完璧なヒロイン
学園祭、前日。
ついに明日から、学園祭が始まる。
前日の今日も目が回るような忙しさだったが、こうして湯船に身を沈めていると、一日の疲れが溶けていくのがわかる。
「ありがとう、エミリア」
私は湯気にゆらめく髪を撫でられながら、背後で丁寧に髪を洗ってくれているエミリアに軽く頷き、隣に目を向けた。
「リナも、今までよく頑張ったわね。お疲れ様」
「は、はい……」
湯船の中、私のすぐ隣で、リナはまるで茹でたこのように顔を真っ赤にし、膝を抱えたまま俯いている。
私のように湯に体を預けてリラックスしている様子ではなく、どこか落ち着かない様子で、水面に向かってぶくぶくと泡を吐いていた。
……そんなにお湯が熱いのだろうか?
私はもっと熱めのお湯でも構わないのだが、「お肌にも髪にもよくありません」とエミリアにきっぱり却下され、人肌より少しだけ温かいこの温度に落ち着いている。
公爵邸の浴場は、壁も床も上質な白大理石で仕立てられており、天井は高く、香を焚いた湯気がふわりと広がっている。浴槽は二人がゆったりと入っても余裕があり、真鍮の水栓や金の縁取りが施された優雅な造りで、まさに貴族のための癒しの空間だった。
明日から始まる学園祭に向けて、私はリナを公爵邸に招き入れ、彼女を徹底的に磨き上げることにした。
幸いなことに、我が家には“スーパー侍女”エミリアがいる。彼女に任せておけば、どんな少女でも見違えるような淑女へと仕立て上げてくれるに違いない。
本来なら、グランドナイトガラの前夜に彼女を招きたかったのだけれど──今は何が起きても不思議ではない状況だ。安全を取って、学園祭の前日に予定を前倒しした。
私の髪を洗い終えたエミリアが、次にリナのもとへと移動する。
「リナ様、失礼いたします」
エミリアの手が触れた瞬間、リナが「ひゃあっ!」と可愛らしい悲鳴を上げ、慌てて湯の中で体を縮こまらせた。
……なるほど。貴族にとって、侍女に身を任せるのは日常の一部だけれど、平民育ちの彼女にはまだ慣れない文化なのだろう。
だが今日は、文句を言わずに受け入れてもらう。
彼女の未来──そして世界の未来のためなのだから。
エミリアの手によって、みるみるうちに磨き上げられていくリナを眺めながら、私はひとつ、満足げに頷いた。
風呂から上がったリナは──疲れが取れたというより、完全に燃え尽きたような顔をしていた。
すっかりのぼせてしまったのか、頬は真っ赤なまま。私の方をちらりと見たかと思えば、目が合った瞬間に、さらに顔を赤らめて視線を逸らしてしまう。
……無理に磨かせすぎたかしら。エミリアの本気が過ぎたのかもしれない。もしかすると、リナの機嫌を損ねてしまったのでは──そんな不安が胸をよぎる。
「ここのお風呂、あまり気持ちよくなかったかしら……?」
恐る恐る尋ねてみると、リナは慌てたように両手をぶんぶん振って否定した。
「ち、違いますっ! すっごく素敵なお風呂でした! ただ……慣れてなくて、緊張しちゃっただけで……!」
──そうよね。わかるわ。
前世の記憶を持つ私だから理解できる。公爵邸のお風呂は、ちょっと豪華すぎる。リナにとっては、完全なる非日常の世界なのだろう。
そういえば、以前泊まり込みで勉強させたときも、客室用のお風呂にすら入るのに緊張していたっけ。無駄にストレスを与えてしまったのかもしれない。
とはいえ、今回の“磨き上げ作戦”は大成功だった。
風呂上がりのリナは、湯気に頬を染め、髪は艶やかに、肌は白桃のようにしっとりとしていて、エミリアの手腕がこれでもかというほど発揮されていた。
……可愛い。間違いなく、今夜の公爵邸で──いや、明日から始まる学園祭の参加者の中で、一番可愛い。
そのあまりの完成度に、私は思わず彼女を凝視してしまう。しかし、私の熱すぎる視線に気づいたリナが、もじもじと身を縮め始めたため、渋々視線を逸らすことにした。
こんなに可愛いリナが、誰とも絆を結べないなんて、そんなこと……あるはずがない。
──勝った、とは言わない。なんだか嫌なフラグが立ちそうだから。
でも、ここまで来ても、私はまだ知らない。
リナが、誰を“選ぶ”のか。
アレクシス。
ライオネル。
ルーク。
アレクシスとはキス寸前の名シーンを演じ、ライオネルにはウインクを飛ばしていた。ルークとは相変わらず仲が良すぎるし──正直、誰を選んでも驚かない。
──わからないのなら、もう、聞くしかない。
「……リナ」
意を決して、私は声をかけた。
リナは私の真剣な眼差しを受けて、ぽてりと首を傾げる。
「はい?」
「……その、聞きたいことがあるのだけれど」
緊張のせいで、喉が張りつくように乾いていた。私は手元のアイスティーに救いを求めるように一口含み、心を落ち着けようとする。
──今しかない。
「……リナは、誰か気になる人はいないの?」
言った。とうとう、言ってしまった。
核心を突くこの問いかけに、自分でも驚くほどの勇気が必要だった。背中を冷たい汗が伝う。万が一ここで「いえ、誰も?」なんて返された日には、私はその場で崩れ落ちてしまいそうだ。
リナは目を丸くして、ぽかんと私を見つめていた。
……この反応、あまりにも嫌な予感しかしない。
「あ、あの、ほら。アレクシス様とか、ライオネル様、それにルークとか……」
たまらず、私は具体的な名前を並べてしまった。言葉にこそ出さないものの、焦りは明らかに滲んでいたはずだ。
「素敵な殿方が、リナのまわりにはたくさんいると思うのだけれど……」
自分の言動を振り返る余裕など、もはやない。
「……グランドナイトガラで、一緒に踊りたいと思う相手は……いないの?」
──直球すぎた。
完璧を旨とする公爵令嬢のくせに、社交スキルが残念すぎる。自分の不甲斐なさに、心の中で頭を抱える。
けれど、ここまで言えば、さすがのリナにも私の意図は伝わるだろう。彼女の答えを、私は祈るような気持ちで待った。
リナはしばらく、私の言葉の意味を探るように、天井の一点を見つめていた。
そして、ゆっくりと視線を私に戻す。
エメラルドグリーンの瞳が、真っすぐに私を捉える。
──その眼差しに縫い付けられるように、私は動きを止めた。
今まで見たことのない、まっすぐで、静かな意志のこもった光。
次に彼女の口から出る言葉を、私は固唾を呑んで待った。
「……憧れている人なら、います」
ぽつりと落とされたその一言に、思わず息を呑む。
リナは頬をほんのりと染め、視線を逸らしながら、困ったように微笑んでいた。
……これはもう、言っていいのではないだろうか。
──勝った。
運命が、ついに私に微笑んだ瞬間だった。
だってこの表情、どう見ても恋する乙女じゃない!
「……でも、その人とは、ガラで踊るとか、そういうのは無理だと思います」
ぽつりと落ちたリナの言葉に、私は一瞬心臓を掴まれたような気がした。
──どうして? なぜそう思うの?
彼女の瞳が、真っ直ぐに私を見上げてきた。
その視線の純粋さに、私は思わず彼女を抱きしめそうになるのを、鋼鉄の精神力で押し留める。
「そんなことないわ、リナ。あなたとなら──踊りたいと思う人は、星の数ほどいるはずよ」
私はゆっくりと、確信を込めて頷いた。
リナは驚いたように目をぱちりと瞬かせたかと思うと、ふっと柔らかな笑みを浮かべ、くすくすと笑い出す。
……え、何かおかしなことを言ったかしら?
不安になる私をよそに、リナは目元を和らげたまま、ふわりとした声で言った。
「ありがとうございます、クラリス様。……楽しみにしてますね」
──その笑顔は。
あまりにも無垢で、あまりにも嬉しそうで、ほんのりと頬を染めて、私を見つめてくるその表情は──
どこからどう見ても。
ポンコツなんかじゃない。
完璧な、ヒロインだった。
さすが大本命、攻撃力が高いです(笑)。
次回はリナ視点で、7/29(火) 19:00更新予定です。
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今回のイラストは、クラリスとリナのパジャマパーティ!?
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