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Shoot:1  Dog and Realize Girl (6)



 身分証明書の威力か、住人のプライバシーは守るという約束で、防犯カメラの記録はあっさりと見せてもらえることになった。

 詳しい話は後ですると少女たちを家に帰してから、諸角はカメラの映像と睨み合いを始める。ここ二週間ほどの映像を中心に調べると、ほどなく収穫があった。

 郵便受けに手紙を放り込む人影。まだ若い男だ。郵便受けに向かうと、ちょうどカメラに背を向ける格好になるので顔はよく見えない。しかし、マンションを出る際には、ちょうどカメラに顔が映るはずだ。

 男はカメラをまるで警戒していないように見える。手紙を届けることに夢中になるあまり、他のことを考える余裕もないのだろう。それにしても、朝の七時に郵便受けに手紙を放り込みに来る根性があるなら、もっと別の方向へ発揮すればいいものを。

 男が郵便受けを離れたその瞬間、映像を静止させた。神経質そうな顔つきが、小さいながらもはっきりと映し出されていた。

 諸角は手帳にその男の似顔絵を描き込んだ。映像の持ち出しを、管理人に渋られたためだ。他に、郵便受けに手紙が放り込まれた日付などを書き込み、諸角は管理人詰所を後にした。

 エントランスの奥にはインターホンがあり、各部屋の住人が部屋でボタンを押すと、エントランスからエレベーターホールへ入るドアが開くようになっている。マンションの住人に関しては、暗証番号を打ち込んで開けるシステムになっていた。諸角はインターホンで、那々と直美をエントランスへ呼ぶと、手帳の似顔絵を見せた。

「こいつがどうやら、ストーカーの可能性が一番高い。見覚えがないかな?」

 一目見た瞬間、那々たちは叫んだ。

「あーっ! あの人!」

「あの西脇って二年生!」

「本当か!」

 早速手帳に書き込む諸角を他所に、少女二人は大騒ぎだ。

「あ~い~つ~っ! ストーカー見たってのも、作り話だったんだ! 本人がストーカーじゃないの!」

「ムカつく! 許せないよね!」

「あ~……盛り上がってるとこ悪いんだが」

 少女たちの剣幕に恐れをなしながら、諸角が口を挟んだ。

「間違いないね?」

「間違いようがないですよ! あ~もう、こいつのせいで!」

 直美が地団太を踏む。諸角は手帳をポケットにしまうと、表情を引き締めた。

「……とにかく、ここまで来れば、事情を聞くどころじゃ済みそうにないな。引っ張ることになりかねないぞ」

「逮捕、するんですか?」

「ドラッグを流してる以上、そうなるかもしれないな。――君たちも、充分気をつけた方がいい。本人がドラッグをやってたら、どういう行動に出るか分からんからな」

「は、はい。分かりました」

 二人はおとなしく肯いた。直美など、斎が気づかなければ危うく薬物中毒になりかねなかったのだ。さっきまでの勢いは消えて、神妙に話を聞いている。

 マンションを出ると、諸角は考え込んだ。

 どう攻めたものか。生徒の名簿の提出を求めようにも、令状なしでは難しい。

 考えあぐねたまま、諸角はとりあえず、警視庁へ向かうことにした。




 デパートのトイレで≪ヴァンパイア・キス≫をもう一錠噛み砕き、哲治は息をついた。

 最近、薬を飲む間隔が短くなってきている。減りも早かったが、そんなことは気にもならなかった。≪ヴァンパイア・キス≫を飲まなければ、考えがまとまらない。頭の中が混乱してきて、止まらなくなるのだ。

 哲治はデパートの一階のコインロッカーに、今まで買い込んだ荷物を詰め込んで、デパートを出た。行き先はもう決まっている。

 ポケットの中の感触を確かめて、哲治は目的地に向かった。

 ≪ペニーハウス≫。

 建物の裏手に回ると、階段の上に裏口があった。試しにノブを回すが、鍵がかかっている。舌打ちした哲治は背負ったデイパックから爆竹と発煙筒を取り出すと、ライターで爆竹に火を点け、その場に放り出して階段を駆け下りた。

 パンパパンパァン!

 弾けるような音が、辺りに響き渡った。

「――何だ?」

 カウンターの中で、立河が耳を澄ました。客たちも、いぶかしげに周囲を見回している。

「裏口の方だ。ちょっと見てくる」

 斎はトレイを置いて、裏口へ向かった。

 裏口のドアの前に立った時、かすかに鼻腔をくすぐった臭いに、斎は眉を寄せた。

(……火薬の臭いだ)

 銃声でないことは分かっているが、文字通りきな臭い。斎はそっと取って返して、掃除に使う箒を持って来た。静かに鍵を外し、ドアを開けた。

 外には誰もいない。ただ爆竹の残りかすが落ちている。斎は箒を持ったまま階段を下りていった。踊り場を通り過ぎ、駐車場へと下りる外階段。

 その中ほどの踏み板の隙間から、ナイフが突き出された。

 そのままなら足首に刺さっていた一撃を、斎は跳び上がってかわしていた。手摺に手をかけ、飛び越える。空中で軽く身を捻って、軽やかにアスファルトに降り立った。

 階段下の空間に身を潜めていた相手が、がむしゃらにナイフを突き出してくる。

 斎はとっさに、箒で受け止めた。突き出された腕を蹴る。

「てぇっ!」

 声がして、箒からナイフが引き抜かれる。箒を放り出し、相手を引きずり出そうとした斎の顔面目がけてその時、投げつけられたものがあった。

 発煙筒。

 煙が噴き出し、斎は飛びすさった。息を止めて、煙の向こうを凝視する。眼に違和感を感じたが、痛みを感じないので開けていられないほどではない。ただ、涙が出てくるのには参った。

 煙の向こうから突き出されたナイフを、斎は落ち着いてかわした。体を開いてナイフと平行にし、左手で手首を掴んで受け流しながら、右肘を相手の顔の辺りへ突き込んだ。

 濁った悲鳴をあげて、相手が膝を折る。その腹に足を当て、思い切り蹴り飛ばした。

 吹っ飛んで背中から倒れる相手に、斎は冷静に判断を下す。

 素人だ。

 発煙筒を遠くへ蹴り転がすと、相手を見下ろした。

 まだ高校生くらいの少年だ。起き上がり、握り締めていたナイフで切りかかってきたのを、あっさりと拘束した。腕を捻り上げると、呆気なくナイフが落ちる。

「放せ!」

「いきなりナイフで切りかかってきたわけを、聞いてからね」

 ナイフを遠くに蹴り飛ばすと、少年は諦めたように、腕の力を抜いた。

「……おまえが」

 振り返ったその顔は、歪んで目が憎悪に光っていた。

「おまえなんかに、渡すもんか!」

 ――哲治は混乱していた。ただのウェイターが、なぜここまで体術に長けているのか、分からなかった。銃の腕は知っていたが、今は素手なのだ。なのに不意打ちも、発煙筒の目眩ましも通じない。

 計算違いだった。ナイフで一突きして、そのまま逃げるつもりでいたのに。

 だが、あれだけ≪ヴァンパイア・キス≫を飲んだのだ。無駄だったはずがない!

 哲治はめちゃくちゃに暴れた。少しでも拘束が緩めば――。

 その時、

「ずいぶん遅いな。どうした?」

 裏口のドアが開き、立河が顔を出したのだ。

「何やってるんだ、斎!」

「叔父さん、警察呼んで。この子、ナイフで切りかかってきた」

「何だって? しかし、それにしても――」

 階段を下りて近づいてきた立河に、哲治は足下の石を蹴りつけた。顔に当たりそうになったのを、慌てて腕で庇った。

「叔父さん!」

 斎の腕が、わずかに緩んだ。哲治は渾身の力で斎を振り払うと、落ちていたナイフに飛びついた。掴み、投げる。偶然ながら、ナイフは奇跡のような正確さで、立河に向かって飛んだ。

 そのままなら、確実に直撃していたナイフは、しかし斎に叩き落とされた。

 哲治は後ろも見ずに、駆け出そうとした。瞬間、足を払われて前のめりに転ぶ。

 わけも分からず見上げると、斎がいた。

 何でだ? 何でこいつがここにいる? なぜこんな化物じみた反応ができる?

 俺が――≪ヴァンパイア・キス≫をあれだけ飲んだ俺が、負けるわけないのに!

 だが見上げた哲治は、斎の眼を見て硬直した。

 何の感情もない、無機質な瞳だ。たとえば――人を殺す時でさえ、微塵も揺らがず見開いているような。そのくせ、恐ろしいまでの冷たい光を放っている。

 普通の人間が、持っている眼ではなかった。それが今、自分を見下ろしているのだ。本能的に恐怖を感じて、哲治は息を呑む。大人と子供などというレベルではなく、人の枠すら外れている。ただの生物として、哲治は身動きが取れなくなった。

 ……何てものを、敵に回したんだろう。

 呆然と見上げる哲治の耳に、パトカーのサイレンが聞こえてくるまで、そう時間はかからなかった。




「……西脇哲治、十六歳、か」

 財布に入った学生証を見て、五十がらみの警官がため息をつく。哲治はじっと黙秘していたが、持ち物を調べられればひとたまりもなかった。

 大体、捕まるなど予定外れもいいところだ。客や他の店員に顔を見られないよう、裏口で騒ぎを起こしたのに、これでは意味がない。

 哲治は唇を噛み締めて、警官が荷物を調べるのを見つめていた。パトカーの車内。周囲には野次馬がまばらに集まり、その視線を避けるように、哲治は顔を伏せた。両手にかけられた手錠の鎖が、じゃらりと鳴った。

 パトカーには、哲治と警官の二人しかいなかった。後部座席に並んで座っている。哲治がおとなしくしているので、もう一人の警官は店員に話を聞きに、≪ペニーハウス≫に行ってしまった。現在、所轄署の方から警官が何人かこちらへ向かっているらしい。

「一体何だって、こんなことやらかしたんだ」

 息子か孫の失敗を咎めるように、警官が尋ねた。哲治はむっつりと黙り込んで、自分の爪先を見つめる。

 ――犯罪者に、なってしまった。つい数時間前まで、思いもしなかった状況。

 これから自分はどうなるのか、ぼんやりと考える。おそらくこのまま、所轄署へと送られ、留置されるのだろう。

 そこまで考えて、はっとした。

 そうなればもう、那々には会えない。

 愕然として、哲治は自分の両手を見つめる。そうだ。このままではもう、彼女には会えなくなる。そんなことになってたまるものか!

「う……うあああぁぁぁ!」

 哲治は頭を抱え込んで叫んだ。いきなり叫んで背を丸めた哲治に、警官がぎょっとする。具合でも悪くなったのかと、顔を覗き込んだ。

「どうした!」

 瞬間、哲治の両手にかけられた手錠が、警官の顔に叩き込まれた。

「ぐっ!」

 くぐもった声をあげ、警官が鼻を押さえて身を折った。まだ≪ヴァンパイア・キス≫の効力が残っていたらしい。思いがけないほどの力が出た。警官の身体をシートに押し付け、手首の手錠で顔を滅多打ちにした。

 ぐったりした警官の服を探って、手錠の鍵を見つけた。繋がれたままの両手で財布と携帯、それにコインロッカーの鍵だけをかき集めて、ドアを開け外に転がり出た。

「どけよ! おまえら!」

 野次馬を突き飛ばし、哲治は走り続けた。適当な路地に飛び込み、持って来た鍵で手錠を外して捨てる。手錠で切った傷と警官の返り血で、両手は血まみれだった。近くにコンビニを見つけ、手を洗ってガーゼとテープ、それにリストバンドを買い、トイレで手当てを済ませた。

 コンビニを出ると、前に停めてあった自転車の中で鍵がかかっていないものを選んでまたがる。全速力で漕ぎ、大通りをできるだけ避けて、コインロッカーのあるデパートへと舞い戻った。

 コインロッカーから荷物を回収すると、哲治は新しく買ったデイパックに荷物を詰め込み、パーカーを買って羽織ると、盗んだ自転車に乗って次の目的地に向かった。

 ――彼の脱走が伝わり、近隣に警官が出動したのは、その数分後のことだった。




 西脇哲治脱走の知らせに、諸角は眉を寄せて唸り声をあげた。苦々しい思いと、取り逃がした悔しさが入り混じっている。殴り倒された警官は、顔面を数ヶ所骨折する重傷を負ったらしい。

 諸角が≪ペニーハウス≫の事件の第一報を聞いたのは、本庁で令状を取ろうとしている最中だった。泡を食って、≪ペニーハウス≫に駆けつけたのだ。結果的に、令状どころではなくなった。

「諸角さん?」

 声に振り返ると、斎が立っていた。左手にはガーゼが当てられている。ナイフを叩き落とした時に切ったのだ。抜き身のナイフを素手で叩き落とせば当然だが。

「災難だったな。まあ、怪我も大したことがなくてよかった」

「しばらく水仕事できませんけどね。――ところで、何で彼、僕にナイフで切りかかってきたんですか。通り魔にしちゃ、爆竹から発煙筒まで用意してえらく周到でしたけど」

「その前に、こっちも収穫があってな。例のストーカーの面が割れた。嬢ちゃんたちに確認取ったら、はっきり証言してくれたよ。ドラッグを渡してきた西脇って生徒だってな。おまえに切りかかった、あの坊主だ」

「そうか。それで……」

 襲われた理由に納得が行って、斎は呟いた。自分が那々の“彼氏”だったからだ。彼が歪んだ顔で『渡すもんか』と言った意味が、やっと分かった。

 あれは、那々のことだったのだ。

「手当てしてる時に外で騒いでたんですけど、彼、逃げたそうですね」

「ああ、警官を殴り倒して脱走した。今、所轄が必死こいて行方を追ってる。おとなしかったんで、油断したらしい」

「そうですか」

 斎は目をすがめた。

「……彼女たちが、危ないかもしれません」

 こんな力技を使ってまで彼が脱走した理由を、他に思いつかなかった。諸角は肯く。

「手配はした。マンションには警官をやってある。行っても入れんさ」

「僕も、気になるんでちょっと行ってみます。どうせ店も、こんな状態じゃ今日一杯は営業できないし」

 真ん前にパトカーが停まり、未だに野次馬が残っている店を見て、斎はため息をついた。つい数日前にも事件があったばかりだというのに。何となく縁起がよろしくない。

 斎は自宅に戻ると、服を着替えた。Tシャツに、ブラックジーンズ。少し考え、薄手のデニムシャツを掴むと、そのまま階段で一階へと下りた。

 カウンターの下から、ヒップホルスターを取り出して腰に着ける。そして棚を開け、一丁のオートマチック銃を取り出した。

 シグザウエルP226。9mmパラベラムを最大十六発装弾できるこの銃を、頑丈さと命中精度の高さの二点から、斎は気に入っていた。

 マガジンを確かめ、P226をホルスターに挿し込むと、デニムシャツを羽織ってホルスターを隠す。あいにく長袖しかなかったが、薄手なので暑苦しくはなかった。ホルスターを隠せるほど長さのある服で、夏場に着てもおかしくないのはこれしかないのだから仕方ない。まさか堂々とホルスターを晒すわけにもいかないし。

 準備を終えて一階に戻ると、諸角は右腰のホルスターに気づいたようだ。渋い顔になる。

「……今日は何持って行く気だ」

「P226を。頑丈ですから、少々鈍器代わりにしても大丈夫です」

「する気かおまえ……まあ、護身用ってことにしとくか」

 それにしちゃでかいが、とぼやいて、諸角は斎を伴い覆面パトカーに乗り込んだ。

 ≪ペニーハウス≫から那々たちのマンションまでは、意外と近い。車で十分ほどだろうか。

 マンションの前には、制服の警官が二人立っていた。彼らに手を上げてみせて、諸角はマンションに入っていく。斎も会釈しながらそれに続いた。敬礼を返されてぎょっとする。もしかして私服刑事とでも思われたのかもしれない。こんなラフな格好の刑事はいないと思うのだが。

 那々の家は八階、直美の家は七階上の十五階。まずは、那々の家に向かうことにして、インターホンのボタンを押した。

『はい』

「ああ、諸角だ。例のストーカーのことで進展……つーか動きがあった。上がってもいいかな」

『あ、はい、どうぞ。今、直美もこっちにいますから』

 エレベーターホールへのドアが開いた。エレベーターに乗り込み、七階に着くと、ドアのインターホンを鳴らした。

「刑事さん、ストーカーのことで何かあったって――」

 ドアを開けるが早いかまくし立てた那々が、斎の姿を見てぴたりと止まる。そういえば僕のことは言わなかったっけ、などと呑気なことを考えていたら、那々が裏返ったような声をあげた。

「ど、どうして天瀬さんが刑事さんと一緒に?」

「ああ……ちょっと、色々あってさ。――とりあえず、上がらせてもらっていい?」

「あ……ごめんなさい、どうぞ!」

 慌ただしくスリッパを出し、お茶でも出そうというのか台所へ消える。それを微笑ましく見守りながら、斎たちはリビングにお邪魔することになった。

「今日、家の人は?」

「あ、高校の時の友達って人と一緒に出かけてます。――紅茶でいいですか?」

「ありがとう」

 ソファに座ると、直美が斎の左手に目をつけた。

「その手、どうしたんですかぁ?」

 直美が無邪気に訊いてくる。紅茶を出しながら、那々も左手の怪我を気にしたようだった。

「ちょっとドジっちゃって。大したことないよ。――それより、僕らが来るまで何か変わったことなかった?」

「別に……ないですけど。ねえ?」

 直美と顔を見合わせ、肯き合う様子にほっとした。どうやら間に合ったようだ。だが、諸角はすぐに顔つきを引き締めた。

「例の、ストーカー小僧だがな。ほんの少し前に、ナイフ持って≪ペニーハウス≫に乗り込んだ。もちろんすぐに取り押さえられて警察に引き渡されたんだが、そのパトカーから脱走しやがったんだ。まったく、面目ない話だよ」

「ナイフ……って、じゃあ、その手の怪我……」

 はっとした那々に、軽く手を振った。

「大丈夫、ほんとに大したことないから。それより、こっちの方が心配なんだ。脱走までして来るような場所、もうここしか思いつかなくて。一応警察の人に入口ガードしてもらってるんだけど、念のために、って思って」

「ナイフは取り上げてるんだが、他に何をどれだけ持ってるか分からん。どこででも買えるしな」

 少なくとも≪ペニーハウス≫に現れた時の装備が全部だとは、斎は思わなかった。自分に切りかかってきた時はともかく、ストーカー行為や直美に薬物を飲ませようとした彼の行動は、それなりに計画的だった。彼の主目的は、斎ではない。準備を整えていることは、想像ができた。

 そこまで考えて、ふと思いついた。

「諸角さん、西脇哲治が脱走した時に殴られた警官の人、今話ができる状態だと思いますか? 持ち物調べたはずですから、それについて知りたいんですが」

「どうだかな……手錠かけた手で殴られて顔面骨折って聞いたぞ」

「じゃあ、手錠したままなんですか?」

「詳しい話は聞いてないんだ。ちょっと待て」

 諸角は携帯を取り出し、どこだかへかけ始めた。しばらく話して通話を切ると、斎に向き直った。

「殴られた警官は、まだ話ができる状態じゃないらしい。それと手錠は、近くの路地に捨てられてたそうだ。鍵ごと取られたんだな。それで面白い話を聞いたんだが、すぐ近くのコンビニでガーゼとテープを買ってった高校生くらいの男がいたそうだ。両手首に怪我をしてたんだと」

「……手錠で殴ったんなら、その拍子に切っててもおかしくないですね」

「それと直後にその店で、自転車が一台盗まれたそうだ。おそらく、逃走に使ったんだろう」

「自転車を使ったとしたら、ここまでの時間はかなり短縮できる……警察がここに手配されるまでの間に、ここに来た可能性は?」

「……ないとは言えんな。だが、管理人が見逃しゃしないだろう。あの管理人、置物みたいにずっと詰所に座ってるからな」

「それでも、席を外すことはあります。可能性はあるかもしれません。一通り、マンションの中を調べた方が良くないですか?」

「分かった、調べさせるか。俺も行くが、おまえはここにいろ」

「分かりました」

 諸角が出て行くと、斎は那々の淹れてくれた紅茶をゆっくりと飲んだ。コーヒーに慣れた舌に、新鮮な味だ。

「たまには紅茶もいいね。美味しい」

 呑気なことを言う斎を、那々たちが浮かない顔で見つめる。それに気づいて、微笑してみせた。

「大丈夫だよ。あくまでも念のためだし。そう長く逃げてられるもんじゃないから、彼が捕まるまでのことだ」

 そう言った斎に、那々はかぶりを振った。

「そうじゃないんです。――あたしのせいで、ずいぶん迷惑かけたなって」

「迷惑?」

「彼氏のふりなんか、頼んだせいで。ただ、ストーカーが諦めるまでのつもりだったのに……天瀬さんに、怪我までさせちゃうなんて」

 ごめんなさい、と呟く彼女は、ひどく頼りなげに見えた。そういうことかと、合点が行った。彼女たちに浮かない顔をさせているのは、狙われている不安ではなく、斎を巻き込んだ罪悪感。

 彼女たちが、気に病むことなどないのに。

「ほんとに、気にするようなことじゃないよ。気にするのも謝るのも、怪我させた本人の役目でしょ? あんまり期待してないけど」

 というか、するだけ無駄だ。あの少年は完全に、自分だけにしか通用しない独りよがりの論理で動いている。

「……嫌いなんだよ、こういう事件」

「え?」

「自分にしか通用しないような理屈を人に押し付けて、うまく行かなきゃ全部他人とか社会とかのせいにするようなのが、一番嫌いなんだ」

 五年前、ただ力を信奉する歪んだ教義の果てに、子供を誘拐しその家族を利用しようとした、≪青銀天聖教団≫。それに従っていた、自分。

 そして――。

 這い出しかけた古い記憶を、かぶりを振って打ち消した。

「だからもう、成り行きなんかじゃない。僕自身の意志で、彼を止めに来た」

 分かっている。ただの好き嫌いだ。西脇哲治が、斎の嫌いな性質を多く持っているから、その思いを遂げさせる気に到底ならないだけで。那々が、五年前に関わった少女だというだけで。そこには正義も、倫理観も居合わせはしない。

 ただ、

(……守りたい、だけなのかもね)

 あたたかくて小さな手を、思い出した。

「そう、ですか」

 那々が目を伏せる。安心したのか、それとも落胆したのか判断のつかない、微妙な表情。

 まあ、聖人君子なんて柄じゃないのは確かだ。斎は小さく肩をすくめて、紅茶のカップを傾けた。




 ――どうしてこんな目に。

 今日は彼、野村圭太(のむら けいた)にとって、生涯でも五指に入る厄日のようだ。でなければこんな目になど遭うものか。

 彼の状態を簡潔に説明するならば、ガムテープで手足を縛られ床に転がされている、という一文で済む。付け加えて、傍のソファにはナイフを持った神経質そうな少年が、何やらぶつぶつ言いながら腰かけていた。

(大体、あいつがあんなワガママ言い出したりしなきゃ、俺だってこんな目に遭わずに済んだんだよ!)

 八つ当たり気味に思い出す。そもそも今日のデートで、ささいなことから恋人と口喧嘩になったところから、彼の不幸は始まっていたのかもしれない。三日も前から予約していたイタリアンレストランの前まで来ておいて『フレンチがいい』はないだろうと、駐車場で大喧嘩になったのだ。

 何とか食事は済ませたものの、そこからさっさと解散して(彼女はタクシーで先に帰った)、圭太は自慢のポルシェで帰宅したのだ。だがマンション裏手の駐車場で車を降りた途端、ナイフ片手の少年に捕まってしまった。武道や護身術の心得があるわけでもない圭太は、あっさりと降参し、少年の言うまま彼を従弟と称して、マンションの中へ連れて行くハメになったのである。逃げ出そうにも、脇腹にナイフを突きつけられては実行する気にはなれない。

 しかも、それでお役御免かと思いきや、部屋まで案内させられてガムテープで縛り上げられた。幸い口は塞がれてはいないが、何か喋れば口もガムテープで目張りされそうなので、恐ろしくて声すらあげられない。

 部屋の主を床に転がしておいて、少年はソファに陣取り、デイパックから荷物を取り出しているようだった。

 ずいぶん長いことその体勢でいた気がして、身体の節々が痛くなってきた頃、インターホンが鳴った。少年が、ぴくりと肩を跳ねさせる。

「……余計なことわめいたりするなよ。一言でも喋ったら本気で刺すぞ」

 ナイフを握り締めて立ち上がった少年に、逆らえるはずもなく肯く。少年はインターホンのボタンを押した。

「……はい」

『警察の者です。少しお尋ねしたいんですが、このマンションの周辺で、不審人物なんかは見かけませんでしたか』

「いえ、特には。何かあったんですか?」

『いや、大したことじゃありませんので。最近は何かと物騒ですから、気をつけてください。それでは、失礼しました』

「どうも、ご苦労様です」

 インターホンを切って戻って来ると、少年はこらえ切れないように笑い出した。

「大したことじゃないだとよ……犯人に逃げられて、今頃大騒ぎしてるんだろうに。――おい、知ってるか? 俺は今日、パトカーから脱走してやったんだ。警官の顔面滅多打ちにしてな。スッとしたぜ」

 自慢げな少年に、顔から血の気が引くのを感じた。どうやら自分は、思った以上にヤバい相手に捕まっているらしい。言う通りにしていないと、殺されるかもしれない。

 身を縮めて見上げる圭太を気にも留めずに、少年はナイフの刃をなぞりながら低く笑った。

 重い空気を破って、携帯が鳴った。圭太は身じろぎしたが、鳴ったのは少年の携帯だった。少年はディスプレイを見て舌打ちする。

「うるさいな、クソババアが」

 二十回近くコールして、携帯は静かになった。少年は息をつくと、今度は自分からどこかへかけ始めた。

「ああ、俺だけど、今どこだ?――分かった、もうすぐ着くんだな。じゃあこっちも準備しとくよ。ああ、分かってる、好きにしなよ。車は、マンションの裏の駐車場に停めといて。じゃあな」

 携帯の電源を切ってポケットに放り込むと、少年はデイパックを背負い、短い筒のようなものを数本、そしてガムテープを掴んで立ち上がった。

「さてと。――そろそろか」

 呟いて、少年はにやりと唇を歪め、圭太を見下ろした。息を呑む彼をリビングに置き去りに、筒の内一本のキャップを外して、リビングに放り込む。筒から噴き出した煙に圭太が咳き込むと、少年は嘲るように言い残した。

「遠慮はいらないぜ。大声で叫べよ、助けて欲しけりゃな」

 玄関のドアが音をたてて閉まる。煙から逃れようと、圭太は文字通り転がるように、リビングから脱出した。

「……た、助けてくれ! 誰か――!」

 彼が掠れた声で叫んだ瞬間。


 火災報知機のベルが、けたたましく響き渡った。




「……火事!?」

 立ち上がりかける那々を抑え、斎は立ち上がった。

「待ってて。僕が見てくる」

 玄関のドアを細く開けて、廊下の様子を窺う。特に変わった様子はなかった。エレベーターの方から、諸角が走って来るのが見えた。

「諸角さん、この火事本物ですか?」

「分からん。だが、このまま部屋に閉じこもってるわけにもいかんだろう。一応避難だ」

「分かりました」

 室内の少女たちに呼びかける。

「とりあえず、一旦外に避難しよう。もし本当だったらいけないから。一応、貴重品だけは持ち出してね」

「あ、はい!」

 どうしたものかと顔を見合わせていた彼女たちは、指示を与えられたとたんに飛び上がるように立ち上がった。それぞれ財布だの携帯だのを掴み、廊下に出てくる。

「諸角さん、先に行ってください。僕は後ろを」

「分かった」

 少女二人を挟む形で、階段を足早に下りて行った。他の住人たちは、本人たちやマンションを警護している警官が何とかしてくれるだろう。

 五階まで下りてきた時、薄く漂う煙に直美が声をあげた。

「やだ! ホントに火事!?」

「落ち着いて。とにかく外へ」

 彼女を押しやって、再び階段を下り始める。下へ行くにつれ、人の姿が多くなった。エントランスには人が溢れ、前の道には早くも野次馬が集まり始めている。警官たちが声を張り上げて、住人の誘導や野次馬の整理に当たっていた。

 警官の誘導で、マンション裏手の駐車場に向かった。建物から薄く煙が立ち昇っているのを見て、住人たちがざわめいた。

「やだ、ウチの階からも煙が出てる!」

「ちょっと、ウチんとこは大丈夫なの?」

 鋭い声をあげる母親に、子供が不安そうにまとわりつく。斎は周囲を見回した。ここでは人が多すぎる。誰が紛れ込んでいても、少し離れてしまえば分からない。

 同じことを諸角も考えたようで、少女たちを呼び寄せた。

「離れないように。どこに奴がいるか分からない」

「は、はい」

 那々たちが肯いた瞬間、それは起こった。

 人込みの中で突如、けたたましい破裂音と共に、爆竹が炸裂した。そして、噴き上がる煙。逃げ惑う人々に巻き込まれて、少女たちがわずかに引き離された。

「きゃあ!」

 人に押されて、直美が転びかける。だが、那々が助けに入るより早く、直美は誰かにぶつかって転ぶのを免れていた。

「あ、どうも……」

 見上げて、直美は凍りつく。

 西脇哲治が、そこにいた。

 彼はパーカーのポケットから、ナイフを握った手を引き出し、素早く直美の首筋に宛がった。

「ついて来い。声をあげるな。――もちろん、君も一緒にだよ」

 穏やかな声が、かえって怖かった。那々はごくりと喉を鳴らす。彼は本気だ。少しでも逆らえば、直美を傷つける。

 ぎくしゃくと歩き始めた那々を満足そうに見つめ、哲治は直美を引きずるように駐車場の出入口の方へ向かう。白の、大きなウィングをつけた車が、出入口近くに停まっているのが見えた。

「あれに乗るんだ」

 哲治が直美を連れて車に向かい、那々もそれに続いた。祈るように、胸中で叫んだ。

 ――助けて! おねがい、――!

 哲治がドアに手をかける。もうだめだ!

 その時、ジャカッ、と硬質な音がした。

「ストップ」

 涼やかな声。呪縛が解けたように、那々は振り返った。斎が、そこに立っている。シグザウエルP226を、その手に構えて。

「気づくの遅れてごめん。――さ、ナイフ捨てて、その子を離して。それ以上やると、ほんとに後戻りできなくなるよ」

 後半は哲治に向けられている。今や彼の方が、呪縛にかかったように動きを止めていた。

「こっちへ。下がって」

 斎が那々を呼ぶ声に、哲治は我に返ったようにわめき始めた。

「だめだ! 彼女も一緒に来るんだ、こいつが死んでもいいのか!? おまえこそ、銃を捨てろよ!」

「僕が銃を捨てたって、君はその子を離す気なんかないでしょ? それに、君がナイフを引こうとする瞬間に、僕は引鉄を引ける。ナイフより、銃弾の方が速いよ」

 哲治がびくりと震えた。斎の声は冷えている。取り押さえられた時の、あの眼を思い出して、哲治は無意識に後ずさった。

 その時――車のウィンドウが開いたのだ。同時に、背筋を冷たいものが走って、斎はとっさに那々に飛びつき、押し倒すように地面に伏せた。

 瞬間、車内から発砲された。弾丸は斎たちの頭上を切り裂き、遠いアスファルトにめり込む。

(――トカレフ!)

 斎は那々を引っ張って、手近な車の陰に転がり込んだ。弾速とちらりと見えた形からして、車内の人物が持っているのはトカレフだ。秒速500メートルの高速弾は車もあっさり撃ち抜くが、車のエンジンブロックは意外と遮蔽物として優秀なのである。

 斎たちが車の陰に隠れた隙に、哲治は直美を車の後部座席に引きずり込んでいた。ドアが閉まるか閉まらないかの内に、車がタイヤを鳴かせて急発進した。

「――直美!」

 叫ぶ那々の隣で、斎がP226を撃った。駐車場の出入口でハンドルを切ったのに完璧に合わせて、左前輪を撃ち抜く。だが、運転手は見事に車を立て直して、街の中に消えていった。

 斎はセーフティをかけて銃をしまうと、駆けつけて来た警官たちに叫んだ。

「目黒ナンバーの白のインテグラ、緊急手配お願いします! 早く!」



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