小さな舞踏会
学園祭、二日前。
ここ最近、生徒会の業務にクラス劇の稽古と、目が回るような忙しさが続いている。毎日が嵐のように過ぎ去っていく中で──本当の嵐は、これから訪れるのだという事実が、胸の奥を重くする。
ふと、ため息が漏れた。
「……疲れているようだね」
低く柔らかい声が、現実へと私の意識を引き戻す。
顔を上げると、相変わらずけしからん色香と余裕をまとったゼノが、私の様子をじっと見つめていた。
そのまなざしに動揺しそうになるのを抑え、小さく咳払いをする。
「……申し訳ございません。大丈夫です」
「そんなに疲れているのなら、また膝枕でもしようか?」
さらりと告げられた提案に、一瞬思考が止まりかける。
「──け、結構です」
なんとか言葉を絞り出した私の反応を楽しむように、ゼノはさらに追い打ちをかけてくる。
「よかったら、“あの香”も焚こうか? 安眠効果は抜群だよ?」
まるで愉快なおもちゃを見つけた子どものような笑みに、さすがの私の表情筋も引きつりそうになる。
──冗談ではない。安眠だけじゃなく、催眠効果もある香など、まっぴらだ。
これ以上話が妙な方向に脱線する前に、私は強引に意識を切り替え、机の上に広げた学園の地図に目を落とした。
エリューシア学園は広大な敷地を誇り、校舎や寮のほか、研究棟や図書館、庭園や温室──さらに、カフェや喫茶店、服飾店といった商業施設まで点在している。
グランドナイトガラの会場であるルーセントホールは、学園の中央からやや離れた場所に位置していた。広々とした庭園の奥、木々に囲まれるようにして静かに佇むそのホールは、学園でも特別な行事のときにしか使用されない、荘厳な建物だ。
そして、そのルーセントホールの裏手にある噴水──
ゲームの中では、グランドナイトガラの終盤、ヒロインが意中の相手と踊ったあと、二人きりでそこを訪れる。
そして、静寂の中で初めて「古代の神」と遭遇するのだ。
私たちはゼノの研究室で、グランドナイトガラ当日の動きを確認していた。
どうやらゼノが手を回してくれたおかげで、学園全体には魔術結界が張られているらしい。万が一、何かが起こっても、学園の外に被害が及ぶことはないという。
……そんな規模の結界を一人で張るなんて、やっぱりあの人は少し……いや、かなりおかしい。私は某師団長の美麗な微笑みを思い出し、遠い目になった。
とはいえ、王国として動けるのは、ここまで。ゼノがどこまで話を通しているかは知らないが、情報源はあくまでこの私だ。
「封印の鍵」に関する断片的な情報と結びつければ、一定の信頼は得られているようだけれど──前世の記憶、つまりゲームの内容が根拠だなんて、正直に話せば正気を疑われかねない。これ以上の根拠を示せない今、これが限界なのだろう。
ただ一つ、もし私の言う通りに「古代の神」が現れたとしても、彼らは即座に動ける構えを整えているという。ゲーム中にはなかったバックアップ体制が整っているのは、安心材料の一つだった。
結界のおかげか、今のところ訓練区域で起きたような異常事態も発生していない。
──これが、嵐の前の静けさでなければいいのだけれど。
「当日、私は学園全体を監視できるようにしておくつもりだ。何かが起きたらすぐに王城へ連絡を入れる。騎士団に早馬を飛ばせるよう、厩舎にはすでに騎馬を待機させてある」
ゼノの落ち着いた声が静かに響く。
そういえば、先日リナに誘われて厩舎を訪れたとき、美しい雌馬を見かけた。名前は──たしか、アストレア。
学園の馬とは明らかに一線を画す、気品と誇り高さを感じさせる白馬だった。
私が近づくと、アストレアはじっとこちらを見つめ、その鼻先を私の肩にすり寄せてきた。
……なんだか、やけに懐かれていた気がする。
隣でリナがクスクス笑っていたのが、今も解せない。
「リナが誰かと絆を結べていれば……『封印の鍵』としての力に目覚め、一時的とはいえ、『古代の神』を退けることができるはずなのですが……」
一番避けたい最悪の展開は、グランドナイトガラでリナが誰とも踊れず、ひとり寂しく噴水へと向かってしまうことだ。
ゲーム中では、そこでヒロインは悪役令嬢クラリス・エヴァレット──つまり、私と遭遇する。
意気消沈しているヒロインに対し、クラリスはいつものように厳しい言葉を投げかけようとし──そして、「古代の神」の顕現に出くわす。
突然の異物の出現に、ヒロインは動揺し、クラリスもまた、珍しく言葉を失う。しかし彼女は、怯むことなく神に立ち向かおうとする。
そして──ヒロインの目の前で、クラリスは散る。
血に染まった彼女のイベントスチルとともに、画面は静かにフェードアウトしていき、バッドエンドに至る。スチルを回収するために見たルートだったが、軽いトラウマになりかけた。
私はそのときのクラリスの姿を思い出し、寒気とともに両腕を抱きしめる。
……あの後、ヒロインはどうなったのか。そして、世界は。
──ここは、ゲームの中じゃない。
この世界には、人がいる。心を持ち、日々を懸命に生きる、ただのアイコンなんかじゃない“生きている人間”たちが。
私の選択と行動が、彼らを救うことになるのか──それとも。
今になって胸の奥から湧き上がってきた緊張に押され、私は自然と視線を落とす。地図の上──噴水の位置に視線を留めたまま、しばらく固まっていたそのとき、ゼノが動いた気配がした。
静かな気配とともに、私の視界の端に、彼の手が差し出される。
まるで私を誘うように、優雅に、そして迷いなく伸ばされたその手を、私は呆然と見つめた。
「……当日、君と踊るのを楽しみにしていたんだが、残念ながら、そんな余裕はなさそうだ。だから──今、ここで踊ってくれないかい?」
穏やかな声に、「古代の神」への恐怖で凍りついていた身体が、今度はまったく別の緊張に襲われる。
──な、何を言っているの、この人は。
「……ゼノは、もともとグランドナイトガラに参加する気などなかったでしょう?」
私は、知っている。彼は必須フラグを取りこぼせば、グランドナイトガラの会場にすら姿を見せない攻略キャラだ。
もちろん、ガラは教師でも参加は可能だ。生徒たちの中には、尊敬する教師と踊れることを夢見ている子もいる。だが、ゼノは特別だった。人気がありすぎて、彼が出れば場が混乱する──それが分かっているからこそ、毎年参加は見送られていた。
けれど、ヒロインがフラグを回収し、一定以上の好感度を得ていれば、彼は現れる。真っ直ぐにヒロインのもとに向かい、その手を取って、ただ一人、彼女とだけ踊るのだ。
あのイベントを見たときの感動を思い出す。何度もフラグを取り損ね、セーブとロードを繰り返し、ようやく手にしたゼノとの個別ルート。あのときの私は、本当に頑張った。過去一、頑張った。
──って、違う。今はそんなことを思い出している場合じゃない。
ついさっきまで、私は「古代の神」のことを考えていたはずなのに──気づけば、思考はまったく別の方向へと迷い込んでいた。そのせいか、あれほど感じていた恐怖の緊張は、いつの間にか霧散していた。
「君と踊れるなら、参加してもいいと思ってたんだよ」
ゼノは、相も変わらず魅惑的な笑みを浮かべながら、まるで挨拶でもするかのようにさらりと爆弾を落とす。私は思わず言葉を詰まらせた。
──この共犯者は、絶対に、わかってやっている。
私がどれだけ内心で動揺しているかを知った上で、そういうことを言うのだ。まるで実験でもするように、私の反応を観察して、楽しんでいる。
ゲーム中、ヒロインに対しては決して見せなかった、あの静かな優しさと抑制の裏側。
私には、それを隠すつもりがないらしい。彼は、同じ闇を知る者として、対等の立場で、容赦なく本性をぶつけてくる。
……だけど。
私は背筋をすっと伸ばし、ゼノの手に自分の手を重ねた。静かに。けれど、確かな意志を込めて。
その瞬間、ゼノの眼鏡の奥のアメジストの瞳がわずかに揺れたのが見えた。
「では一曲──踊りましょう、ゼノ」
私の返答に、ゼノは一瞬、完全に言葉を失っていた。予想外だったのだろう。
──ふふん。私だって、やられてばかりではないのだ。
今度はこちらの番だ。私はゼノに向かって、挑むような視線を投げた。
彼は重ねられた私の手をしばらくじっと見つめていたが、やがて静かにため息をつく。
「……なるほど。これはなかなか、厄介だ」
諦めとも悟りともつかない調子で呟いた彼は、一度ゆっくりと目を閉じる。そして、深く呼吸をひとつ置いたあと──再び瞳を開いた。
その視線が、私を捉える。
──驚くほど、穏やかな微笑みだった。
いつものように張り詰めたような美しさでもなく、他人を拒むような鋭さもない。そこにあったのは、彼の本質そのもの──静かで、柔らかな光をたたえたような眼差し。
私は思わず、息を呑んだ。
「……光栄です、“お姫様”」
甘く、静かに響く声。まるで心の奥まで染み渡るような優しさが、そこにあった。
ふいに、記憶の中の誰かの声と重なったような気がした。だが、それを思い出すより先に、ゼノが私の手をそっと引く。
私は導かれるまま、彼の隣に立ち、研究室の開けた一角へと足を進める。
棚と机の合間に作られたその空間は、もともと踊るための場所ではなかったはずなのに、不思議とそのときだけは、世界から切り離された小さな舞踏会のようだった。
音楽は、流れていない。
それでも、ゼノは自然に私の手を取って、もう一方の手を背に添える。
そして──私たちは、静かに踊り始めた。
ゆるやかなリズムで、穏やかなワルツのステップを踏む。
回転するたびに、彼の黒衣がふわりと舞い、私の裾もそれに応えるように揺れる。指先の触れ合いも、背中に添えられた手の温もりも──すべてが、静かに心を満たしていく。
──恐怖が、ほどけていく。
……きっと、大丈夫。私は、やるべきことはすべてやった。
運命を切り開くための準備は、もう整っている。
それに、私は一人ではない。
この共犯者──この世界で最も恐ろしく、そして最も頼りになる「王家の影」が、傍にいるのだから。
誰の目も届かないこの場所で、ただふたりきりで刻まれる、静かな時間。
そのひとときが、あまりに心地よくて──私は、そっと目を閉じた。
やられてばかりはいられないので、反撃……するつもりが、返り討ちに遭いました(笑)。
次回は大本命(!?)、リナの登場です!
7/25(金) 19:00更新予定です。
Xでは更新連絡やAIイラストの投稿をしています。
今回のイラストは、ゼノとクラリスの静かなワルツです。
https://x.com/kan_poko_novel




