第113話 優しさに包まれて
菜摘が、かばんを持ってきてくれた。
「先生には貧血で、保健室で寝ていますって言っておいたから」
「ありがとう」
「お母さん、もうすぐ来るかな」
「うん」
「兄貴にはメールする?」
「ううん。心配かけちゃうし」
「なに言ってるのよ。旦那なんだから遠慮せず、メールでも電話でもしたらいいじゃん」
「…」
そうだな。黙っているほうが聖君、怒りそうだ。
「あの、先生携帯使っていいですか?」
「いいわよ。旦那さんに連絡するんでしょ?」
「はい。今、お店忙しい時間だから、メールしておきます」
私はそう言って、携帯をかばんから出した。
>学校で具合悪くなって、今、お母さんが迎えに来てくれるの。そうしたら、家に帰ります。ただの貧血だと思うから、あまり心配しないでね。
こんなメール変かな。だったら、メールなんてしないほうがいいかな。う~、でも。あとで知ったら、なんでメールしてこなかったのって怒られそうだし。
えい!送信してしまえ!
それから、苗ちゃんと菜摘は、ずっと保健室にいた。先生も教室に戻りなさいとは言わなかった。
私の母よりも先に、小百合ちゃんの運転手さんが来て、小百合ちゃんは帰っていった。
「小百合ちゃんもつらそうだね」
菜摘が小百合ちゃんが帰っていってから、ぽつりと言った。
「つわり、なんだかひどくなってるみたいだもんね」
「いつまで続くのかな」
「人によって違うみたいだから、わからないな」
「は~~、赤ちゃんを産むのも、大変なんだよね」
「うん」
私はベッドに横になったまま、そう答えた。
トントン。ドアのノックの音のあと、すぐにドアが開き、母が入ってきた。
擁護の先生に母が、丁寧にお礼を言い、菜摘がかばんを持ってくれて、苗ちゃんも一緒に昇降口まで来てくれた。
「菜摘ちゃん、いつもありがとうね。それから、クラスメイトかな?桃子についててくれて、ありがとう」
「い、いいえ」
苗ちゃんは、うつむいたまま小声でそう答えた。きっと、罪悪感でも感じてるんだろうな。
「二人ともありがとう。もう、大丈夫だから教室戻ってね」
「桃子、無理しないで明日は休みなね」
「うん、そうする」
私は母に寄り添われ、駐車場に行き、車に乗った。
「大丈夫?貧血って、倒れちゃったの?」
「ううん、くらくらしちゃって、めまいっていうか、立ちくらみしたから、保健室に行ったんだ」
「そう。菜摘ちゃんが言うように、明日は休みなさい。それか、病院行ってくる?」
「ううん、大丈夫だよ」
「聖君には連絡したの?」
「うん、さっきメールした」
「返事は?」
「まだ。今、忙しいもん」
「そうね、まだ、ランチタイムで、お客さんいるかもね」
「うん」
「ああ、びっくりした」
「え?」
「擁護の先生から電話だなんて、何かあったのかと思ったわよ」
「何かって?」
「たとえば、出血したとか、切迫流産とか」
「…。そうか。妊娠してたら、そういうこともありえるんだもんね」
「そうよ。あんまり無茶はしないでよ、桃子」
「うん」
そうだな。今回のことは、私も軽はずみだったかもしれない。
私はお腹を手で押さえ、心の中で凪に謝った。
家に着き、すぐに部屋に行って私はベッドに横になった。携帯は枕元においた。いつ、電話がかかってきてもいいように。
天井を見ながら、私はさっきの出来事を思い返していた。
平原さん。もしかすると、自分から苗ちゃんが離れたことが、寂しかったんじゃないのかな。でも、寂しいとか、そういうことを素直に表現できないのかもしれない。富樫さんだって、私の手をあっためてくれたりして、優しかった。本当の二人は、心を閉ざしているだけで、実はやっぱり、心の奥はあったかいんじゃないのかな。
ブルル。携帯が鳴り、私はすぐに電話に出た。
「桃子ちゃん?」
「聖君…」
「今どこ?」
「家。私の部屋で横になってる」
「大丈夫なの?!」
「うん。もう大丈夫」
「貧血?倒れたの?」
「ううん。クラクラしちゃってたから、保健室に行ったの」
「それだけ?」
「うん。ごめんね。たいしたことないから安心して。それだけでメールなんて、やっぱりおおげさだったかな」
「そんなことない。知らないでいるよりも、ずっといい。ちょっとのことでも、メールして。ね?」
「うん」
やっぱり、そう言うと思ってたんだ。ああ、それにしても、聖君の声を聞くだけで、ものすごくほっとする。
「早めに帰るから。父さんも仕事、今、あまり忙しくないって言うしさ。それとも、今すぐに帰ったほうがいい?」
「ううん、大丈夫。お母さんだって家にいるし」
「そっか。でも、早めに帰るから。ゆっくり休んでるんだよ?」
「うん」
「じゃあね。あ、また何かあったら、メールして」
「うん」
聖君は電話を切る前に、愛してるからねって小声で言った。どこから電話してくれたのかな。リビングかな。
「は~~~~」
本当に安心した。聖君の声はなんでこうも、私を安心させてくれるんだろう。
そして私はいつの間にか、眠っていた。
夢の中でも聖君は優しかった。私の横で、いつものように優しく微笑み、
「大丈夫?」
と言ってくれる。そして優しく頬をなでてくれる。そして、そっとキスもしてくれた。
ああ、聖君の優しいオーラに包まれ、私はどんどん心も体もあったまっていく。
それに聖君のにおいがする。聖君の…。
パチ。目が覚めた。
「桃子ちゃん、起きた?」
「あ、え?」
なんで、聖君が目の前にいるの?これも夢?それとも、もう夜?
「よく寝てたね。よかった。顔色も悪くないし」
「聖君?もう、夜?」
「ううん。帰ってきちゃった」
「え?」
「母さんも父さんも、早く帰って桃子ちゃんのそばにいてあげなさいって。きっと、心ぼそい思いしてるわよってさ」
「え?…今、何時?」
「4時半。店、そんなに混んでなかったし、紗枝ちゃん、仕事ちゃんとできるようになったしさ。任せてきちゃった」
「…ご、ごめんね。私…」
むぎゅ。聖君が私の鼻をつまんだ。
「謝らないでいいってば。もしかして迷惑かけたとか思ってる?でも、そんなことないから」
「…」
う。でもでも、今回は私の軽はずみな行動がもとで…。
「俺が早く帰ってきて、嬉しくないの?会いたくなかった?」
「う、嬉しい、早く会いたかった」
「それ、本音?」
「も、もちろん!」
「じゃ、ごめんじゃなくって、嬉しいって喜んでね?」
「…うん」
聖君は私に、チュってキスをすると、
「俺も横に寝転がっていい?」
と聞いてきた。
「うん」
「じゃ、俺も休憩タイム!」
そう言うと聖君は、寝転がり私にひっついた。
「桃子ちゅわん。俺もね、早く桃子ちゃんに会いたかったよ」
聖君、かわいい。
「お店、大変だった?」
「ううん、そうでもない」
「紗枝さん、最近変わった?」
「そうだね。前よりも明るいよ。失敗しても、俺がドンマイって言うと、にこって笑ってるし」
「聖君もきっと、前よりも明るく接してるんだね」
「俺?うん、そうかも」
「苦手じゃなくなった?」
「うん。なんつうか、面白いしさ」
「紗枝さんが?」
「うん。たまに独り言を言ってるし。そういうの聞いてると、けっこう笑える」
「ええ?どんな独り言なの?」
「なんかさ、ランチのセットの準備をするのにも、いちいち、スプーンOKとか、確認してるの、小さい声でなんだけど、聞こえてくるから、面白くって」
「がんばってるんだ」
「うん。わからないと、すぐに聞いてくれるようになったし。難しいとちゃんとメモにとってるよ」
そっか~。なんか、変わったんだな~~。
「からかうと、真っ赤になってるし、けっこう、からかいがいがある」
「え?」
「でも、あんまりからかいすぎると、どうやら思考停止するみたい。へまし出すから」
「どんなふうにからかってるの?」
「どんなって、そうだな。例えば…。紗枝ちゃんって、ミーアキャットに似てるよねって、そんな話をしてみたり」
「ミーアキャット?」
「似てるって思わない?キッチンからホールを見るときの立ち姿とか、ひょこって顔をあげて、遠くを見てるとき、そっくりだよね」
「それ、本人に言ったの?」
「あれ?言わないほうがよかった?」
「…。怒ってなかった?」
「うん。真っ赤になってたけど」
「…」
なんなんだろうな、聖君は。私のことは、いきなりマルチーズに似てるとか言ってたし。
でも…。なんだか複雑だ。
私はむぎゅって聖君に抱きついた。
「からかうのもいいけど…」
「ん?」
「仲良くなるのもいいけど…」
「紗枝ちゃんのこと?」
「うん。…でも…」
「うん?」
「仲良くなりすぎないでね」
「…」
聖君は突然黙り込んだ。え?どうして黙ったの?私は不安になり、顔を上げて聖君の顔を見た。
あれれ?思い切りにやけているぞ。
「もう~~~~!」
「え?」
「桃子ちゃんってば、かわいすぎ!」
あ、そういう反応なのね…。こっちは、本気で複雑な心境になっていたというのに。
「むぎゅ~~~!」
聖君も抱きしめてきた。
「俺さ」
「え?」
「俺ね」
「うん」
「桃子ちゃんにしか、惚れないから、安心してね」
「…」
「俺、自分でもわかんないんだけど、他の子にはあまり、感じないんだ」
「何を?」
「かわいいっていう感情。湧いてこないんだよね。面白いとか、そういうのはあってもさ」
「私のこともいつも、面白いって言ってるよ?」
「うん。あ、でも桃子ちゃんの場合は、面白いだけじゃなくって、かわいいの」
「…そうなんだ。他の人にはかわいいって思わないんだ。あれ?杏樹ちゃんや、菜摘は?」
「う~~ん、なんつうのかな。妹のかわいさってのは、また別なんだ。かわいいっていうより、しょうがないやつだよなって感じ?」
「…ふうん」
「娘を思う父親に近いんじゃないのかな。って、娘を持ったことないから、わかんないけど」
「…じゃ、私は?」
「だから~~。桃子ちゃんは~~~」
あ、また思い切りにやけた。
「かわいすぎ!でへへ!」
でへへって…。な、なんだか、そこまで言われちゃうと、どうリアクションをとっていいかもわかんなくなる。
「むぎゅ~~~~!」
また、聖君はぎゅって抱きしめてきた。
「だから、安心して?ね?」
「うん」
「桃子ちゃんは?俺以外のやつに、ドキッてしたりすることある?」
聖君はかわいい声で、そう聞いてきた。
そんなの…。
「…まったく、ない」
「まったく?」
「うん。まったく。だって、聖君以上に素敵な人に、会ったことがないもん。きっと、いないよ、そんな人」
「…」
聖君の顔を見た。あ、赤くなってる。
「そっか。桃子ちゃんも俺以外のやつ、興味ないんだね」
「うん!」
「じゃ、俺も安心していようっと」
「うん」
ぎゅ!聖君を抱きしめた。ああ、大変。幸せで嬉しくって。あったかくって、ほかほかしてて、心が満たされていく。
もう体が冷たくなることも、クラクラすることもない。めちゃくちゃ安心して、それどころか、幸せでとろけそうなくらいだ。
「聖君」
「ん?」
「早くに帰ってきてくれて、ありがとう」
「うん」
聖君はまた、私に優しくキスをしてくれて、
「もうちょっと、こうやってゴロゴロしていようね」
とかわいらしい笑顔で、そう言った。




