決戦の地へ
学園祭、初日──
運命の時まで、あと二日。
……昨夜は、正直ほとんど眠れなかった。
リナの完璧な可愛さに、勝利を確信したはずが、気づけばこちらが沼に沈みかけていた。危うい。このゲームはそういうジャンルではない。
寝不足の頭に気合を入れて、鏡台の前で背筋を正す。
映っているのは、公爵令嬢としての威厳を──なんとか取り繕った自分の姿。正直、この表情で「完璧な公爵令嬢」と言うには、少し自信が持てない。
とはいえ、気を抜いている暇はない。今日からの数日は、生徒会役員として嵐のような忙しさが待っているのだから。
初日の開幕は、学園長の挨拶に続き、国王陛下による来賓の辞がある。
それを終えて、ようやく各クラスや部活動による展示、模擬店が本格的に始まるのだ。
関係者が多ければ、多いなりにトラブルも増える。
生徒会役員は、見習いのリナを含めてもたったの四人。さすがにこの規模のイベントをその人数で回せるはずもなく、各クラス委員や協力者を巻き込んで、なんとか学園祭は動いている。
もっとも、学園に通っているのは貴族階級の子女たち。特に三年生ともなれば、卒業後に控える社交界デビューに向け、自分たちの評判を何より重視している。
だから多少の揉め事が起きても、たいていは自分たちで対処してくれる……はず。
今の私に、そんな些細なトラブルに構っている余裕はない。できるだけ問題が起こらないことを祈るしかない。
とにかく、ヒロイン──リナと攻略対象たちの絆を深めさせ、「古代の神」の脅威を、一時的にでも退けなければならない。
私は大きくひとつ息を吐いて気持ちを切り替えると、背筋を正し、ドアノブに手をかけた。
ガチャリと扉を開けた、その瞬間。
「わっ!」
小さな悲鳴が、耳に飛び込んできた。
「……リナ?」
驚いて声をかけると、扉のすぐ前にいたリナが、鼻を押さえながら顔を覗かせた。
どうやら開けた拍子に、私が扉をリナの鼻先にぶつけてしまったらしい。
「ご、ごめんなさい、クラリス様……!」
慌てた様子で頭を下げるリナ。
──まずい。ヒロインの顔に傷をつけてしまった……!
私はすぐにリナの手を取って、ぶつけた箇所を確認する。
……赤くなってはいるが、腫れもなく、時間が経てばすぐ引きそうだった。
ひとまず安心──したところで。
「あ、あの、クラリス様……」
か細い声が耳に届く。見れば、リナが真っ赤な顔をしてうつむいていた。
至近距離で見つめていた上、彼女の手をつかんで放さない状態だったことに、ようやく気づく。
──近い。というか、これではまるで……
「……何いい雰囲気出してるの、二人とも」
背後からの呆れた声。
思わず振り返ると、そこには腕を組んで立つルークがいた。
私は内心の動揺を必死に押し隠しながら、そっとリナの手を離す。
何事もなかったかのように、一つ咳払いをしてみせた。
「おはよう、ルーク」
「……おはよう、姉さん」
──視線が冷たい。誤魔化せていないことは、火を見るより明らかだった。
無理もない。先ほどの体勢では、誤解されても仕方がない。
朝から何をしているのかと呆れられても文句は言えないし、姉としての威厳は──もう諦めるしかないだろう。
リナに目を向けると、まだ鼻と頬は赤みを帯びているものの、すっかりいつもの調子を取り戻したのか、ニコニコと笑っていた。
昨日、エミリアにしっかり磨き上げてもらった成果が表れている。
見た目も中身も、もう立派なヒロインだ。
リナにはちゃんと、グランドナイトガラで踊りたい相手がいる。その事実が、私を深く安堵させてくれた。
本人は「無理だと思います」と言っていたが、これほど可愛いヒロインを振るような愚か者がいるとは、到底思えない。
となると、問題なのはただひとつ。私とリナの──あの約束だ。
なぜか彼女は、私にもガラで誰かと踊ってほしいと言ってきた。
もし私が誰とも踊らないなら、自分も踊らないと。
……まさか、そんな条件をつけてくるとは思わなかった。
心優しい彼女のことだから、自分だけが幸せになるのは、許せなかったのかもしれない。
しかし、壁の花を決め込むつもりだった私にとっては、想定外の要求だった。今さらパートナーを探すなど──難易度が高すぎる。
一応、婚約者であるアレクシスという選択肢がないわけではないが……もし彼がリナの本命だったとしたら、私の存在は邪魔以外の何物でもない。
無表情の裏で、私がそんな葛藤を抱えていることを知らないルークは、しばらく不審な目で私とリナを見つめていたが、諦めたようにため息をついた。
「……まあ、いいや。そろそろ出ないと間に合わないよ。準備ができてるなら、行こうか」
ルークの言葉に、私は静かに頷いた。
考え込んでいても、状況が好転するわけではない。
ここまで来たら、あとは出たとこ勝負。
壁の花を気取ってる令息を見つけて、強引にでも一緒に踊ってもらおう。
やれることは、全部やってきた。
リナを完璧なヒロインにするために、彼女の背中を押して、支えて。
できる限りのことはしたつもりだ。
ならば、あとはもう祈るしかない。そして、進むのみ。
私はまっすぐ前を見据え、決戦の地へと足を踏み出した。
学園祭編、開始です。本章は長くなりそうです。
次回、王様に絡まれます。
8/5(火) 19:00更新予定です。
Xでは更新連絡やAIイラストの投稿をしています。
今回のイラストは、決意を持って前に進むクラリスです!
https://x.com/kan_poko_novel




