Shoot:1 Dog and Realize Girl (8)
≪カトラス≫へ続く階段の降り口で、斎は足を止めた。
どう上に見積もっても十四、五歳の少年が、斎の行く手を遮る形で立っていたのだ。上目遣いが癖になっているのか、三白眼気味の目で斎を見上げる。
「オニーサン、何すか?」
「噂、聞いてきたんだ。ここに来れば、薬、手に入るって。――知り合いも、来てるはずなんだけど。女の子」
「知らないっすねぇ」
にやにや笑いながら、少年はどく気配がない。どうやら通す気はなさそうだと、内心でため息をつき、さっさと実力行使に切り替えた。
「ちょっと、中見せてね」
「おい、何勝手に――」
脇をすり抜けようとした斎の腕を、少年が掴みかける。瞬間、その手を絡め取るように掴み返し、流れるような動きで少年の肘の関節を逆に極めた。
「え――」
「動かないで。逆関節極めてるから、ちょっとの力で腕折れるよ。――ここ通るけど、いいよね?」
口調と表情は穏やかだが、行動は思い切り物騒だ。少年は抗いようもなく、こくこくと肯いた。
「ありがと」
少年を解放してドアを開けると、とたんに音と光の洪水が斎を襲った。うるさいというのを通り越してほとんど凶器のレベルのBGMががなり立て、ミラーボールのきらめきが目を射る。斎はざっと店の中を見回したが、那々らしき姿は見つからなかった。外れか。
だが、店の奥の方に、ドアがあるのを見つけた。地下に裏口でもないだろうから、その奥にまだ部屋があるのだろう。
そのドアの方へ歩き出した時、何かが斎の左腕に絡みついた。見下ろすと、髪を染め、派手な化粧をした少女が、左腕に抱きつくようにしがみついている。
「お兄さぁん、新顔の人?」
そう言って斎を見上げた彼女は、ライトに照らし出されたその容貌に一瞬目を見張り、次いで歓声をあげた。
「やだぁ、すっごいカッコいいじゃん! お兄さんも薬やってるの? あたし、いいの持ってるけど、やってみない?」
彼女はポケットから、粉末の入った小さな袋を取り出した。
「≪ヴァンパイア・キス≫って、今流行ってるでしょ? これ、その強いやつ。すっごい効くんだよぉ。身体がすっごい軽くなって、頭も冴えて――」
そう言って、少女は含み笑いをした。顔を近づけて、甘い声を出す。
「……エッチの時にも、使えるんだってさ?」
そういうことか。斎はため息をついた。
「悪いけど、今人捜してるんだ。高校生くらいの女の子と、神経質そうな顔の男の子。君、見てない?」
「いいじゃん、そんなの。それよかさ、もっと楽しいことしよ? みんなあたしのこと、イイって言うよ? お兄さんみたいな美形なら、あたし大サービスしちゃう」
すり寄ってくる少女を、やんわりと押しのけた。
「ごめん、今ほんと急いでる。それに、大事なことなんだ。見てたら、教えてくれないかな」
「……男の方は知らないけど、見たことない女の子なら二人来たわよ。髪これっくらい短い女の子と、あそこにいる金髪の子」
少女の指差す先には、確かにほとんど金髪の長い髪の少女が、テーブルについて煙草をふかしているところだった。隣には同年代ほどの少年が座り、しきりに彼女を口説いているようだ。しかし斎は彼女よりも、短い髪の女の子というのが引っかかった。那々はショートボブだ。
「その、髪の短い方の女の子って、どこ行ったか分かる?」
「あそこ。奥に部屋があんの。あたしも、入ったことはないんだけど」
少女は、奥のドアを指差す。そして、斎を見上げて口を尖らせた。
「あんな野暮ったい子より、あたしの方がいいと思うけどぉ」
「だから――」
その時、テーブルの方でざわめきが起こった。
「てめぇこの女、何しやがる!」
見ると、あの金髪の少女がグラスを片手に立ち上がっていた。隣の少年が頭からずぶ濡れになっているところを見ると、グラスの飲み物をぶちまけられたらしい。
「何って、あんたが入れたもん返しただけよ」
少女はグラスを置いて、煙を吐き出した。
「悪いけど、あたし薬入りのソルティードッグなんて飲む気ないから。薬混ぜんなら、もっと溶けやすいもんに混ぜたら? 一発でバレバレだっての」
「てめ、この――!」
椅子を蹴って殴りかかろうとした少年を、しかし少女は軽くいなした。
「……踏んだ場数が違うってのよ、チンピラ崩れが」
空振りした拳の内側にするりと入り込み、少年の股間を蹴り上げたのだ。遠慮も躊躇も一切ない、会心の一撃だった。
周囲のざわめきが、剣呑な空気を孕み始める。割って入るかどうか斎が一瞬迷った時、BGMすら圧して、一発の銃声が轟いた。
「……おまえら、うっぜーよ。せっかくのお楽しみの時間なんだぜ? もっとクールに行こうぜ、クールによ」
一人の少年が、天井に向けて一発ぶっ放したのだ。彼は注目を集めて満足したように銃を下ろした。その銃を見て、斎は目を細める。
トカレフ。
「あんたさぁ、新顔だからこの店のルール知らねぇみてーだけど。この店は、新入りがでかい顔できるとこじゃねーんだよ。新顔はおとなしく常連の言うこと聞くんだよ、OK?」
少年が銃口で、少女の胸をつついた。すると少女は、それを押しのけて吐き捨てたのだ。
「そっちこそ、マナーくらいわきまえな。このセクハラ男」
……少年の顔が引きつった。
「てめ……」
少年が銃を構えた。少女も素早くバタフライナイフを展開、少年に突きつける。一触即発の空気。
「はい、そこまで」
不意にそこに、穏やかな声が割って入った。斎は銃とナイフをそれぞれ片手で掴み、相手からそらす。
「そんな危ないもの、室内で振り回すもんじゃないよ。怪我人が出たらどうするの」
「てめぇ、あん時の……!」
少年は斎の顔を見て呻いた。愛車のインテグラの左前輪を潰した奴だ。
「やっぱり、君が運転手か。車を乗り換えて、新宿に戻ってたんだね」
「くそ、こいつ……!」
少年は引鉄を引こうとして焦った。いつの間にか、撃鉄と銃の隙間に斎が指を突っ込んでいたのだ。撃鉄からの衝撃が伝わらなければ、弾も発射されない。
その隙に、斎の足が少年の腹を打っていた。
「ぐっ……!」
吹っ飛ぶ少年から銃をもぎ取って弾を抜くと、斎はトカレフを手早く分解した。専用工具を使わず分解できるフィールドストリッピング。そこそこに分解すると、組み立て直して撃てないように、スプリングとハンマー部を没収しておく。あっという間に銃を解体してしまった斎を、少女が興味深そうに見やった。
「あんた、一体何者?」
「喫茶店のウェイター兼業の銃工」
「ふぅん」
あまり真っ当とはいえない職業紹介を、少女はあっさり受け流した。
「じゃ、僕まだ用があるから」
奥のドアへ向かう斎に、少年少女たちは怯えたように道を開ける。ドアを開けようとした時、少女が追いついてきた。
「あたしも行く。この先に用があるから」
「じゃあ、一緒に行こうか」
微笑して、ドアを開けた。
銃声に気を取られて、狙いがそれた。振り下ろした切っ先は哲治の髪を何本か宙に舞わせただけで、本人は転がるように刃の軌道から逃れていた。
哲治はよろけながら立ち上がって、ドアへと向かおうとする。那々はそれを追った。
(――逃がさない)
振り回した刃が、哲治の服の裾に引っかかり、そのままスパッと切り裂いた。哲治が青ざめるが、那々も目を見張る。大した切れ味だ。
那々はナイフを握り直し、哲治に追いすがった。
「あんたは――あんただけは、絶対!」
「ひぃっ……!」
もつれる足で、哲治は何とかドアに辿り着いた。ほとんどこじ開けるようにしてドアを開け、廊下に駆け出す。
――まずい!
那々は慌てて後を追った。隣の部屋には、直美がいる!
だが、一歩遅かった。哲治はソファに座っていた直美を立たせると、引きずるようにサイドテーブルのところに連れて行った。手探りで引き出しの中をかき回し、注射器を取り出して針の先を直美の喉に突きつける。
「……さあ、ナイフを捨てるんだ。でなきゃこいつ刺すぞ!」
ぎらぎらと、常軌を逸した目つきでわめく。那々は本気で刺したくなったが、直美を傷つけるわけにはいかない。睨みつけながら、ナイフを目の前の床に投げ出した。
「こっちへよこせ」
指示に従い、ナイフを蹴って哲治の方へ滑らせた。
それを満足げに見て、哲治はねっとりした視線で那々を見つめる。
「じゃあ次は、こっちに来るんだ。そう、おとなしく。友達が怪我するのは嫌だろ?」
「……ホント、最っ低、あんたって!」
毒づいて、那々はゆっくりと足を進める。ナイフの横を通り過ぎ、哲治の眼前まで。にやにやしていた哲治は、不意に注射器と直美を突き放すと、那々に掴みかかってきた。
「やだ! 放してよ!」
伸ばされた腕に、那々は爪を立てる。もみ合いになったが、やはり腕力では男の哲治の方が勝った。押されてバランスを崩し、那々が尻餅をついたところへそのままのしかかってきた。
「これで――やっと、君は俺のところに……!」
「冗談じゃないわよ!」
暴れたが、上にのしかかられた体勢では不利だ。押さえつけられた。
これまでか、そう思った時、ドアの方から銃声が響いた。
(……え?)
哲治の動きがぴたりと止まる。次の瞬間、その重みが那々の上から消えた。引き剥がされて、殴り飛ばされた哲治は、吹っ飛んでサイドテーブルを巻き込んで倒れる。それを呆然と見ながら、身体を起こしかけた那々に、手が差し出された。
「立てる?」
やさしい声。恐る恐る顔を上げた。
「……天瀬、さん」
「大丈夫? 怪我ない?」
「はい、あの……」
立ち上がりかけて、よろけた。だがすかさず、肩に手を回されて支えられる。
「迎えに来たよ。――頑張ったね」
穏やかな微笑と言葉に、張り詰めていたものがぷつんと切れた。熱いものがこみ上げてきて、ぼろぼろと涙がこぼれ出す。
「直美が……薬、打たれて……!」
「……そう」
一瞬厳しい顔になった斎は、だがすぐに安心させるような微笑を浮かべて、肩に回した腕に力をこめた。
「大丈夫。諸角さんにも僕が歌舞伎町にいることは伝えてあるから。もうじき来てくれる。そしたら、すぐ病院に連れてってもらおう」
「……はい」
肯いて、涙を拭く。斎は那々から離れると、哲治の方を見やった。すぐ近くの床の上には注射器が粉々になっている。威嚇のつもりだったが、床に転がる注射器を見て、つい撃ってしまった。許せなかったのだ。こんなもので、人を操ろうとしたことが。
そんなことをしても、人の心など手に入りはしないのに。
「……とにかく、外に出よう」
那々を促して、斎はドアの方に向き直った。
斎と共に部屋に飛び込んだまひるが、直美を抱えるようにして連れてきた。
「桜庭さんも、ありがと」
「まひるでいい。――それよか、あたしが貸したナイフは?」
「あ、そこに――」
振り返った那々は息を呑んだ。同時に、斎の胸を、冷たいものが撫でていく感覚が走る。≪ペインレス・ドッグ≫だった頃の名残。とっさに那々を庇うように腕を回し、左手を伸ばす。
起き上がった哲治が、ナイフに飛びついて拾い上げていた。がたがたと震えながら、斎たちに向かってくる。斎の伸ばした左手が、間一髪哲治の手首を掴んでナイフを止めた。
「……これ以上、何をするつもり?」
冷えた声に、哲治のみならず那々すらびくりと身をすくめた。ぎり、と音すら聞こえそうなほど強く戒められた手首に、哲治が呻いてナイフを取り落とす。那々ははっとして、それを拾った。
「これ以上人を傷つけて、何が手に入ると思ってる!?」
それはかつて、斎自身もぶつかった命題。教団に牙を剥く相手をすべて倒すことで、養父の傍という安らぎが手に入ると思い込んでいた。そうやって戦う自分自身に、養父が心を痛めていたとも知らずに。
数え切れない人間を傷つけて得たと思ったものは、あの瞬間に儚く消えた。ただの幻。いつかは自分に返ってくる、たくさんの傷。
それを知ったから、斎は今、こうしてここにいる。
斎の一喝に、動きを止めた哲治を突き放した。よろけて後ずさる彼を一瞥して、重い息をつく。彼がこれからどうなるのか、斎には分からない。だが、人を傷つけ、薬に溺れたつけを払うことになるのは確かだった。
その時、ドアの方から押し殺した足音が聞こえた。そして、かすかに金属の触れ合う音。斎が何よりも聞き慣れた――銃のスライドを引く音。
「伏せろ!」
叫んで、手近な那々の身体を抱き込み、床にダイブした。次の瞬間、トカレフ弾が斎の左上腕部を抉るように掠めていき、立ち尽くしていた哲治の右脇腹をも傷つけた。
「天瀬さん!」
「大丈夫、掠っただけ」
トカレフ弾ほどの高速弾になると、掠っただけでもきついが、それでも直撃を免れただけマシだ。秒速五百メートルの弾に直撃されれば、間違いなくただでは済まない。
大きな血管が傷ついたのか、出血はあるが、例によって痛みはない。こういう時は、痛みを感じない体質に感謝する。
室内に、銃を持った少年たちがなだれ込んでくる。手に手に持ったトカレフに、斎がため息をついて天井を仰いだ。
「……失敗したな」
彼らに流れていた銃は、一丁だけではなかったのだ。それを確認しなかったのは痛恨のミスだった。
リーダー格らしいあの少年が、トカレフを構えて唇を歪めた。
「ずいぶん好き勝手してくれたじゃねえか。――立てよ」
合計六つの銃口が、こちらに狙いを定めている。斎はゆっくりと立ち上がった。
四人は、部屋の中に一列に並ばされた。一人で立っていられず、まひるに支えられるように立つ直美を見て、少年は何かを思いついたようににやりと笑った。斎に銃口を向ける。
「そういやおまえ、俺の銃をお釈迦にしてくれたよなぁ。礼をさせてもらうか」
彼は倒れて呻いている哲治を跨ぎ越して、サイドテーブルに近付いた。引き出しから注射器とボトルを取り出し、中の液体を注射器に吸い上げると、こぼれないようにキャップをして斎に投げてよこした。
「……これは?」
「≪デッドライン≫。≪ヴァンパイア・キス≫なんか目じゃねえくらい強力なやつだ。――それを、自分に打て」
「そんなの……!」
反発しかけた那々に、銃口が向けられる。
「ただ撃つだけじゃ、面白くねえからなぁ。とことんまでぶっ壊れてもらうぜ、俺の銃みてえによぉ!」
少年は哄笑した。ぎらぎらした目の輝きは、完全に常軌を逸している。逆らえば、彼はためらいなく撃つだろう。おそらく、少女たちの誰かを。
これ以上、彼女たちを傷つけるわけにはいかない。
「……分かった」
「天瀬さん!」
那々が何度もかぶりを振る。その彼女を、宥めるように微笑んだ。
「大丈夫、だよ」
ゆっくりとキャップを外し、袖を捲り上げて針の先を肌に押し当てる。傷からはまだ血が流れて、腕に筋を描いていた。それを避け、肘の内側辺りに浮き出して見える静脈に合わせて針を刺し、注射器を寝かせるようにして差し込む。少年たちに見えるよう、腕を少し下げた。
「……彼を、放っておく気なの?」
言われて、少年は一瞬誰のことか分からなかったようだったが、哲治を一瞥して鼻を鳴らした。
「ふん、あんな使えねえ奴、どうでもいい」
「……そう」
呟きに、那々は斎を振り仰ぐ。感情を削ぎ落としたような無表情。低い声に、ぞっとした。自分に向けられたものではないと、分かってはいるのだが、それでも身がすくんだ。
それは、普段は優しく穏やかな彼が間違いなく持っている、刃のような冷徹な一面。
斎はピストンを押し込み、注射器を引き抜くと足下に叩きつけて踏みにじった。
「……これで満足?」
「ははっ、こいつ、マジで打ちやがったぜ! おい、押さえとけ」
少年たちの内二人が、銃をベルトに挿し込み、斎の腕を背中にねじ上げる形で押さえ込んだ。
「二、三分くらいで効いてくるぜ。安心しな、打ってからしばらくは天国だぜ、後は地獄だけどなぁ!」
那々は少年を睨みつけた。何もできないことが、この上なく悔しかった。
――その時、斎が呟いた。
「地獄、か」
「あ?」
「そんなもの、もう見飽きた」
瞬間、斎の右腕を押さえていた少年が悲鳴をあげた。斎の踵が、少年の脛に叩き込まれていた。拘束が緩んだところで腕を振り払い、わずかに身を沈めて反動をつけた後鳩尾に肘を打ち込む。突くというより抉り込むといった方が正しいような強烈な一撃に、少年は声をあげるより早く意識を飛ばして吹っ飛んだ。
唖然としてそれを見ていた左側の少年に、右腰から抜き放ったP226の一撃を見舞う。グリップで額を殴られて、少年はよろけた。すかさず足払いをかけ、バランスを崩して倒れかける少年の腰から、トカレフを引き抜いた。元々安全装置は考えていない銃だ。装弾を瞬時に確かめ、左手に構える。右手には愛用のP226の二丁拳銃。
右と左、9ミリと7.62ミリの牙が、同時に撃ち出された。
横飛びに床にダイブしながらの、しかも片手ホールドとは思えないような正確な射撃だった。加えて、見惚れるような早撃ち。ほんの数秒で四丁の銃が弾き飛ばされ宙に舞う。斎の方には、少年たちに必要以上の怪我を負わせないよう、射線をずらす余裕さえあった。
その様子を、那々は呆然と見つめる。強い、なんてものじゃない。完全に格が違う。当然のようにそれをやってのける斎に、背筋がぞくりとした。
思い出す。やはり恐ろしいほどの銃の腕を持つ“彼”。そして、似すぎているその面影。
彼は、まさか――。
視線の先で、立ち上がった斎は呑気に首をかしげる。
「ん……トカレフ右手にした方がよかったかな」
口径はP226の方が大きいが、トカレフの方が弾の火薬が多く、反動も強いのだ。右利きの斎にしてみれば、逆の方が確かに扱いやすかったかもしれない。まあ撃った後で言っても仕方がないが。
常人離れ――どころかもはや人間離れしたといってもいい腕前を見せつけられて、少年たちは一気に腰が引けたようだった。
「動かないで。弾はまだ充分残ってる」
うっすらと笑みすら浮かべて言われた言葉に、少年たちは息を呑む。穏やかな笑みに見えるのに、斬りつけられるような鋭さを感じた。
ふと少年は、思い出した。西脇哲治がこの男のことを化物だと吐き捨てたことを。
確かにその通りだ。腕に加えて、≪デッドライン≫を打っても平然としている。何よりその身にまとう空気が違う。こんな――意識を向けられるだけで身がすくむような鋭さを放つ人間を、少年は知らない。
「……化物……!」
掠れた声で放たれた言葉に、しかし斎は、あっさりと肯いたのだ。
「うん。――そうだね」
どこか、諦めたような声音だった。
店の方から、ざわめきが伝わってきた。
「警察だ!」
その声を耳にして、斎はほっとしたように銃を下ろした。P226をホルスターにしまい、トカレフも弾を抜く。
部屋になだれ込んできた刑事たちの中に、諸角の姿を見つけて声をかけた。
「早かったですね」
「俺が教えたからな」
諸角の後ろからひょいと顔を出した千秋に、斎は目を丸くした。
「一圓さん? 何でここに」
「いやな、馴染みの子が今日出勤かどうか訊こうと思って携帯にかけたら、同伴頼まれちまったんだな、これが。で、待ち合わせ場所に着いたらこの警部サンが血相変えて駆けずり回ってんのに出くわしたからさ。近くだったし、こうしてご案内したワケよ。――しかしおまえ、その分じゃ、俺のレミントンよか先におまえが入院した方がいいんじゃねえ?」
血塗れの斎の左腕に、千秋は眉をひそめた。
「掠り傷です」
「いや、その割にゃ左腕凄ぇことになってる気がすんだけど……」
「それより諸角さん、救急車の手配お願いします。直美ちゃんは薬打たれてるし、西脇哲治は脇腹撃たれてます。掠っただけみたいですけど、ちゃんと病院連れてかないと」
「分かった。――おい、救急車だ!」
諸角が声を張り上げる。はっとして、那々が斎の腕を掴んだ。
「あの、天瀬さんも――」
「大丈夫だよ」
「でも!」
「だって僕、薬なんて打ってないし」
「……え?」
ぽかんとする那々に、斎は袖をまくってみせた。針を刺した痕がぽつんと一つ、それから少し肘寄りにもう一つ。
「キャップ外す時針曲げて、そのまま刺したんだ。注射器を寝かせて刺したら、針の先が皮膚の外に出るでしょ? そのまま薬は全部服に吸わせて、後は針を抜くだけ。袖の長い服着てて正解だったよ、針の先袖に隠れて見えなかったし。向こうみんな信じ込んで油断してた」
「……じゃあ、注射器壊したのは、針曲がってたのごまかすため?」
「そう」
ちょっとしたトリックだよ、と笑って、斎は那々を促して歩き出そうとした。
……とたん、視界が回った。
「……あれ?」
よろけた斎を、那々が慌てて支える。そして悲鳴じみた声をあげた。
「何これ、全然血が止まってないじゃないですか!」
「あ~……銃撃ったしね。反動で傷開いたかな……」
「この馬鹿、何が掠り傷だ、せめて止血くらいしとけ! おい、救急車もう一台!」
諸角の怒鳴り声を最後に、斎の意識はぷつりと切れた。
ぼんやりと開きかけた目に、飛び込んできたのは白い天井だった。嗅ぎ慣れた、消毒薬の臭い。まだ朦朧とした意識で、ある存在を捜した。自分がこうして怪我をして帰ってきた時、いつも心配そうに覗き込み、たまに無茶をするなと叱りつけたあの人――。
「……父、さん……」
だが、ほとんど吐息のような斎の声に応えたのは、養父ではなかった。
「あ、気がつきました?」
「……那々ちゃん?」
「天瀬さんあの後、いきなり倒れちゃって。貧血みたいですよ」
「ああ……止血し忘れてたもんね」
痛みを感じないせいで、たまに怪我をしていること自体を忘れてしまうことがある。だんだんと意識がはっきりしてきて、ベッドの上に起き上がった。
「ここ、病院?」
「はい。――傷、何針も縫ったって聞きました。痛く、ないですか?」
「それは大丈夫。僕、麻酔要らずの特異体質だから。それより、那々ちゃんの方が大丈夫? 何か、暗い顔してる」
そう言われて、那々が俯いた。余計なことを言ったかと内心焦った時、ぽつりと言う。
「……ごめんなさい」
「……那々ちゃん?」
「あたしのせいで、天瀬さんひどい怪我して。それに直美も、まひるも、あたしの巻き添え食って危ない目に遭ったんだって、そう思ったら」
あ、泣きそう。
そう思ったが、どうするべきかが分からない。泣きそうな女の子を慰めた経験なんてないのだ。だから、自分がしてもらって一番安心した方法を取ることにした。
ふわり、と頭に手が置かれて、那々はきょとんと顔を上げた。猫でも撫でるような優しい手つきで、頭を撫でられる。
「あ、あの、天瀬さん?」
「……僕って、あんまり家族に縁がなくてさ。慰めたり慰められたりっていうのも、あんまりないんだけど。こうしてもらうと、何か落ち着いて。――子供扱いすぎるかな?」
ふるふると、かぶりを振る。確かに、落ち着いた。
「それに、一つ言わせてもらうと、今回のことが那々ちゃんのせいだなんて、誰も思わないよ。僕の腕だって、撃ったの那々ちゃんじゃないでしょ? 直美ちゃんたちのことだってそうだよ。那々ちゃんは、何でもかんでも自分のせいにしすぎ」
「でも、彼氏のふりなんて頼まなきゃ、天瀬さんは――」
「それこそ、見当違い」
ぽん、と軽く頭を叩いて、斎は那々から手を離す。
「僕だって、これがベストの方法だと思ってOKしたんだ。結果を、那々ちゃんに押しつけるつもりなんてない。――僕は今まで、色々選び間違ってきたけど、今回だけは良かったと思う。間違ったなんて思わない」
教団時代、間違った道を選び続けてきた中で、彼女を助けたことだけは、唯一誇れる選択だった。
だから、守りたかった。
「……僕は、君を守れたかな」
「はい」
「良かった」
しっかりと肯かれ、微笑む。そして、那々の額を軽く小突いた。
「けど、一人であのクラブに乗り込んだのは行き過ぎ。せめて、連絡は欲しかったかな」
「ごめんなさい……けど、誰にも言うなって指示されてたから」
「間に合ったから、良かったけど」
気が、緩んだのかもしれない。
「あの時から、変わってない。相変わらずだ」
「……え?」
目を見開く那々に、斎ははっとした。視線をそらす。
安堵に、つい口が滑ってしまった。自分を呪いたい気分になる。その一言だけは、口にしてはいけなかったのに。
だが、那々の反応は予想外のものだった。彼女は一瞬眼を見開いたものの、すぐに微笑して、提案したのだ。
「天瀬さん。――屋上、行きませんか?」
屋上には、誰もいなかった。物干し竿が何かのオブジェのように立ち並び、眼下には窓から漏れる明かり。
並んでフェンスに寄りかかり、夜景を見ていたが、唐突に那々が口を開いた。
「……あたし、好きな人がいます」
彼女の真意が分からず、その横顔を見やる。彼女は続けた。
「その人は、五年前に一回会っただけの人で……その後すぐ、いなくなっちゃった人で。名前も何も知らない人。でもあたし、その人のこと好きです。もう一度、会いたい」
「……那々ちゃん」
「その人が教団で裏の仕事してた人だって、後で知りました。だから、何か犯罪に関わってたかもしれないし――もしかしたら、誰か殺してるかもしれない。でもあたし、どうしてもその人のこと嫌いになれない。だって、優しかったもの」
恐くないかと、那々を気遣ってくれた“彼”。銃撃に晒され、恐怖に震えていてもおかしくなかった状況で、あれほど安心した気分でいられたのは“彼”が傍にいたから。
那々は斎を見つめる。重なる面影。それを打ち消そうとは、もう思わなかった。
こうして正面切って尋ねることが正しいのかどうか、那々には分からない。だが、これ以外に取れる方法もない。
前に進むために。
那々は、口を開いた。
「……天瀬さんって、“誰”なんですか?」
まっすぐ見つめてくる彼女の視線を受け止めきれずに、斎はわずかに視線をそらした。
彼女はもう気づいている。斎が≪ペインレス・ドッグ≫であることに。
しかし、それを認めることは、大切な人に累が及ぶことでもあるのだ。
立河敏也。“叔父”であり、かつて≪ペインレス・ドッグ≫を救った人間。彼だけは、どうしても守りたい。
だが、那々が今懸命に、自分の心に決着をつけようとしていることも分かる。彼女をいつまでも、過去の幻に捕らえられたままにはしておきたくなかった。
それでは、自分と同じだから。
斎は、ゆっくりと視線を戻して口を開いた。
「……ちょっと、昔話をしたいんだ」
「昔話?」
「そう。昔どこかにいた、一匹の犬の話」
那々が息を呑んだ。ややあって、肯く。
「……聞かせてください」
斎は過去を見るように、夜景を見やって話し始めた。
「……昔、あるところに、一匹の子犬がいた。けど、その母親は子犬が嫌いで、いつもいじめて怪我をさせてた」
物心つく前から――それこそ記憶が遡れる限りの以前から、彼は日常的に、母親から虐待を受けていた。繰り返される暴行は、やがて子供の精神を食い破った。与えられる痛みから逃れるため、彼の本能は痛覚を手放すことを選択したのだ。
そして彼は五歳の時、わずかな金と引き換えに教団に売られた。
「ある日、その子犬を引き取りたいって人がやって来た。子犬はそれでも、母親から離れたくなくて、行くのを嫌がった。でも結局、母親は子犬を捨てた。いらないって」
捨てないで欲しいと哀願した声は、届かなかった。母親は彼を愛してなどいなかったから。
彼女がその後どうなったのかは知らない。もともとお世辞にもまともな生活をしているとはいえなかった女だ。もしかしたら、もう死んでいるかもしれない。どうでもよかった。
教団に連れて行かれた彼はそこで、人を殺す方法を叩き込まれた。
銃やナイフの扱い、爆発物の知識。最初から、そのために教団は彼を買ったのだ。痛みを感じない彼は、教団にとって都合の良い兵士だった。戦闘訓練で、教団に所属した十年余りの年月の内、半分以上が費やされた。
「新しい飼い主のところに連れて行かれた子犬は、最初誰にも懐かなかった。でも、たった一人世話をしてくれる人にはだんだん懐くようになった。その内その人をお父さんだって思うようになって、その人と一緒にいるために訓練も頑張ったし、たくさん戦った」
初めて人を手にかけたのは、十二歳の時だった。教団の裏側の構成員が、金で教団の機密を横流ししようとした、その制裁だった。
彼の牙は、十二歳の子供の手には余る、ブローニング・ハイパワー。彼の放った何発目かの銃弾が、相手の眉間を貫いた。
死体は解体され、焼却と薬品とで完全に処分された。骨のひとかけらすら、残らなかった。ダークサイドの構成員は、多くが金で買い集められた国内外の子供で、教団から出ることなく戦闘技術を叩き込まれ、育てられる。戸籍もなく、例え死んだところで、記録一つ残らないのだ。
いつか自分もああなるのかと、ぼんやりと思った。
それを皮切りに、彼――≪ペインレス・ドッグ≫は戦闘要員として、本格的に教団の非合法活動の一端を担うことになった。密輸の警備を始め、薬物のシェアを巡る暴力団との抗争に参加したこともある。教祖の護衛として、凶器を持って襲いかかってきた人間を撃ち倒したことも、一度や二度ではない。
だがこれらの事件は、証拠も彼ら自身の存在もひっくるめて、すべてが闇に葬られた。
そんな教団時代の中で、唯一のやさしい記憶。
≪静かなる牙≫。
……おとうさん。
教団での、彼の養父。そして、戦闘技術を叩き込んだ師匠。
彼の傍にいたくて、銃を取った。自分を虫けらを見るような目で見下ろし、殴ったり蹴ったりすることでしか触れてくることのなかった母親とは違う、そっと頭を撫でてくれる無骨な手。それが嬉しくて、もう一度欲しくて、戦いの中に身を投げた。
痛みなどない身体を、いたわるようにさすってくれた。痛くないのにと答えれば、辛そうに顔をしかめた。あれが“痛い”顔なのかもしれないと、その時思った。
「……でも、子犬が大きくなった頃、そのお父さんが死んじゃったんだ」
彼は自分の養い子であり生徒でもあった≪ペインレス・ドッグ≫を、教団に盲従するただの戦闘人形に育てようとはしなかった。人として失ってはいけないもの――その確固とした一線を、養い子に教え込もうとした。例えそれが教義との間で歪みを生み出そうとも、この子供が“人間”であるために必要なことだと、分かっていたから。しかしその考えは教団幹部に危険視され、彼には日を追うごとに過酷な任務が言い渡されるようになる。
養父が、任務の際負った傷が原因で死んだと聞いた時、世界が崩れるような絶望を感じた。発作的に後を追おうとした≪ペインレス・ドッグ≫を、しかし教団は力ずくでこの世に繋ぎ止めた。舌すら噛めないように猿轡を噛ませ、厳重に拘束したのだ。
そして、ようやく回復を見せ始めた彼に、リハビリの意味合いも込めて割り当てられた任務が、誘拐されてきた子供たちの監視だった。
昔の自分とはあまりに違う、幸福な家庭に育った子供たち。だが今は、その家庭と引き離されて怯えている。
養父という家族を失った自分に近しい感情を、子供たちに対して覚えた。
まだ、現実と過去との間を浮遊しているような状態だったのだ。
あの時までは。
小さな男の子を庇った少女が殴られて倒れた時、意識が現実に引き戻され、そのまま縛り付けられた。そして、押し寄せる記憶。ばらばらの過去が、母の拳や足が、時を越えて自分を打ち据えるように感じて。
夢中で、引金を引いていた。
そこからは、衝動に流されるままだった。業者の車を奪い、銃を撃った。銃を撃つのはこれで最後だと、決めて。
『――助けてくれるんでしょう? あなたが』
そして、彼女に出会った。気丈に年下の子供たちを庇い、斎に無条件の信頼をくれた、彼女。出血に意識が薄れかけた自分の背中を、さすってくれた小さな手。養父の大きな手とはまったく違うのに、同じあたたかさを感じた。
自分に痛みが戻ることは、おそらくない。自分で分かっていた。
それでも、あのあたたかさを思うと、胸が少し苦しくなる。もう触れてはいけないと思うから、なおさら。
痛みとは違うけれど。
未だに胸を刺し、ため息をつかせる記憶。
那々を見つめた瞳を切なげに細める。きっと情けない顔をしているのだろうと、自嘲気味に考えた。
「お父さんを亡くした犬は、飼い主のところを逃げ出した。その人のところにいた理由は、お父さんだけだったから。――これで、その犬の話はおしまい。さ、中に戻ろう」
そう長い話ではなかったのに、身体が冷え始めていた。
階段を下りようとした時、那々がぽつりと言った。
「天瀬さん。――その犬は今、幸せだと思いますか?」
斎はきょとんとしたが、すぐに微笑んだ。
「うん。きっと優しい人に拾われて、幸せに暮らしてると思うよ」
「……そうですよね」
それを最後に、二人は言葉を交わすことなく、階段を下りていった。




