遠ざかる背中
──疲れた。ものすごく、疲れた。
私は重い足取りで、生徒会室へと向かっていた。報告のために戻る道すがら、ようやく今日のすべてが終わったのだと思うと、体中から力が抜けそうになる。
空はすでに朱に染まり、沈みかけた夕日が石畳を長く照らしている。まったく──決して「無事に終わった」とは言えない一日だった。
朝から陛下と騎士団長に絡まれ、アレクシスには「身の程知らず」と罵られ、「双剣の儀」ではまさかの代役出演という……
これ、ガラ本番を迎える前に私、倒れてしまうんじゃない?
内心の疲労が滲み出さないように、私はいつもの無表情を顔に貼りつける。
とにかく、生徒会室でアレクシスに報告を済ませたら──あとは、早く帰って、制服のままでもいいからベッドに倒れ込む。それだけを心の支えに歩いていた。
生徒会室の扉を開けると、夕暮れの光の中、窓際にアレクシスがひとり、佇んでいた。
部屋の中は、陽が傾いたせいでほの暗い。私は火魔法で灯りをともそうと、指先に力を込める。
「──クラリス」
けれど、その動作より早く、アレクシスが私の名を呼んだ。
低く、抑えた声。どこか硬さを含んだその響きに──私は、魔素の流れと共に、その場でぴたりと動きを止めた。
アレクシスが、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。逆光の中、その表情はよく見えない。
けれど──声の調子でわかった。彼は怒っている。
……やはり、「双剣の儀」の件だろうか。
仮面とウィッグで姿を隠していたとはいえ、私たちは互いの剣舞を見慣れている。私だって、もしアレクシスが舞っていたのなら、気づかないはずがない。
きっと彼も、私があの場に立っていたことに気づいていた。
私が勝手に代役を引き受けたことに、気分を害したのかもしれない。
一歩間違えれば、儀式を台無しにし、大問題へ発展していたかもしれないのだから──
あのとき、私にはあれしか選べる道はなかった。
……でも、アレクシスが怒るのも無理はない。
私は観念し、素直に叱責を受けるつもりで、背筋を伸ばした。彼の言葉を、静かに待つ。
やがてアレクシスが目の前で足を止め、私を見下ろす。
その瞬間、逆光の中で初めて、彼の表情がはっきりと見えた。
──それは、怒りの表情ではなかった。
声音から想像していたものとはまるで違う。辛そうで、苦しげで……今にも泣き出しそうな、そんな顔だった。
……どうして。どうして、そんな顔をするの……?
戸惑いが胸を衝き、私は声を失う。
「アレクシス様……?」
呼びかけに応えるように、彼はそっと顔を上げた。伏せた瞳の奥で、何かを押し殺しているのがわかる。
黄金の髪がその表情に静かに影を落とし、絞り出すような言葉が、ぽつりと落ちた。
「……なんで、ライオネルだったんだ」
──そちらも気づかれていたか……
彼はすでに、私がディアナの代役を務めたことを理解している。そして、カイルの代役がライオネルだったことにも。
その上で、なぜライオネルとともに舞ったのか、それが知りたかったのだ。
他に誰もいなかったから──それが答え。けれど、それだけではきっと彼の問いに届かない。
そんな気がした。
「……勝手をして、申し訳ございません。ディアナ様がケガをされ、儀に出られる状態ではなかったため、私が代役を──」
「それなら──なぜ、私を呼ばなかった?」
その言葉が、鋭く私の胸に突き刺さった。
彼の問いは正しい。もっともな疑問だ。
学園祭の「双剣の儀」は、学生たちが未来を担う者としての実力を示す場。そこに、学生ではない特別講師──ライオネルを立たせることは、最初から間違いだったのだ。
私の策は、あくまで「カイルとディアナが演じていると観客に思わせる」ことを前提にしていた。
けれど、もしライオネルだと露見していたら……策を講じた私だけでなく、生徒会長であるアレクシスにも、必ず責めが及んでいただろう。
……結果がうまくいっただけだ。私は危うい綱の上を、ただ運良く渡り切ったに過ぎない。
「……アレクシス様をお呼びするだけの、時間がなかったのです」
「──なのに、ライオネルとあれだけの剣舞を合わせる時間は、あったというのか」
苛立ちに滲む声。
普段の彼なら、こんな風に感情をあらわにすることはない。それなのに、今日の彼は──朝の陛下との一件のときから、ずっと様子が違っていた。
……けれど、その理由が、私にはわからない。
「……申し訳ございません」
私はただ、頭を下げることしかできなかった。
謝ることでしか、この場を収める術が見つからなかった。
「双剣の儀」の前──
私は、不安でいっぱいだった。
完璧な公爵令嬢として、これまで何事も正確に、間違いなくこなしてきた。
けれど、アレクシスに指摘された通り、最近の私は……うまくいかないことの方が多い。
……前世の記憶を取り戻してから。
私は、「完璧さ」を保てなくなってしまった。
だって──一緒に思い出してしまったから。
楽しかったこと。嬉しかったこと。
そして、悲しかったこと。苦しかったこと。
かつての私が心の奥底に封じ込め、蓋をしていたはずの感情たち。
その全てが、前世の記憶と共にあふれ出し、私の心を、静かに、けれど確実に蝕んでいった。
……私は、かつて感情を殺すことで、完璧であろうとした。
そして今、感情によってその「完璧さ」を失おうとしている。
私は──また、弱くなってしまったのだ。
そんな自分のままで、「双剣の儀」という大舞台に立つ。
十分な練習もできぬまま、挑む。
……それが、どれほど恐ろしかったか。
けれど、これまで私が積み重ねてきたものが、私の体を動かしてくれた。
そして、ライオネルの導きによって──
私は、舞いの中で初めて、体が軽くなるのを感じた。自由に舞う喜びを知った。
そう、私は──「楽しい」、と思ってしまったのだ。
その感情が胸の中に溢れた瞬間、私は戸惑いに飲まれた。
だから、余計に不安になった。
本当に私は舞えていたのだろうか。
この感情のせいで、儀式を台無しにしてしまったのではないか。
そんな不安を、ディアナの言葉が救ってくれた。
「お二人に代わりをしていただけて、本当に良かった」
その声に、偽りは一切なかった。
純粋な感謝の言葉が、確かに私の心に届いた。
あのとき、私はその言葉に救われたのだ。
──このままでも、いいのかもしれないと。
……ほんの少し前の私なら、決してそんなことは思わなかっただろう。
「誰も傷つかない方法」など考えもしなかったはずだ。感情を排し、ただ冷静に、合理的な選択だけをしていた。
おそらく、「双星の舞」を演目ごと取り下げていただろう。「双剣の儀」としては不完全に終わるものの、演者がケガで辞退するなど、過去に前例がなかったわけではない。
──けれど、そのとき。
カイルとディアナは、きっと深く傷つく。そして、監督責任を負うライオネルもまた、無傷ではいられない。
……私は、それを見たくなかった。
理性で封じていたはずの感情が、胸の奥から滲み出し、私にそう思わせた。
だから私は、たったひとつの自分勝手な理由で──一歩間違えれば大惨事となりかねない選択をしたのだ。
……謝るしかない。それ以外に、私にできることはない。
「本当に……申し訳ございませんでした」
もう一度、深く頭を垂れ、謝罪の言葉を絞り出す。
アレクシスは、何も言わなかった。
私は俯いたまま、彼の顔を見ることができなかった。
視界の端で、彼の握りしめた拳が、ゆっくりと開かれ、私の方へと伸ばされてくるのが見えた。
その手が私に届くより早く──
何かが、それを押し留めた。
「──何やってるの、アレクシス」
聞き慣れた声に、私は驚いて顔を上げた。
そこにはルークがいた。冷静で、しかしどこか鋭い眼差しでアレクシスを見据えていた。
そして同時に、右手に伝わる温かな感触に気づく。振り返ると、リナが私の手をそっと握っていた。
彼女は私に向かって、安心させるように、静かに微笑んでいた。
「何があったのか知らないけど、そんな顔で姉さんに触ろうとしないでよ」
ルークの声は低く、静かだった。それが余計に、張り詰めた空気を震わせた。
彼の手がアレクシスの腕をしっかりと掴み、その指先に力がこもる。
アレクシスは、その手元をじっと見つめ、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
だが次の瞬間、感情を抑えきれなかったように、その手を力任せに振りほどいた。
「……お前に、何がわかる」
かすれた声で吐き出されたその言葉に、ルークは眉をひそめた。
「わかるわけないだろ。余裕なさすぎだよ、アレクシス」
その一言は、今朝、陛下が口にした言葉の響きと重なるようだった。
アレクシスは唇を強く噛みしめ、顔をそむける。
その表情には、王太子としてではなく、一人の若者としての、年相応の脆さがにじんでいた。
「……私は帰る。お前たちも、もう帰れ」
低く絞るように告げると、アレクシスは生徒会室の開け放たれた扉をそのまま抜け、夕闇に消えていった。
私は──ただ、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。
右手に伝わる、リナの温かな手のひらのぬくもりを支えに、去っていった彼の背中を、黙って見つめていた。
──何か声をかけなければ。
その気持ちは、喉の奥で小さく震えただけで、ついに口から出ることはなかった。
アレクシスとの距離を広げてしまった今回。
二人の間にできてしまった溝は、簡単には埋まりそうにありません。
今のクラリスは、前世と今世、そして今世でも過去と現在の自分の間で、非常に不安定な状態です。
自己を確立しようと必死にあがく中で今回のトラブルに直面し、さらに揺れが増している状況。
果たして二人は仲直りできるのか──
次回、ep.118は明日8月15日(金) 10:00更新予定です。
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【夏休み特別連続投稿】
8月12日(火)~15日(金)は、いつもより少し早いペースでお届けします。
・8月12日(火) 10:00 ep.114(済)/ 19:00 ep.115(済)
・8月13日(水) 10:00 ep.116(済)
・8月14日(木) 10:00 ep.117(済)
・8月15日(金) 10:00 ep.118 / 19:00 ep.119
8月12日と15日は1日2回更新です。
夏の特別編成をお楽しみください!
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