにいたかった。力になりたかった。守りたかった。
……ただ、それだけだった。
でも君は、私をその領域に入れようとはしなかった。
──私は、何を勘違いしていたんだろう。
手を伸ばせば、すぐ届くと思っていた。
彼女は私を必要としてくれていて、常にそこにいてくれるのだと。
そんな幻想に、私は情けないほど囚われていた。
けれど、彼女はそこにはいなかった。
王太子という立場に甘えて、ただ立ち尽くしている間に。
気づけば、彼女は──もう、手の届かない場所にいたのだ。
私が気づかない間に、彼女との距離は、いつのまにか遥か遠くへと離れていたのだ。
……今になって、そんな当たり前のことに気づくなんて。
「……いや、私も悪かった」
どうにか絞り出した声は、情けないほどか細かった。
笑顔を作ったつもりだったが──おそらく、うまくいっていなかっただろう。
「……もうすぐ始まる。完璧な劇にしよう」
それだけが、今の私にできる精一杯だった。
すべてを諦めてしまったかに見えるアレクシス。
彼は最後に、どんな決断をするのか──
次回ep.122、8月26日(火) 19:00更新予定です。
お見逃しなく!
──
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表向きには優雅で楚々としたレティシアですが──その内には、熱く燃える忠誠心が。
今回は、実は熱い王家推しだった彼女のイラストです。
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