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Shoot:1  Dog and Realize Girl (10)



 十日後。≪ペニーハウス≫に、那々はいた。

 店内に客はいない。今日は定休日なのだ。那々の前にはカフェオレのグラスが置かれ、カウンターでは立河がコーヒーを淹れている。

 斎は腕の傷の抜糸のため、病院に行っていた。

 しんとした空間の中、不意に立河が口を開いた。

「……悪いね、あいつも、もうすぐ帰って来ると思うんだが」

「いいんです。あたしも、お休みの時に来たんだし。――あの、マスターさん」

「何だい?」

「子犬の昔話、聞いたことありますか」

 沈黙が落ちた。サイフォンのビーカーにコーヒーが落ちる音が際立つ。

 ややあって、立河は息をついた。

「……あいつが?」

「はい」

 肯いて、那々はカフェオレを一口。相変わらず、絶品だった。

 自分のブルーマウンテンブレンドをカップに注ぎ、立河は彼女を見た。五年前に、斎――いや、≪ペインレス・ドッグ≫が救った少女。

 彼女がある意味自分たちの命運を握った存在になったことに、しかし不思議と脅威は感じない。むしろ、奇妙な仲間意識のようなものを、彼女に対して感じていた。

 同じ人間に惹かれた者同士の、連帯感ともいうべき感情。

「あいつのことが、好きなのかい?」

 そう尋ねると、那々はわずかな沈黙の後、肯いた。

「はい」

「そうか」

 目を細めた。彼女の目に、迷いはない。

 だが――懸念が胸を掠めるのも確かだ。

 斎は、誰かを愛することに慣れていない。幼い頃から、実の母親に愛されず、痛覚を切り捨てざるを得ないほどに虐待を受けた経験。そして教団で積み重ねられた、奪い、殺す日々。それらは切れない鎖となって、彼を縛り続ける。

 そして、唯一彼を愛したであろう“父親”を失った傷が、今でも斎を苛んでいるのを、立河は最も近くで見てきたのだ。そんな斎が、少女の恋心を受け止められるのか、立河には分からなかった。

「あいつは……難しいぞ」

 呟かれた言葉に、那々はきょとんと目を見張り、そして微笑した。

「覚悟、してます」

 そう――彼女はすべて分かった上で、斎を好きだと言ったのだから。

「そうだったな」

 笑いを漏らして、立河はカップに口をつけた。


 いつか彼女が、斎の隣で笑う日が来ればいいと思った。




「――あれ?」

 ドアを開けた斎は、店内に那々の姿を見つけて声をあげた。

「那々ちゃん、来てたんだ」

「あ、天瀬さん。――怪我、もういいんですか?」

「うん、おかげさまでね。もともと大した怪我じゃなかったし」

 カウンターの内側に入ると、手慣れた様子で自分の分のカプチーノを淹れ、那々にも尋ねる。彼女がかぶりを振ったので、そのままカウンター席に座った。

「……大丈夫? 事件のことで何か言われたり、してない?」

「大丈夫です。ニュースとかでも、麻薬とかの方がメインみたいな感じで報道されてて、あたしたちのことはあんまり。ただ、学校の方は色々、大変だったみたいだけど」

「だろうね」

 生徒が薬物に手を出して事件を起こしたのだ。学校関係者の人々はさぞかし、胃の痛いことだろう。

 カプチーノに口をつけながら、斎は那々を見やる。事件を乗り越え、彼女はずいぶん落ち着いて見えた。

 彼女は大丈夫だろう。強い子だ。

 だが、もう一人の方は、どうだろうか。

 そう思った時、那々が口を開いた。

「……あたしは大丈夫だけど……直美は、今入院してます。退院したら、転校するって。もしかしたら、留学するかもしれないって、言ってました」

「……そっか。そうだね」

 新しい環境に身を置くこと。乗り越えるには――忘れるには、それが一番いい。日々に追われて、きっと、記憶も薄れていくだろう。

「僕がこんなこと言うのも何だけど……早く忘れられると、いいね」

「……はい」

 肯いて、那々は斎を見た。

「……何?」

「えっと、その……ストーカーのことも片付いちゃったし、天瀬さんに彼氏のふりしてもらわなくてもよくなったでしょ?」

「あ、そうだね」

 そういえば、もう理由がないからお役御免か、そう思った矢先。

「だから今度は、ホントの彼女に立候補します」

「…………は?」

 何かとんでもないことを聞いた気がして、斎は思わず間の抜けた声をあげていた。

「えーと……僕、七歳も下の女の子に手を出す気はないよ?」

「出す気になるまで待ってます」

 あっさり言われて、斎は頭を抱えた。ぐったりと呻く。

「……何年かかるか分かんないよ?」

「いいですよ」

 きゃろんと言われた言葉に、何だかもう、何もかも投げたい気分になった。

 ……そりゃまあ、彼女のことは守りたいと思ったし。いい子だと思うけど。

 でも、僕は――。

「天瀬さん?」

 那々の声に、斎は顔を上げた。見つめてくるその瞳が、五年前の記憶に重なる。

 そういえば彼女は、あの頃からまっすぐ人を見る子だった――。

「何でも、ないよ」

 そう言って、斎は自棄のようにカプチーノを一気飲みする。たん、とカップを置いて叔父を見据えた。

「……叔父さん、さっきから何か楽しそうだね」

「いやあ、可愛い彼女ができて良かったなあ、斎」

「そのセリフは前にも聞いたよ!」

 叔父も共犯だと悟り、斎は天井を仰いだ。この人は絶対確信犯だ。

 くすくす笑っていた那々が、ふと居住まいを正して斎を呼んだ。

「天瀬さん」

「なに?」

 向き直った斎に、那々はぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございました。――色々と」

 今回のこと。そして、五年前に言えなかったこと。すべてを込めたつもりだった。

 やっと、言えた。

 顔を上げると、斎が微笑した。

「どういたしまして」

 その表情に、“彼”の面影を見つけて、泣きたくなるような想いがこみ上げてくる。探していたものをようやく見つけた、そんな達成感にも似た気持ち。

 このひとだった。

 このひとでよかったのだ。

 斎の笑顔の中で、あの日の“彼”が微笑っていた。


 もう、迷わなくていい。

 彼女の恋は、ここから始まる。




 那々が帰った後、斎は立河をじろりと見やり、カップを突き出した。

「叔父さん、もう一杯」

「ブルマンなら余ってるぞ」

「それでいいよ」

 ブルーマウンテンブレンドを啜りながら、息をついた。

「……どうしろっていうのさ」

「どう、とは?」

「那々ちゃんのことだよ。――誰かを好きとか愛してるとか、そんなの分からない、僕は。足りないところが、いっぱいある」

「別にいきなりそこまで突っ走ることはないだろう。あの子が大事なんだろ? 大事にしたいってのは、好きだってのと大差ないぞ」

「……そうかな」

「そんなもんだ。大体こんなもん、頭でああだこうだ考えたってどうにもならん。なるようにしかならんもんだ」

「それって経験談?」

「まあ、そんなもんか」

 叔父の言葉に苦笑して、斎は店内を見回した。少しくすんだ色合いの床、磨き上げられたカウンター、そして何より、全身を包むコーヒーの香り。この二年の間に、すっかり店内に染み付いた香りだ。

 ここに越して来て二年。そしてそれ以前に三年。

「……五年、か」

 呟いた斎に、立河も思い出す。もう五年も経ったのだ。彼の“叔父”になってから。

「早いもんだな」

「うん。ほんとだね」

 カップを弄びながら、斎が微笑した。その穏やかさに、感慨とでもいうべきものを感じる。五年という時間があったからこそ、できるようになった表情。五年前の彼からは、想像もつかない。

 今回のように無茶をすることはあっても、命を粗末にするようなことはしなくなった。“死”に魅入られていた、あの頃の彼はもういないのだ。

 父親を失った傷が消えることはなくとも、それを覆って癒すことはできるだろう。

 彼女――那々が、そういう存在になってくれればいいと思う。

「いい子じゃないか。守ってやれよ」

 そう言うと、斎は少し目を見開き、そして肯いた。

「うん。――そうしたいと思ってる」

 祈るように、呟いた。



 三階の自室で、斎は机の上のパソコンを起ち上げた。一階の店から持ってきた“カルテ”の内容をデータ化するためだ。

 個人別に作ってあるファイルに新規の分の入力を済ませると、メールをチェックする。たまに千秋のような常連客が予約のメールをよこすことがあるのだ。たまに銃と一緒にコーヒー豆の注文もあったりして笑ってしまった。

 メールのチェックを終えると、少し考え、インターネットに接続した。アドレスバーの履歴から、警視庁のサイトにアクセスする。サイトに入ると、もう何十回もクリックしたリンクをまたクリックした。

 ――【≪青銀天聖教団≫の幹部たち】。

 相変わらず、新しいトピックスはない。そのことに、安堵とも落胆ともつかない息をついた。

 教団に対する斎の感情は、複雑だ。自分を育てた組織。そして、父を死に追いやった組織。

 ……いや、父の死は自分にも責任の一端はあるのだろうが。

 そう思って、顔を覆った。

 教団が父を危険視し始めたのは、斎が迷いを見せ始めたからだ。父が示した、人としてのボーダーラインを、教団の任務は容易く越える。教団に忠実な犬でなければいけなかったのに、そのギャップに戸惑い、板挟みになって迷いが生じた。教団随一の戦士である≪ペインレス・ドッグ≫の迷いは、そのまま戦闘力の低下に繋がる。そう考えた教団側は、原因の排除を実行した。そして――任務の果ての父の死。

 迷わなければよかった。父の意にそぐわなくても、教団に忠実な犬のままでいれば――そうすれば、父が死ぬことはなかったかもしれない。少なくとも、もっと長く傍にいることが叶っただろう。

 そしてまた、戻れない過去を嘆いて、同じループを回り続ける。

 かぶりを振って、斎はサイトへの接続を切った。そのままパソコンの電源も落とし、窓から外を眺める。

 ……教団時代の仲間たちの誰かも、いるのだろうか。自分と同じように、この街のどこかに。

 教団が崩壊した際、教祖を始め幹部たちや主立った信者たちは軒並み逮捕・収監されたが、斎と同じくダークサイドに属していた者たちは、数人が未だ行方不明のままだ。教団では、任務のために偽造パスポートを支給することもあったので、それを使って海外に逃れた者もいるかもしれない。

 彼らの戦闘能力の高さは、斎が一番よく知っている。めったなことで捕まるとは思えなかった。

 彼らは、恨んでいるだろうか。教団崩壊の引鉄を引いた自分を。

 そしてこの街は、華やかさの下にその憎悪を隠しているのだろうか。

 今思えば、顔を変えなかったのは失敗だったかもしれない。熱海の養母のところに転がり込んだ際、一度整形をしようかと口にしたら、せっかくの綺麗な顔がもったいないと猛反対されたのだ。かといって、今さら整形するのも妙なものだし……。

 とりあえず今は、考えても仕方がないので、その問題は棚上げすることにした。見つからなければ、それに越したことはない。

 だが、見つかって、自分の周囲に累が及ぶようなことになれば――その時のために牙を研ぎ、戦う覚悟だけはしておくつもりだった。

 ――この街にはきっと、牙を隠した獣が山ほど棲んでいる。

 もちろん自分も、その中に含まれるのだが。

 斎は立ち上がり、カルテを持って部屋を出た。出掛けに振り返って、肩越しにもう一度、窓の向こうを見やった。

 夜の闇は、まだ遠い。

 わけもなくそのことにほっとして、斎は再び振り返ることなく部屋を出て行った。




 ≪ペニーハウス≫を出て、どこへ行くとも決められずに街を歩く。家へ帰っても、暇を持て余すだけだ。直美は部屋を引き払ってしまい、もうあのマンションに帰って来ることはない。

 ふらりと本屋に立ち寄った。今はネット配信に押され気味だが、まだペイパーバックを好む風潮も根強い。棚の間を歩いていると、出し抜けに肩を叩かれた。

「……あ」

 少し目を見張る。すらりと背の高い、すっかり顔見知りになった少女。

 まひるも、意外そうな顔で那々を見て、

「あんた、本屋なんかに来ることあるんだ」

「……それって、ちょっと失礼だと思う」

 確かに、お世辞にも勉強熱心とはいえないが。

 成り行きで並んでレジに行きながら、ふとまひるの手にした本のタイトルを見て絶句する。

【世界ナイフ百科】。

 そういえば出かけるにも複数のナイフを持ち歩く少女だ。よほどのナイフマニアなのだろう。部屋を見るのが怖い気もするが。

 会計を済ませて本屋を出ると、二人はしばらく歩いて歩道橋に差しかかる。那々がふと、口を開いた。

「……そういえばさ、あたし一つ訊きたかったんだけど」

「何?」

「前に言ってた、“借り”って何なの?」

 結局、聞かないままに終わってしまい、気になっていたのだ。

 まひるは那々を見て、ふっと笑った。

「……五年前の事件の時」

 彼女の言葉に、はっとする。なぜまひるが事件との関わりを知っているのか分からず、息を詰めた。まひるはどこか那々の反応を楽しむように、言葉を継ぐ。

「あんた、男の子助けたことあるでしょ」

 言われて、おぼろげに思い出した。大柄な見張り役から、小さな男の子を庇ったこと。その後自分も、斎に助けられたのだけれど。

「その子、あたしの弟なのよね」

「……そうなの!?」

 まじまじとまひるを見つめる。意外なところに、意外な縁があったものだ。

「おかげさまで、今十歳。毎日サッカー漬けよ」

「へえ……そうだよね、もう五年も経つんだもんね」

 相槌をうって、軽い気持ちで尋ねた。

「そういえばさ、まひるの家って何の仕事してたの? ウチはあの時、お母さんが成田空港にいたんだけどさ」

 すると、まひるはなぜか顔をしかめた。

「……ウチじゃなくて、伯父貴がね」

「伯父さん?」

「警察庁長官」

 ……二度目の絶句。

「……何でまひる、ウチの高校通ってんの? 私立でも行けたんじゃ……」

「だって金かかるじゃん。伯父貴がお偉いさんでも、ウチはただの会社員なんだからさ」

 確かにその通りだ。

「それに、伯父貴の方だってあたしみたいな問題児の面倒は見たくないだろうし。弟ならともかく」

「問題児、ね……」

 ほとんど金のロングヘア、メンソールの煙草をふかし、ナイフを持ち歩く少女。しかしまひるには、不思議と粗暴さは感じられない。どこか大人びて、自分というものを持っている人間に思えた。

「……けど、まひるって実はいい人でしょ」

「お、分かってんじゃない」

 からからと笑って、まひるは歩道橋の中ほどで立ち止まり、バッグの中をごそごそと探る。

「何?」

「ん、煙草」

「ちょっと、ここで吸うの!? 制服で!?」

「いいじゃん、ほとんど人なんか通りゃしないし」

 まひるは意に介さない。マイペースも困りものだ。

 煙草をくわえて、ライターで火を点ける動作が、相変わらず妙に堂に入っていた。白い煙が、暮れかける空に細長く立ち昇る。

「……あん時さあ、弟が教団に誘拐された時。ウチの親、おたおたして見てらんなかったんだよね」

 空を見上げたまま、まひるは煙草の灰を落とした。手摺にもたれて、長い指に煙草を挟む姿が、やけにはまっていた。

「伯父貴んとこに駆け込んでって、何とかしてくれってわめいたり。そりゃ伯父貴も扱いに困ったと思うけど。結局、誰も何にもできなかったんだけどさ。そん時、あたし決めたんだ」

「決めた、って?」

「あたしは、誰かの弱みにはならない」

 どこか晴れ晴れと、まひるは言い放った。

「弟みたいにおとなしく取っ捕まったりしない。戦ってやろうと思って。だから、ナイフはあたしの牙なんだ」

「……そっか」

 分かるような気がした。那々自身も、誰かの足枷になるのは嫌だ。目の前で他の誰かが傷ついて、それを見ているしかできないなど、冗談ではない。それくらいなら、自分で戦いたかった。

 あの時のように、血を流す斎を見ているしかできないなど、もうごめんだ。

「そうだよね。自分でも、何とかしたいもんね」

 そうでなければ、彼の隣には立てない気がした。

 短くなった煙草を携帯灰皿にしまって、まひるは手摺に頬杖をつく。靴先で足元のコンクリートを叩きながら、那々を見た。

「けど、あんたは昔から、度胸据わってたんじゃない。誘拐された先で大の大人に食って掛かったっていうし、こないだもちゃんと自分で落とし前つけに行ったしさ。――あたしみたいにナイフ持ってるわけでもないのに、どうしてそんなにできるのかって、思ったことあるよ」

「それは……アタマ来ちゃって、周りの状況なんて飛んじゃってたから。――それに、助けてもらってたし、結局」

 二度とも、斎に助けてもらった。そして、二度とも彼は血を流した。本当は、那々が負うはずの怪我だったのに。

「あたしが強いわけじゃない。運が良かっただけだよ」

 強くなりたい。守られるだけにはならないように。

 すると、まひるは少し笑った。何というか――にやりという擬音が似合いそうな、笑い方。

「……あん時助けに入ったのって、あれ、あんたの男?」

「は!?」

 一瞬、思考がぶっ飛んだ。

「ありゃ只者じゃないね。銃工(ガンスミス)って言ってたけどさ、相当修羅場潜ってそう。おまけにいい男だし」

「あの、それ――」

 慌てる那々に、まひるが笑いかける。大人びた、きれいな笑顔だった。

「捕まえるんなら、きっちり捕まえといた方がいいよ」

「……その、つもり」

 五年も想った相手だ。あと数年、どうということはない。

「ま、頑張れ。じゃね」

 肩を叩いて、まひるは歩き出した。肩越しに振り返って、ひらひらと手を振った。那々も家に帰るため歩き出す。気分が軽い。

 彼女とは、気が合いそうな気がした。




 その後数日、千秋のレミントンと他の顧客持ち込みの銃の調整にかかり切りになっていた斎は、週が変わった頃にようやく喫茶店のウェイターに復帰を果たした。土日はともかく、平日は日がな一日、一階の工房に閉じこもっていたのだ。

 いつになく新鮮な気分で喫茶店のユニフォームに袖を通し、テーブルを拭いていると、ドアの開く音がした。

「いらっしゃいませ……諸角さん?」

「おう」

 軽く手を上げて、諸角はいつものようにカウンターに直行する。立河が、モカブレンドを淹れ始めた。

「やっと一段落ついてな。今度の事件が」

「あ~……ご迷惑かけました」

 あの時は斎も景気よく発砲してしまった。別に人を撃ったわけではないが――そういう意味では、むしろ斎の方が被害者だが。正当防衛ということで片付けるのに、諸角がずいぶん走り回ってくれたであろうことは想像に難くない。

「いや、あれで薬物の流通ルートの一部を掴めたからな。上手く辿れれば、もっと大物が釣れるかもしれん。そういう大事件解決の立役者が民間人ってのは、どうもありがたくないらしい、上としては」

 つまり、手柄を譲る代わりに発砲の件は不問に付す、ということらしい。もっとも、斎にとってもその方が好都合だが。

「そうですね。僕もその方がありがたいです。あんまり騒がれたくないですから」

「やれやれ、謙虚だねえ、おまえも」

 というよりは、あまり顔を売りたくないというのが本音だが。

「まあ、薬物絡みの事件の担当を引っ張ってったから、そいつが喜んで引き受けてくれるだろうよ。ついでに、この後の捜査もな」

 そう言って、諸角はできてきたモカブレンドを啜る。

「……そういえば、西脇哲治はあれからどうなったんですか?」

 ふと尋ねると、諸角は難しい顔になった。

「まだ入院中だ。中毒症状が、予想以上に進んでてな。あの分じゃ、医療少年院の方に入ることになるかもしれん」

「そうですか」

 斎は息をついた。彼はまだ十代だ。これからいくらでも、やり直しはきくだろう。個人的に親しくしたいと思う相手ではなかったが、何とか立ち直ってくれればそれに越したことはない。

 彼はまだ間に合う。

 自分のような、獣にはならずに済む可能性が残っているから。

 ――と、諸角が思い出したように言い出した。

「そうそう、公安の“姫”がまた騒いでたぞ。おまえが撃たれたって話が、どっかから行ったらしくてな。今は忙しくてなかなか抜けられないみたいだが、その内見舞いと称して押しかけてくるんじゃないか」

「……ありがとうございます。心の準備だけはしておきます」

 いつ襲撃されるかは分からないが、ふわりと気分があたたかくなるのを感じる。自分のことを気にかけてくれる人が、何人もできた。五年前――教団を出奔してきた時は、想像もしていなかったことだ。

 自分を案じてくれる人など、養父以外にはいないと思っていた。仲間たちとも仲が悪かったわけではないが、やはり“家族”として愛情をくれたのは、彼だけだったから。

 しかし、立河に出会った。養父を失って心身ともにぼろぼろだった斎を、教団とは違う形でこの世に繋ぎ止め、家族として受け入れてくれた人。そして、養母となってくれた彼の姉。諸角も、斎を亡くした息子と重ねているのだろう、何かと親身になってくれる。千秋や凛子は、例えば兄や姉がいたらああいう感じなのかもしれない。

 そして、彼らの中の誰とも違うベクトルで、斎を想ってくれる――那々。

(……だから、大丈夫)

 だいじょうぶだよ、父さん。

 僕には、大事な人がこんなにできた。

 だからもう、自分から死のうとはしない。彼らを守るために命を張ることはあるかもしれないけれど、それは命を投げるんじゃない。

 彼らを守って、自分も生き残る未来を掴むためだから。


 そう思わせてくれる人たちに、ただ感謝した。


 モカブレンド一杯ですぐに帰った諸角と入れ替わるように、千秋が店に姿を見せた。レミントンが仕上がったと、連絡しておいたためだ。

「一圓さん、この間はありがとうございました」

「おう、怪我の方、大したことなくてよかったな。で、俺のレミントン、できたって?」

「はい。けどまず、コーヒーですよね?」

「ああ、エスプレッソ頼む」

「分かりました」

 立河が淹れ始め、斎は銃の準備をしようと奥に入りかける。すると、千秋が彼を呼び止めた。

「ちょい待ち」

「何ですか?」

「俺んとこでな、おまえに銃を見て欲しいって奴がいるんだけど。出張整備とかって、頼めるのか?」

「出張? 一圓さんの仕事場って、確か……」

「ま、詳しい話は下でするとして。ここって出張やってたっけ?」

「僕に足がないですから、やってなかったんですけど……いい機会だから、バイクくらいは持ってもいいかなって。今回のことじゃ、足がないのが不便だってとことん痛感しましたから」

「ああ、いちいち人に送ってってもらうんじゃ不便だもんな。じゃ、可能性はアリなわけだ」

「そうですね、やってもいいかなって思ってます。ただそうなって、喫茶店の方が休みがちになっちゃうと困るかなって」

「こっちは構わんぞ。別に手間暇かかる料理を作るわけでもないんだしな。――エスプレッソ、どうぞ」

 立河がカップを千秋の前に置く。

「ども。――じゃあ、頼んでいいか?」

「はい。ただ、バイク買うのが先ですけど」

「そりゃそうだ」

 笑って、千秋はエスプレッソに口をつける。斎は奥に入って着替えると、一階に下りて店の鍵を開けた。棚から千秋のレミントンを、スコープとサイレンサーつきのフルセットで取り出す。サイトの照準は調整してあるが、千秋の好みもあるだろうから後は本人に任せることにする。機関部やバレルに被害がなかったのが救いだが、傷が入っていたストックやらアクセサリやらは根こそぎ交換になってしまった。それでも思ったより時間がかからなかったのは、日本にもメーカーの代理店ができて、パーツの入手が比較的楽になっているためだ。よほどレアな銃でなければ、一日から二日で大抵のパーツが手に入る。とはいえ、銃工の資格証提示が必須条件なのはもちろんだが。

 ややあって下りて来た千秋は、すっかり直ったレミントンに目を輝かせた。

「おーっ、俺のレミントン! やっと退院だな」

「サイトの方、こっちでも調整してますけど、やっぱり実際に使うのは一圓さんですから。どうですか?」

「ん、いいんじゃねえ? レンジ借りるわ」

「はい」

 千秋がレミントンを抱えてシューティングレンジへ下りる。斎は明細書と領収書を用意して、試射後のクリーンアップの準備を始めた。

 試射を終えた千秋が受け取りの書類にサインしている間に、さっとクリーンアップを済ませる。

「やっぱ本職、早いな」

「どうも。――で、さっきの出張の件ですけど、どこへ行けばいいんですか?」

「ああ、俺らの待機所が藤城の本社ビルにあるんだ。そこへ来てもらえるか。時間なんかは、そいつの都合次第になるから、また連絡する」

「分かりました。――じゃ、これ、明細と領収です。ありがとうございました」

「おう、また頼むわ」

 代金と領収書のやり取りを済ませて、千秋は≪ペニーハウス≫を後にした。斎がバインダーを片付けていると、カウンターの電話が鳴った。内線だ。

「叔父さん?」

『斎、上の方、客が入って来たからちょっと戻ってくれ』

「分かった」

 斎は急いで鍵を閉め、階段を駆け上がっていった。

 やはり出張整備や修理は、件数を抑えた方がいいかもしれない、と思いながら。




 彼は、静かに微笑(わら)っていた。

 那々はそれを見つめる。五年前の、出会った頃の姿をした彼は、バンの窓越しに囁きかけた。

『……さよなら、だよ』

 置いていかないで、と言いかけてやめた。代わりに、まっすぐ彼を見つめる。

「……またね」

 そう言うと、彼は驚いたように目を見開いて、そして微笑し、手を伸ばした。

『うん、またね』

 ふわり、と彼の手が髪を掠め、バンが走り去っていく。那々はそれを見送った。もう、泣くことはない。

 これで終わりじゃない。また、会える。

 今度は待っているだけのつもりはない。自分からでも、会いに行けるから。

 ――ベルの音に、那々は目を覚ました。

 毎年のように見ていた夢。だが来年からは、もう見ることはないだろう。だからこれは、五年前の彼との別れだ。

 そして、現在(いま)の彼との再会の約束。

 那々はベッドから下りて、部屋を出た。

 リビングのあの窓を、思い切って開けた。毎年、彼に祈っていたあの窓。

 もう、祈ることはない。

 その代わり、会いに行こうと思った。

「――那々? 起きたの?」

「うん」

 母の声に振り返ると、母は窓からの光に眩しげに目を細める。

「今日もいい天気ねえ」

「そうだね」

「ほら、起きたんならさっさとご飯食べちゃいなさい」

「はーい」

 返事をして、窓に向き直った。流れ込んでくる、朝の澄んだ空気。

 ――今日もまた、≪ペニーハウス≫に行こう。

 立ち止まっていた分を取り戻しに、斎に会いに行くのだ。

 そう決めて、大きく息を吸い込んだ。



 Shoot:1  End.




“End”とありますが、完結ではありません(笑)。

章ごとの区切りとしての表示ですので、紛らわしいですがよろしくお願いします。


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