Side Stories:1 “Painless Dog”
時系列は≪青銀天聖教団≫崩壊直後くらい。諸角さん視点です。
――なあ、親父さんには会えたかい?
ざん、と波の打ち寄せる音がした。
諸角久尚は、道の端に立って下を覗き込む。海沿いの人通りのない道。ガードレールの外はすぐ崖になっていて、数メートルの落差の下には、かなり強く波が打ち寄せている。深さがあるらしく、海底は見えない。
捜査の途中、運転していた部下に路肩に車を停めさせ、諸角は車を降りて周囲を見回す。
「……ずいぶん、高いんだな」
崖下を覗き込み、諸角は息をつく。視線を横に走らせると、すぐ脇には、申し訳程度にロープを張られた箇所がある。ずっと伸びたガードレールは、そこだけがねじ切れ、加えられた衝撃の凄まじさを物語っていた。
ここから、彼は海に飛び込んだのだ。
ロープの下には、花束が一つ、海風に揺れていた。
――≪ペインレス・ドッグ≫。
ここしばらく世間を騒がせていた、≪青銀天聖教団≫による誘拐・監禁事件。彼はその事件を明るみに出すきっかけとなった人物だった。子供を人質に、その家族にテロへの協力を要求していた卑劣な犯罪は、その子供たちの見張り役だった≪ペインレス・ドッグ≫によって暴かれ、やがて教団の裏の顔すべてが白日の下に晒されることとなったのだ。
だが、その後の世界に彼はいない。
子供たちを助けたその足で、彼は姿を消し、ここから車ごと海へと転落した。車はすぐに見つかったが、遺体は潮に流されたのかついに見つからなかった。事故・自殺――様々な憶測が乱れ飛んだが、真相は彼自身と共に、この海の底に永遠に沈んだままだ。
――彼は、養父に会えたのだろうか。
捜査の過程で、彼が教団の闇に染まっていった理由が、徐々に明かされつつあった。
≪ペインレス・ドッグ≫は、とある地方都市で生まれた。
彼の母が彼を身ごもったのを知った時、父親である男はすでに彼女の元を去っていた。不規則な生活がたたり、彼女は自分の体調の変化に気づくのが遅れた。彼女が妊娠に気づいたのは、もう妊娠期間の半分以上を過ぎた時だ。すでに中絶できる時期ではなかった。
不承不承彼を産み落とした母親は、彼を愛そうとはしなかった。育児放棄、そして度重なる暴行。≪ペインレス・ドッグ≫が命を繋いでいられたのは、彼女の母親――彼にとっては祖母に当たる――が、警察沙汰になるのを恐れて時折面倒を見ていたからだ。
しかし彼女はついに、自分の息子を≪青銀天聖教団≫にわずかな金で売り渡した。
支部の人間が子供を探しているという噂を、インターネットで知ったらしい。そうして実の母親に売られた少年は、当人の意思とは無関係に教団へと連れて行かれた。
逮捕した教団の人間からその話を聞いた時、諸角は胸が悪くなるような気分がした。
せっかく授かった子供を、金と引き替えに売り渡す――息子を事故で亡くした経験のある諸角にとって、その行為は子供に対する冒涜にすら思えた。目の前に彼女がいたら、殴っていたかもしれない。
それでも救いに思えたのは、教団内で彼が、自分を人として扱ってくれた相手に出会えたことか。
教団内で≪静かなる牙≫と呼ばれていた男。彼が≪ペインレス・ドッグ≫の師であり、養父でもあった。彼の存在があったからこそ、養い子は人としての愛情を知り、心を失った快楽殺人者への道を歩まずに済んだ。
≪ペインレス・ドッグ≫にとっては、彼がすべてだったのだ。彼の傍らにいるために銃を取り、そして彼がいなくなった世界から、ためらいなく去ってしまうほどに。
諸角は重い眼差しで、どこまでも広がる海を眺めた。
――なあ、もう少しだけ待ってれば、違う生き方もできたんじゃないのか?
≪ペインレス・ドッグ≫の行為は確かに違法であり、訴追は免れなかっただろう。だが、子供たちを救い、ひいては東京をテロの脅威から救った彼には、少なからぬ共感と同情が寄せられていた。現に、今足下で揺れている花束も、子供を救われた家族が捧げたものだ。彼らは確かに、少年に対する感謝を抱いている。
≪ペインレス・ドッグ≫がもし、生きて逮捕されていたなら――もちろん罪は償わねばならなかっただろうが、それでもその先に、違う人生が待っていたかもしれない。
この世界のことをもっと知って、そして家族とは違う意味で愛する相手を得て……最初から愛されていたなら得られたはずの人生を、遅ればせながらも掴めていたかもしれない。
教団内で時を止められ、そして少年のまま逝ってしまった彼。
もし、子供を守り、慈しんでくれる親の元に生まれていたなら。きっと彼は今頃、平凡でも幸せな人生を生きていた――。
不意に息子のことが頭をよぎり、目を閉じた。
愛していたのに、どうしようもない運命でこの世を去ってしまった息子。
実の親から愛されず、唯一愛してくれた養父を追ってこの世を去ってしまった彼。
この世界は、何もかもが噛み合わない。
なあ、そっちで、会えてたらいいな。
どこか息子に重なる彼に、胸中でそう呟いた。
ずいぶんそこに立ち尽くしていたことに気づいて、諸角は海から目をそらした。車に向かって歩き出す。部下に缶コーヒーの一本も奢ってやるかと思った時、反対方向から来た一台の軽自動車とすれ違った。
車は、ついさっき諸角が立っていたガードレールの間隙の、すぐ近くで停車する。
何気なく振り返った諸角の視界の中で、運転席から一人の女性が降りてきて、まさに諸角が立っていた同じ場所に足を止めた。
ちらりと振り返られ、諸角は止めかけた足をまた動かし始める。彼女はこちらを一瞥しただけで、すぐに海に向き直った。右手には、小さな花束を携えている。
救われた子供の誰かの、母親だろうか。それにしては少し年が上のようだが。
そう思いながら、諸角は車に乗り込んだ。
なおも気になって、ミラー越しに見た彼女は、奇妙に寂しげに見えた。花束を投げ、目を伏せる――。
突然天啓のように思い当たった考えに、諸角は思わず振り向いた。
「諸角さん?」
「……いや、何でもない」
部下の声に我に返り、ミラーに視線を戻す。
最後に彼女が目を伏せたのは、ただ海風に耐えかねただけか、それとも――。
(……俺の考えることじゃない、な)
そう思って、ミラーからも視線を外した。
愛されていなかった少年。
届かなかった想い。
彼はもう、養父と共に逝っただろうか。
「諸角さん、もう本庁に戻りますか?」
「ああ、そうしてくれ」
部下の声に答えながら、シートに身を沈めて蒼い海を見る。
もうここに来ることはないだろうなと、ぼんやりと思った。




