20「愛猫」
「九死に一生を得たよ」
山歩きの際に道を踏み外し、崖から斜面を転がり落ちてしまったのである。幸いにも途中で木に引っかかり、僕はほうほうの体で林道まで這い上がった。
「猫は九生あるって言うけどね」とませた口調で娘が言う。
「僕は人だから一生しかないの」
そっかぁ、と娘は目を細めて頷いた。
妻とも僕とも似ていない仕草は、どこか猫の欠伸を思わせる。クールな娘だが、これでなかなかパパっ子なのである。
娘を眺めていると、昔飼っていた猫のことを思い出すことがある。元は捨て猫で、聞き分けのよい賢い子だった。
一度だけ扉の隙間から逃がしてしまったことがあったが、猫がひとりで外に出るのは危険だからと言い聞かせれば二度と逃げなかった。大往生だったが、死に目に会えなかったことだけがずっと心残りだった。
「一生のお願いが九回使えるって良いよなぁ」
何とはなしに呟くと、軽やかな足取りで一歩先を歩いていた娘が肩越しに振り返る。まんまるに見開かれた意味深な眼差しで、こちらを見つめている。
「それならひとつめは『連れてってほしい』だよね」
「え」と思わず声が漏れた。立ち尽くす僕をよそに、娘は歯を見せて笑っていた。
「それで、二から七はねぇ」
そう言って、歌うような口調で他愛ない日常を指折り数えるのだ。
「八は、自由にお外を歩きたい、かな」
恐ろしさと不思議な感慨が押し寄せて、僕はその場で立ち竦んだ。
「……九つ目は?」と恐る恐る聞いてみる。娘は糸のように目を細めて破顔した。
「長生きしてね」




