【アレクシス】彼女との距離 1
彼女は──どこまでも遠く。
どれだけ手を伸ばしても、決して届かない存在なのだと。
私は、ようやく理解した。
「双剣の儀」の後──
責任者であるライオネルが、父のもとへ挨拶に訪れた。
「なかなか見ごたえのある儀であった。未熟な学生たちを、よくあそこまで導いたものだな」
父の言葉に、ライオネルは困ったように苦笑し、静かに頭を垂れた。
「……皆、俺などより、よほど優秀な学生たちですから」
その言葉が終わらぬうちに、横から伸びた太い腕がライオネルの首に絡みついた。
「随分と面白いことになってたじゃねぇか、ライ!」
「だ、団長……!?」
突然の乱入に、ライオネルは目を見開き、動揺した。
だが──驚いたのはその存在ではなく、彼が口にした言葉の方だったのだろう。
「なんだ、ヴィンセント。どういう意味だ?」
父が眉をひそめ、怪訝そうに尋ねる。
だがヴィンセントはただ、にやにやと笑うばかりで、それ以上は何も言わなかった。
父の表情に不満の色がにじんだのを見ると、ヴィンセントはその背を軽く叩き、なだめるように笑みを浮かべた。
「いいじゃねぇか、アル。ほら、今日はもう終わりだろ。さ、帰ろうぜ」
私は、並んで歩き出す二人の背を見送りながら、そっと隣のライオネルに声を落とした。
「……あれはどういうことだ、ライオネル」
その瞬間、隣でライオネルが小さく息を呑むのがわかった。
私の問いの意味を、一瞬で悟ったのだろう。
……やはり、あれはライオネルだったのか。
私は無意識に唇を噛んでいた。
「……勝手なことをしてしまい、申し訳ございません。『双星の舞』を担当するディアナ殿が足を負傷して、出られなくなったため……」
「なぜお前が出る必要があった? カイルが怪我をしたわけではないのだろう」
気づけば、声が詰問めいていた。だが、胸の奥から噴き上がる不満は、それを抑えてはくれなかった。
ライオネルは、冷静さを保ちながらも、どこか申し訳なさそうに言葉を重ねる。
「……ご存知の通り、『双星の舞』は一度も合わせたことのない相手と演じるのは困難です。ですから──」
「──クラリスと、合わせたことがあるのか」
──私は、知らない。
もちろん、剣舞の授業の指導はライオネルの役目だ。だが、授業で二人一組で剣を合わせるとき、クラリスは常に私の隣にいた。
それは実力的にも、立場的にも、他に釣り合う相手がいなかったからだ。
ライオネルが彼女と、ましてや『双星の舞』を演じるところなど、一度として見たことがない。
一体、いつ──
「……先週、クラリス殿とリナ殿が『双剣の儀』の視察にいらした際、リナ殿にお見せするため、一度だけ──」
その言葉に、私は目を見開いた。
一度だけ……? 一度だけで、あれほどの“調和”を創り出せるというのか。
全身から、力が抜けていくのを感じた。
技術だけを比べれば、私とクラリスの組み合わせの方が優れていたはずだ。
だが、「双剣の儀」は違う。あれは互いの息を合わせ、一つのものを築き上げる儀式。
調和こそが、その真髄なのだ。
もちろん、誰かを支え導くという点では、私よりもライオネルの方が優れているだろう。
彼の、謙虚で周囲を立てる在り方は、何よりも代え難い美徳だ。
それは──将来、王として皆の先頭に立たねばならない私には、決して選ぶことのできない在り方だった。
けれど、それを差し引いても。
なぜ、彼はあのとき、彼女をあれほどまでに美しく、あれほどまでに輝かせることができたのか。
私は、自分の視線よりわずかに高い位置にあるアイスグレーの瞳をじっと見据えた。
その目は静かだった。けれど、その奥にかすかに揺れる色を、私は見逃さなかった。
「……ライオネル。お前は、彼女を──」
その先の言葉が、喉に詰まり、どうしても出てこなかった。
だが、私の問いかけの意味を、彼は察したのだろう。視線がわずかに揺れた。
それでもすぐに、しっかりと私を見返してくる。
「……殿下。俺は、ただの一騎士です」
それ以上、彼は何も言わなかった。
だが、それだけで──十分だった。
──嬢ちゃんがその気じゃなくても、周りがほうっておかないって言ってるんだよ──
ヴィンセントの言葉が、脳裏で何度も反芻される。
……あの、無自覚女め。
理不尽だとわかっていながら、それでも私は心の中で彼女を罵らずにはいられなかった。
「本当に……申し訳ございませんでした」
目の前で深く頭を垂れるクラリスを、私は言葉にならない感情を抱えたまま、ただ見下ろしていた。
本当は、こんなふうに彼女を責めるつもりなどなかった。
けれど、生徒会室に戻ってきたクラリスの姿を見た瞬間、腹の奥底から湧き上がる怒りに似た不快感が、理性をあっけなく奪い去っていった。
彼女は今、自分の独断で動いたことを詫びている。確かに、結果として儀は成功した。だが、一歩間違えれば大惨事になっていたかもしれない。彼女の判断が軽率だったのは間違いない。
……少し前の彼女なら、きっとこんな選択はしなかっただろう。
おそらく、カイルとディアナの欠場を冷静に判断し、それを淡々と告げていたはずだ。
儀式としては中途半端なものになったかもしれないが、大きな混乱にはならなかった。演者の怪我による変更は、過去にも例がなかったわけではないのだから。
なのに──彼女は、そうしなかった。
何が彼女にそうさせたのかはわからない。
だが、そこに私の存在がまるでないかのような、その事実だけが、胸の奥を苛立たせていた。
俯いた彼女の表情は、薄暗がりの中ではよく見えない。
日は沈みかけ、部屋の中に差し込むのは、わずかな夕陽の光だけだった。
その光が、彼女の白い肌をやわらかく包み込んでいる。
──すぐ手の届くところに、彼女はいる。
このまま、手を伸ばしたら。
彼女は、私のものになるのだろうか──
「……何やってるの、アレクシス」
その声に、我に返った。
気づけば、無意識のうちに彼女へと伸ばしていた腕を、ルークが掴んでいた。
視線を上げると、クラリスの横には、リナが寄り添うようにして立っていた。
「何があったのか知らないけど、そんな顔で姉さんに触ろうとしないでよ」
右腕を掴むルークの指先に、静かながらも確かな力がこもっていた。
その顔には、怒りと──どこか哀れみにも似た感情が浮かんでいる。
私は、掴まれた腕をじっと見つめた。
──私は、何をしようとしていた?
自分の中で噴き上がっていた、抑えきれない感情をようやく自覚する。
それを誤魔化すように、私はルークの手を振りほどいた。
「……お前に、何がわかる」
苦し紛れの言葉だった。だが、ルークは迷いなくそれを斬り捨てる。
「わかるわけないだろ。余裕なさすぎだよ、アレクシス」
──そんなに余裕のない顔をするな──
今朝、父に言われた言葉が、ルークの声と重なって胸の奥で響いた。
その瞬間、私はまるで自分が何かに敗れたような気がして──
唇を噛みしめ、視線を逸らすことしかできなかった。
「……私は帰る。お前たちも、もう帰れ」
そう言い捨てて、私は生徒会室を後にした。まるで、そこから逃げ出すように。
背中に視線を感じながらも、振り返らなかった。ただ、ひたすら足を前に運ぶ。
──あのとき、ルークが止めてくれなかったら。
私は、彼女に何をしていたのだろう。
その想像が、私の胸の奥に、暗く深い影を落としていた。
ライオネルのクラリスへの特別な感情に気づいたアレクシス。
その焦燥が、彼を思わぬ行動へと駆り立ててしまいます。
次回ep.121は8月22日(金) 19:00更新予定です。
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今回は、自分の想いを静かに胸に秘めるライオネルのイラストです。
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