夢の終わり
──夢を、見ていた。
母のベッドの傍らで、彼女と“約束”を交わす夢。
「わたくしは、“完璧なしゅくじょ”になります。だから……お母さま、元気になって、わたくしを見ていてください」
そう口にした私に、母は嬉しそうに──そして、どこか寂しそうに笑ってくれた。
その微笑みに胸が締めつけられたのを、今でもはっきりと覚えている。
そして、母は優しく言った。
「素敵よ、クラリス。それなら──」
──そこで、夢は終わった。
──目が覚めた。
いつもの部屋。いつもの天井。
それなのに、頭の奥がぼうっとしていて、自分がどこにいるのかわからないような、奇妙な感覚に包まれていた。
私はゆっくりと体を起こし、軽く頭を振る。
昨晩、私はたくさんの夢を見た。
あれは、前世の記憶だろうか。あるいは、夏休みの影響で見た、ゲームのイベントに似たただの夢だったのかもしれない。
アレクシスと舞踏会で踊る夢。
ライオネルと馬に乗って駆ける夢。
ルークと夕日を眺める夢。
どれも妙に鮮やかで、触れられそうなほどリアルだった。
どうしてあんな夢を見たのか、不思議で首を傾げてしまう。
でも、夢はそれだけじゃなかった。
今世の──幼い頃の夢も見た。
母と交わした、“約束”の記憶。
私は、その約束を守るために、必死に努力した。
泣いて、苦しくて、それでも諦めずに努力を重ねた。
でも──母は、私が“完璧な淑女”になる前に、この世を去った。
それでも私は、歩みを止めなかった。
約束を守らなければ、母が天国で安心できない気がしたから。
毎日、必死だった。
泣きながら、歯を食いしばって、努力を続けた。
でもあるとき、私は気づいてしまった。
──感情が、邪魔だ。
母を失った悲しみが、心の隙間から漏れ出して、私の思考を鈍らせる。足を止めさせようとする。
だから、私は決めた。
──蓋をしよう。
感情など、閉じ込めてしまえばいい。
そうして私は、感情を殺した。
それが、私を“完璧な淑女”へと押し上げてくれた。
完璧な公爵令嬢──そして、完全無欠の悪役令嬢としての私を。
ベッドを降り、鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは──
三、四歳の頃のまま、中身だけ時間を止めたような、クラリス・エヴァレットだった。
私は、小さく笑った。
けれど、鏡の中の私の表情は、無表情のままだった。
その日は、朝から妙なことばかりが起きた。
まず、朝の身支度のとき。
エミリアが手にしていたのは、どう見ても三、四歳児向けの、やたらと可愛らしいドレスだった。
私の顔を見た彼女は、一瞬ぴたりと動きを止めた後、何も言わずに静かに部屋を後にした。
朝食の席では、父がいつもの無表情のまま、じっと私を見つめてきた。
視線の意味を測りかねた私は、ただ無言で食事を終えた。気まずい。
学園へ向かう馬車の中では、いつも向かいに座るはずのルークが、なぜか私の隣に腰掛けてきた。
距離が近い。落ち着かない。
学園に到着してすぐ、リナが全力で駆け寄ってきて、全力で抱きしめてきた。
「クラリス様、会いにきました……!!」
──その勢いと腕力に、息の根を止められるかと思った。
生徒会室へ向かう途中、偶然鉢合わせたライオネルは、私の顔を見た途端、真っ赤になって視線を逸らし、「も、申し訳ございません」とだけ言い残して、逃げるように去って行った。
そして生徒会室。
アレクシスは意味深な笑みを浮かべ、こちらをじっと見ていた。
それを見たルークが、低い声で呟いた。
「幼女趣味の人は姉さんに近づかないでくれる?」
その一言で言い合いが始まった。
……もう、わけがわからない。
私はようやく、ある違和感に気づいた。
──昨日の記憶が、ない。
あれ? 私、昨日……何をしてたっけ?
確か、ゼノとライオネルの個別指導があって、そのあと生徒会の仕事もこなしたはず。
そんな気がするのだけれど、どれもこれも、靄がかかったように曖昧で、断片的だ。自信がない。
みんなの微妙な態度が、私が何かやらかしたことへの反応なのではないか──そう思うと、怖くて誰にも聞けなかった。
私は生徒会室をそっと抜け出すと、ゼノの研究室へと足を向けた。
──ゼノなら、何か知っているかもしれない。
ぼんやりとした昨日の記憶の中で、彼と図書館にいたことだけは、しっかりと覚えていた。
私は研究室の扉をノックし、返事を待ってから静かに中へ入る。
ゼノはソファに腰をかけていた。手にしているのは分厚い学術書……ではなく、一冊の絵本だった。
しかもそれは、私がよく知っている絵本だった。
「……ゼノも、絵本を読むんですね」
そう声をかけると、ゼノは視線を絵本から外さずに、小さく笑った。
その笑みは、どこか寂しさを帯びていた。
開かれていたページには、一人の少女と、一人の魔法使いが描かれていた。
──魔術がまだ体系化されていなかった時代、人々はそれを「魔法」と呼び、使い手たちを「魔法使い」として敬っていた。
当時は今よりも、魔素を感知できる者がずっと少なかったという。だからこそ、魔術は奇跡に近い「魔法」として、人々の信仰の対象でもあった。
その名残か、物語の中には、魔術師よりも「魔法使い」がよく登場する。
ゼノが読んでいるこの絵本──
それは、私が幼い頃、母に何度も読み聞かせてもらい、自分でも繰り返し読んだ、大切な一冊だった。
物語の中で、魔法使いは没落した貴族の少女に手を差し伸べ、共に困難を乗り越えていく。
少女はやがて王子と出会い、魔法使いの助けを借りながら世界を救い、最後には王子と結ばれてお姫様になる。
ゼノが開いていたのは、その中でも特に印象的なシーンだった。
傷ついた魔法使いに、少女が手を差し伸べている場面。
いつも守られる側だった少女が、初めて誰かを助けようとする瞬間だった。
──私はこの場面が好きだった。
助けられるだけではなく、自分の足で立ち、自分の意思で誰かを救おうとする姿に、子どもながらに強い憧れを抱いていた。
懐かしい挿絵を見つめながら、あの頃の記憶が、ゆっくりと蘇ってくる。
「……昨日、長年会っていなかった人物と、偶然再会してね」
ゼノはそっと絵本を閉じ、静かに私を見上げた。
眼鏡の奥にあるアメジストの瞳──
それが、私の胸の奥深くにしまい込んでいた、あの“魔法使い”の記憶と、重なった気がした。
思わず、息を呑む。
何かが、胸の奥で静かに軋んだ。
でも、それが何なのか──なぜか、言葉にできなかった。
「これは、彼女が好きだった本なんだ」
ゼノが何気なく口にした言葉に、胸の鼓動が跳ねた。
──まさか。偶然の一致。そう、ただの偶然。
けれど私は、ゼノの瞳から目を逸らすことができなかった。
沸き起こってくる疑問の言葉を喉まで押し上げたものの、それは声にならず、ただ唇の端で消える。
……いや、やめよう。私は、“約束”したのだ。
“魔法使い”さんのことは、秘密にすると。
「……私も、その本、好きでした」
私はゼノの視線を避けるように目を伏せ、ぽつりと呟いた。
次の瞬間、気配が動く。
ゼノが立ち上がり、私の前まで歩み寄ってくる。
そして──
思っていたよりも大きな手が、そっと私の頭に触れた。
──あぁ、この感触。
まるであの日の記憶が、今ここに戻ってきたようで、胸の奥が熱くなる。
懐かしくて、温かくて、でもどこか切なくて──
込み上げてきたものをどうにか押しとどめながら、私は泣きそうになるのを、ただひたすら堪えていた。
あの本のタイトルは──「魔法使いの見る夢」。
魔法使いは、夢を見る。
なんの変哲もない少女が、やがて世界を救い、そして──
魔法使い自身のことも、救ってくれる、そんな夢を。
魔法使いの願いに応えるように、少女は歩みを止めず、いつかその夢を叶える。
……私は。
“魔法使い”さんに、胸を張って会えるような人間に、なれたのだろうか──
幼女クラリス編、お付き合いいただきありがとうございました!
この章の始めから読み直していただくと、幼女クラリスがゲーム内の夏休みイベントを微妙に追体験しているのがわかると思います。
ほんとに微妙に、ですが(笑)。
次回から新章です。グランドナイトガラ前夜祭!
7/4(金) 19:00更新予定です。
……が、明日7/2(水) 19:00、第六章終了時点での登場人物紹介を挟みたいと思います!
Xでは更新連絡やAIイラストの投稿もしています。
今回のイラストは、ソファに腰掛けて本を読んでいるゼノです!
https://x.com/kan_poko_novel




