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Shoot:1  Dog and Realize Girl (9)



 立河は一人、カウンターの内側でコーヒーを淹れている。

 つい十分ほど前、病院から帰ってきたばかりだった。斎が撃たれて入院したなどと連絡を受けたものだから、泡を食って病院へ駆けつけたが、当の本人はけろりとしていて拍子抜けしたものだ。出血のせいで軽い貧血を起こしており、大事を取って一晩入院することになったというので、とりあえず戻って来たのである。

 どうやら自分が着く少し前に、起き抜けにふらふら出歩いているところを看護士に捕まったらしく、斎はおとなしくベッドの住人と化していた。その姿に、出会った時のことをふと思い出す。

 ――あの時の彼は、何かに取り憑かれてでもいたように、がむしゃらに死に向かって歩いていた。

 その頃の記憶――やっと思い出話にできる程度に和らいだ記憶を、頭の奥から掘り起こす。


『……どうして、僕を助けたんですか』


 あの時、確かに彼はそう言ったのだ。




 二〇XX年七月、横浜。

 立河は横浜のいわゆる暗黒街で、非公認の銃工(ガンスミス)を営んでいた。扱う品はもちろん、非合法の密輸銃や犯罪歴のある銃だ。特に犯罪に使われた銃は、弾丸に残った旋条痕から足がつきやすいため、ライフリングを加工しないと決定的な証拠を残すことになる。

 その日も、持ち込まれていた銃を客に引き渡し、立河はコーヒーを淹れて一息ついた。コーヒーを淹れるのは若い頃からの趣味だ。この仕事から足を洗ったら、次はコーヒーショップでも開こうかと思っているくらいである。

 この界隈は、立河のような非公認・非合法な商売の人間、そしてそれを当てにしてやってくる犯罪者たちの街だった。海外からの不法入国者や、密輸の一大中継地でもある。警察でさえおいそれとは手を出せない、関東有数の都市・横浜の闇の部分。立河自身、その闇の住人を顧客として生活している身だ。

 コーヒーを啜りながら、立河は窓の外を眺める。この街は、昼よりも夜の方が人の姿が目につくようだ。

 その時、スチールのドアをノックする音がした。

「鍵は開いてる。入ってくれ」

 ドアの方に声を投げ、カップを流し台に置く。この店に来る客は大抵が、ノックなどという気の利いたことはしない。誰だろうかと首をかしげながら、開いたドアを見やった立河は、次の瞬間絶句することになった。

「……姉さん、こんなところへ何しに」

 ようやく押し出した声に、前触れなしに訪ねて来た姉は肩をすくめた。

「何って、あんたが最近連絡も寄越さないから、どうしてるかと思って来てみたのよ。ちょうど横浜へ出て来る用があったから」

「それにしたって……素人が来るようなところじゃないぜ、ここは」

 とりあえず、申し訳程度に置いてある椅子に姉を座らせ、冷蔵庫を開ける。

「何か飲むかい。――つっても、アイスコーヒーくらいしかないが」

「構わないわよ」

 答えながら物珍しげに、姉の光子(みつこ)は店舗兼住居である室内を見回した。

 光子は、実業家の男性と結婚したが、その夫に先立たれた後、遺産を相続して熱海に移り住んだ。会社の株式や土地を持っているおかげで、毎月結構な収入があり、悠々自適の毎日を送っている。銃への興味が高じて銃工になった立河とは違い、至極穏やかな生活だろう。もっとも最近では立河も、危険と隣り合わせの生活を楽しむには少々年を取ったと感じるのも事実だが。

「案外きちんとしてるのねえ。非合法なんていうから、もっとごたごたしたところかと思ってたわ」

「呑気なこと言って……よく無事に来れたなあ。そんななりして」

 いかにも良家の奥様といった身なりの姉に、呆れ半分感心半分で嘆息する。日があるからといって安心はできないのがこの界隈なのだが。

「あら、普通に来れたわよ。すぐそこまで車で来たんだけど、この辺りがあんまりごちゃごちゃしてるから、分からなくなっちゃって。しょうがないから、その辺の人に訊いちゃったわ」

「…………」

 ため息をつく。どこかの組の姐さんと勘違いされたんじゃないかと一瞬頭をよぎったが、言わない方がいいだろう。

「でも、もう銃は合法化されたんだし、あんたも非合法でやってないで、試験でも受けて公認受けたらいいじゃない」

「今さら無理だろう。辞めようと思えば銃自体から手を引くしかないさ。銃を扱える人間はいくらいても足らないからな。よっぽどの理由がなきゃ引退もできない」

 立河は自嘲気味に笑った。彼の腕は、裏社会でも認められている。足を洗うといっても、そう簡単にはいかないだろう。下手をすれば、色々まずいことを知っているからと狙われかねない。

「それより、そっちはどうなんだ。まだ五十前なんだし、再婚でもしたら」

「そんな元気もないわよ。親戚付き合いも面倒だし、独りが気楽。子供もいないし、せいぜいのんびり暮らすわよ」

「そんなこと言ってると、あっという間に還暦過ぎちまうぜ」

「あんたこそ、結婚はしないの?」

「こんな商売でか? 嫁さんだって逃げ出しちまうよ」

 肩をすくめた弟に、光子は苦笑いした。この弟の方こそ、早く身を固めなければ瞬く間に還暦過ぎだろう。

「あんまり長居はしない方がいいぞ、この界隈は。ろくな連中がいやしないからな」

「あら……そうなの?」

「ああ。できれば、もう来ない方がいい」

「いやだ……物騒なこと言って」

「そういうところなんだよ、ここは」

 そして、そういう場所を選んだのも自分なのだ。

 姉を早々に送り出して、立河は息をついた。まともな生活をしている姉には、こういう界隈に足を踏み入れて欲しくはない。まあ、この街の住人は移り気だから、ほんの数十分訪れただけの闖入者(ちんにゅうしゃ)のことなど話題にも上らないだろう。

 それよりも、この間始末を頼まれたトカレフをどうにかしなければ。仕事の方に頭を切り替え、立河は空のグラスを持って台所に立った。


 数日後に大きな転機が待っているなど、この時は思いもしていなかったのだ。


 七月十日から十一日に日付が変わった頃。ライフリングの加工を終えた銃を机の上に置き、立河は大きく欠伸をした。このところずっと銃にかかりきりだ。しばらく仮眠でも取ろうと、入口のドアの鍵をかけ、寝室にしている奥の部屋に向かった。もちろん、この界隈に住む人間の用心として、護身用の銃を枕元に置くことは忘れない。

 ベッドに横になって目を閉じ、数十分ほど経った頃だろうか。

 かすかな音を耳にした気がして、立河は目を開いた。ほとんど条件反射で、枕元の銃を掴む。愛用のベレッタM92FS。残弾を確認し、静かに起き上がって、隣室の様子を窺う。

 かちり、とドアノブが回った。

 ドアが豪快に開け放たれると同時に、立河は床に飛び込んで転がる。次の瞬間には、頭の上を横切った銃弾が、ベッドのマットレスにいくつもの風穴を開けていた。一瞬だけ視界をよぎったのはコルト・ガバメントだ。大口径の、ストッピングパワーに重点を置いた銃。

(本気で殺る気か)

 床の上からベレッタを構え、撃った。相手が自分を殺しに来ているのだ、手加減などしていたらやられる。相手の身体のど真ん中を狙った。

 三発の内二発は、不安定な姿勢がたたって外れた。だが残りの一発が、相手の右胸を直撃して撃ち倒した。

 相手が動かないのを確かめ、立河が立ち上がる。襲撃者の顔を見て、思わず呟いた。

「何てこった……子供じゃないか」

 襲撃者は、髪を派手な色に染めてはいるが、せいぜい十七、八の少年だった。右胸の一発がかなりの深手を負わせたらしく、動ける状態ではないようだった。

 立河はとりあえず隣室を窺い、他に仲間がいないのを確かめる。入口の鍵はこじ開けられていた。ため息をついて、ひとまず机を引きずってきて鍵代わりにし、少年のもとに戻った。

「誰に頼まれた?」

 こんな少年に恨まれる覚えはなかった。大方、今までの顧客の誰かが金でやらせたか、組の下っ端をよこしたかのどちらかだ。下手な詮索をするなと脅されたことは星の数ほどある。あいにく、心当たりが多すぎた。

 尋ねるも、少年はもはや答える力すら残っていないようだ。立河はとにかく止血を施した後、彼の服を探り、携帯を探し当てた。発着履歴にある番号を控え、さらに身許が分かりそうなものを洗いざらい引っ張り出して床に並べる。その中に、銀行のキャッシュカードを見つけた。

 ≪トダ イツキ≫

 ――がたん、と音がした。

 はっと目をやると、少年の右手がまだ銃を握り、こちらに銃口を向けている。とっさに銃口を掴んで、射線をそらした。

 引鉄が引かれた。掴んだ右手に激痛が走る。撃ち出された銃弾と高温のガスが、掌を深く傷つけていた。

 最後の力を使い切ったように、少年の右手がごとりと落ちる。脈を診てわずかに顔を歪めた。そこには何の反応もなかった。

 ――殺してしまった――。

 立河は重い息をついて、見開いたままの少年の瞼を下ろしてやる。自分の命を守るためとはいえ、まだ年端も行かない少年の命を奪ってしまった。何の恨みもないというのに。

 ふらりと立ち上がり、右手の傷の手当てをした。指を動かすと、引きつるような感覚がある。しばらくは――もしかするとこの先一生、銃を扱うことはできないかもしれないが、それでもいいと思えた。これまでにも銃を撃ったことがないわけではなかったが、二十歳にも満たない少年を殺してしまった経験は強烈すぎた。銃への興味も熱意もすっかり拭い去ってしまうほどに。

 もう一度少年の方へ目をやった時、激しくドアを叩く音が聞こえた。

「おい! 今銃声がしなかったか!?」

 それがこの辺りに住んでいる、親しい情報屋だと思い当たって、立河は怪我をした右手に苦労しながら机をどける。ドアを開けると、情報屋の茂木(もぎ)が転がり込んできた。

「何だ……ピンピンしてやがるじゃねえか」

 殺されてるかと思ったぞ、と物騒なことを言う彼に、苦い笑みをこぼしてかぶりを振る。

「……そうでもないさ」

 寝室を指し示した。

「撃っちまった。――ひどい話だ。まだ年端も行かない子供だぞ」

 床に倒れた少年に、茂木は息を呑んだが、落ち着いた声で問い返す。

「ガバメント持って乗り込んで来たんだ、撃たなきゃ撃たれたろうさ。正当防衛だろう?」

「慰めにはならんよ。――せめて、どこから頼まれたのかだけでも知りたい。調べてもらえるか?」

「手がかりは?」

「これだ」

 先ほど控えた電話番号を見せると、茂木は肯いた。

「分かった、何とか調べてみるさ。――ところで、この坊主はどうするんだ。真正直に通報するわけにもいかんだろう」

「それは……」

 立河は言い淀んだ。自分が逮捕されれば、姉の立場にも影響が及びかねない。その逡巡を見抜いた茂木が息をついた。

「……この界隈じゃ人が一人消えたところで誰も気にしやしない。始末屋に連絡しよう」

「いや。――自分でやる」

 かぶりを振って、立河は少年の身体をベッドのシーツでくるんだ。せめて、自分の手で始末をつけるべきだと思った。

 茂木に手伝ってもらい、少年の遺体を車のトランクに乗せる。目立たないように上にタオルや毛布を被せた。夜半過ぎのため、人目はなかった。部屋に残った血痕や穴だらけのマットレスを始末し、番号調べを茂木に任せて立河は車に乗り込んだ。できるだけ人目につかない時間帯に目的地に着きたい。

 当てはあった。以前通ったことのある、人通りのほとんどない海沿いの山の中。

 まだ夜の闇が色濃い中、立河は街を出た。

 幸い見咎められることもなく、夜明け前に目的地に着いた。明るくなる前にことを済ませたい。立河はアクセルを踏んで、山道を登っていった。

 かなり奥まで車で入ることができた。限界まで車を突っ込ませると、トランクから少年の遺体を担ぎ出し、木立の中に分け入った。しばらく行ったところに一旦遺体を横たえ、車に取って返してシャベルを持ってくる。シャベルを地面に突き立て、穴を掘り進めた。ざく、ざくと土を掘り返す音がやけに響くような気がした。気がつくと、空がすでに白み始めている。シャベルを置き、穴の底にシーツにくるんだ遺体を横たえ、土を被せた。

 すべてが終わった頃には、すっかり夜は明けていた。どっと疲れが襲ってきて、立河はシャベルを抱えて車に戻った。そういえば、仮眠すら満足に取れていないのだ。シートを倒し、引き込まれるように眠りについた。

 ……目を覚ますと、もう昼を過ぎて日が傾き始めた頃だった。携帯で時間を確認しようとして、茂木からの着信に気づく。急いでコールバックした。

「俺だ。すまん、つい寝ちまってな。それで、何か分かったのか?」

『ああ、おまえ以前に、松嶋組の組員の依頼で、銃を扱ったことがあったろう』

 その名には聞き覚えがあった。関東で強い勢力を持つ≪白真会≫系列の組だ。暴力団関係からもずいぶん仕事を受けていたので、その中の一人だろう。

『そいつは、二ヶ月くらい前の銀行強盗で、行員を一人撃った銃だったらしい。その強盗、組員が組長に話を通さず、勝手にやらせたらしいんだ。その話に勘付かれちゃ困るってことだったらしいぜ』

「よく調べたな、そんなやばいネタ」

『もう始末がついたんだよ。ほら、おまえが控えた電話番号。あの中に、その組員の携帯の番号が混ざっててな。それを足掛かりに組の方に問い合わせてみた。そしたら上がえらい勢いで問い詰めたらしくて、奴さんもたまらず白状してな、そっから先はどうなったのか知らんが、この件はこっちで始末つけたからって、組の方から連絡がきた。まあ、何とか収めてくれってこったろう』

「そうか……いや、片付いたんならいい。こっちももう終わった。今から戻る」

 懸案が一つ片付いて、息をつきながらキーを差し込んだ。疲れも少しだが取れた。狭い山道を、慎重にバックで戻って行く。

 少し戻ったところで、分岐に差しかかった。右へ行けば、もと来た道を戻ることになる。だが気分を変えたくなって、左の道へ行くことにした。おそらく山を越える道だろう。

 山道を進んでいく内に、日がどんどん傾いてくる。沈みきる前に山道を抜けたいと思いながら、ライトを点けた。

 不意にライトの中に白っぽいものが浮かび上がって、ブレーキを踏んだ。近づいてみると、バンが道を塞ぐように停まっている。もう少しで山道を抜けられるのだが、これでは進めない。近くに運転者がいるのかと見回した立河は、バンの向こう側を覗いて息を呑んだ。

 少年が一人、服を血に染めて倒れていた。

 反射的に自分が射殺した少年のことを思い浮かべ、慌てて駆け寄った。脈を診ると、弱くはあるが打っている。急いでトランクからタオルを取ってきて止血した。見たところ、この少年もここに来てそう時間は経っていない。すぐに処置をすれば、助かる可能性がある。いや、助けてやりたかった。少年を射殺した罪悪感の裏返しと分かっていたが、それでも。

 何か手掛かりはないかとバンを調べようとして、眉を寄せる。明らかに弾痕と分かる傷が、あちこちについていた。よく見ればフロントやリアウィンドウも割れ、シートにも血と思しき染みが広がっている。

(何者なんだ、この子供……)

 とにかく放っておけば死ぬのは目に見えているので、その身体を余った毛布にくるんで後部座席に乗せた。バンは処置に困ったが、とりあえず脇の茂みの中に突っ込ませて道を開け、車をスタートさせた。

 山道を抜け、県道に入る。なぜかやたらと検問が敷かれていて冷や冷やしたが、片っ端から脇道に突っ込んで何とかすり抜けた。この時ほどGPSに感謝したことはない。検問のせいで少し時間を食って、横浜に戻ったのはもう日が暮れた後だった。

 出迎えた茂木は、後部座席の少年に目を丸くした。

「おい、死体じゃなかったのか」

「別人だ。まだ生きてる。医者に診せなきゃならんから、連絡しといてくれ」

「闇医者のジイさんか?」

「ああ」

 本人の寿命の方が気になるご老体だが、こんな面倒そうな患者を診せるのに普通の病院へ転がり込むわけにもいかない。立河は再び車を走らせて、闇医者の神崎(かんざき)が居を構える雑居ビルへと向かった。

 神崎は、面倒臭そうな顔で立河たちを出迎えた。立河に事情を説明させ、一通り少年の容態を診て、傷の処置を済ませると顔をしかめる。

「また面倒そうな坊主を拾って来たもんだ。こりゃ間違いなく銃の傷だぞ」

「そんなことは分かってる。俺だって銃工だ」

「ほ、そうじゃったな。しかしこの坊主、おまえさんが見つけるまで、ろくに止血もしてなかったらしいぞ。ずいぶん出血してるようだが、まあ体力はありそうだから何とか()つじゃろ」

 その言葉に、ほっと胸を撫で下ろした。しかし皮肉な巡り合わせだ。少年を射殺した自分が、同じように銃で撃たれた少年を救うとは。

「まあとりあえず、これ以上できることは何もない。坊主のことは置いておいて、おまえさんのその右手もどうにかせんとな」

「ああ……」

 右手の傷は、穴を掘ったりしたせいでひどく痛み出していた。ざっと診て、神崎が唸る。

「こりゃあ、細かい作業は当分無理だぞ。銃工はしばらく休業だな」

「……いや、もう銃工は辞めようかと思ってる」

 神崎が器用に片眉を上げた。

「懺悔かい」

「……いや、それもあるが、もう銃を扱う気が起きなくなっちまったんだ。もう前と同じようには打ち込めんさ。それくらいならいっそ、すっぱり辞めちまうのも手かと思ってな」

「ふん……まあいいさ、診断書くらいは書いてやる」

 神崎が鼻を鳴らした。つまり、立河が銃工としてはもう再起不能だという噂を流すのに、一役買ってくれるということだ。思わず笑みが浮かんだ。

「世話になったな、ジイさんにも」

「そう思うんなら治療費は弾めよ」

 相変わらずの物言いだ。立河は苦笑するに止めて立ち上がる。

「色々準備もあるからな。また来る」

 そう言って歩き出そうとした時だった。

「……ん」

 呻くような声をあげて、少年が身じろぎしたのだ。

「気がついたかい。大したもんだ。目が覚めるような状態じゃないはずなんだが」

 半分くらい本気で感心しているような声音で、神崎が声をかけた。少年はゆっくりと視線を巡らせる。

「……僕は、生きて……?」

「危うく死にかけとったが、何とか生きとるよ。ほれ、そこにいる奴が命の恩人だ」

 神崎の言葉に、少年が立河を見た。そこには奇妙に、疲れたような色があった。何かを、諦めたような。

 それだけで、立河はこの少年が望んでいたものを悟ってしまった。

「……ど、して……」

 掠れた声で、少年は絞り出すように言葉を紡いだ。

「……どうして、僕を助けたんですか……?」

 立河は、わずかに肩をすくめた。

「……気紛れだ」

 そう言うと、立河は振り返らずに部屋を出た。

 少年の声は、追いかけてこなかった。




 自宅兼店舗である雑居ビルに戻ると、立河はテレビを点けた。検問の多さが気になったのだ。あちこちチャンネルを回した挙句、映し出されたニュースでは、ちょうど速報が流れているところだった。

【行方不明の子供たち、無事保護】

【児童誘拐に、宗教法人関与か】

 表示されたテロップに目が引かれた。キャスターがニュースを読み上げる。新興宗教法人の信者を名乗る少年が、行方不明だった子供たちを連れて警察署に出頭したという。聞いている内に、次々に疑問が解けていくのを、立河は感じた。少年が重傷を負ったまま姿を消したというところまで聞くに至って、確信する。

 自分が拾った、あの少年だ。

(それで、あの怪我か)

 そしてそれだけ思い切った真似をしたということは、あの少年は死をも覚悟していたのだろう。いや、むしろそれを望んでいたはずだ。だから、助かったことに落胆した。

 そこまで考えて、立河はやり切れない気分になった。

(……冗談じゃない)

 自分が撃った少年のことが、頭をよぎる。おそらくは死にたくなどなかったはずだ。それに引き替え、助かったのに生きたがらないあの少年。

 自分が言えた義理ではないが、不条理だ。

 立河は、テレビを消して立ち上がった。

 再び車に乗り込み、キーを捻る。今朝――というにはあまりに前のように思えるが、辿った道をもう一度、あの山に向かった。途中、大きめのスーパーでビニールシートとロックアイスを買い込み、山道に車を乗り入れた。

 あのバンは、変わらずそこにあった。人通りのなさが幸いしたのだろう、見つかった様子はない。立河はとりあえず自分の車を奥に停めておいて、バンの運転席のドアを開けた。キーはついたままだ。座席にビニールシートを敷き、ハンドルを握ってバンを県道に出す。数十メートルほど進むとUターンして一旦停め、他の車が通る気配がないのを確かめると、ハンドルをわずかに斜めに調整した。前方には緩いカーブ。ガードレールの向こうは崖だ。

 立河はバンを降り、アクセルの上に穴を開けたロックアイスの袋を押し込んだ。ずれないことを確認し、シートを回収してギアを入れ、サイドブレーキを解除した。

 バンはアクセルを全開にし、徐々にスピードを上げて県道をやや斜めにそれ、緩いカーブに突っ込んだ。衝突音。ガードレールを突き破る。金属がこすれ合い、ねじれる凄まじい音がしたかと思うと、次の瞬間バンは崖下に消えていた。大きな水音は、しかし波の音にほとんどが紛れた。

 壊れたガードレールの切れ間から見下ろすと、沈んでいくバンの後部がちらりと見えた。

 立河は息をついて、その場を離れた。おそらくこれで警察も、あの少年の生存の可能性は低いと見るだろう。ロックアイスは溶けて消えるし、座席に痕跡も残していないはずだ。指紋や袋は水に洗われて消える。トリックがばれる可能性は低い。何より、都合のいい解釈が目の前に転がっていれば、人はついそちらに目を奪われてしまうものだ――つまり、少年は海に落ちて死んだ、と。

 自分でも、何がしたいのかはっきりとは分からなかった。ただ、あの少年をこのまま死なせるわけにはいかないと、半ば意地のようなものを感じていた。

 再び横浜に戻ったのは夜半だった。かなりハードな一日だったが、不思議と疲れは覚えていない。多分翌日辺りにどっと反動が来るだろうと自嘲気味に思いながら、立河は自宅に戻った。机の引き出しに突っ込んでいた品々を、一つ一つ並べ始める。

 あの襲撃してきた少年の遺品だった。血痕やマットレスはともかく、これはすぐに処分する気になれずに、とりあえず置いておいたのだ。

 それらを眺めながら、立河の頭にある考えが組み上がりつつあった。




 五日ほどで、仕事の方はあらかた片がついた。茂木や神崎が噂をばら撒いてくれたらしく、銃の注文はぱったりなくなった。数丁ほど預かっていたものは同業の知り合いのところに回してある。向こうも客が増えて困るということはないだろう。

 立河は、この街を出て東京へ行くつもりだった。東京のどこか片隅で人波に紛れ、小さなコーヒーショップでも開いてひっそりと暮らせたらいい。危険と隣り合わせの生活を楽しめる年齢はとうに過ぎていたのだと、今さらながらに悟った。

 ただ一つ、やり残したことを片付けるために、立河は神崎のもとへ向かった。

 絶対安静を言いつけられて療養中の少年は、相変わらず感情をどこかに置き忘れたようなぼんやりした様子で、無言のまま立河を迎えた。

「近い内に、俺は東京に移る」

「……そうですか」

 事務的に、少年が返す。立河を見ることもなく、ただ機械的に答えただけのような感じだ。ため息をついて、立河は用意していた一言を投げた。

「おまえも来るか」

 少年が立河を見た。初めての、感情の混じった視線。ただそれは、困惑のそれだったが。

「……どうしてですか」

「このまま置いてったら、その内野良犬みたいにふらふら出てって、誰もいないところで死にそうだ」

「その、つもりです」

 天井を見上げて、少年はかけられた毛布を握り締める。

「……父さんが、いないのに……僕だけ生きてたって、何もないのに。――なんにもいらない。教団も、僕も、なんにもいらない……」

「父親の後でも追う気か」

「そうしたかったのに……あなたが、助けた」

「そりゃ悪かったな」

 肩をすくめて、立河は少年を見下ろす。ひどく弱った、子供の顔をしていた。

「で、その父親があの世から、こっちへ来いって手招きしてるのか? だったら、無理に止めはしないがな」

 その言葉に、少年は思いがけない鋭さで立河を見た。立河が見返すと、少年の顔がくしゃりと歪む。

「……そうなら、良かった」

 そんな人じゃないから。そう呟いて、少年は枕に顔を埋めた。

 立河は手近な椅子を一つ拝借し、ベッドの傍に陣取る。長丁場になりそうだった。

「……ほんとの父さんじゃなかったんです。あそこに来る子供は、捨てられたり、買われたりした子供ばかりだったから。僕も、そうだった」

 不意に、少年が細い声で話し始める。立河に話しているというより、自分を振り返った独白のようだった。

「変わった人なんです。僕に戦い方を仕込みながら、こんなことさせたくないんだけどな、って苦笑いしてました。――でも僕は、どれだけ血に濡れても、父さんと一緒にいたかった。だからずっと、戦ってきたのに」

 小さな子供のように、ぎゅっと身体を丸めて、彼は何かに耐えるように唇を引き結ぶ。やがて漏れた声は震えていた。

「……僕の親にならなかったら、父さんだって死なずに済んだ……!」

 ごめんなさい、と繰り返し呟く声。僕が迷ったから、と切れ切れに吐き出して、彼は堰を切ったように嗚咽と涙をこぼした。立河はただそれを見やる。何かアクションを起こすには、あまりに少年を知らなさすぎた。

 しばらく泣いた後、少年はのろのろと顔を上げた。

「……どうして、僕を助けたんですか」

 責めるような響きはなかった。ただ純粋に疑問をぶつけているような声音に、立河も正直に答えた。

「さあな。とりあえず、生きてたから助けた。――で、今は少しばかり腹が立ってる」

 きょとんとする少年に、疲れたため息が漏れた。

「銃を持って俺を殺しに来た相手を、返り討ちにした。おまえと同じくらいの子供だ。死にたくもなかっただろうに死んじまった。――その死体を埋めに行って、血塗れで転がってるおまえを見つけて拾ってきた。が、当の本人はさっさと死ぬつもりと来たもんだ。おまえ、人生なめてんのか」

 八つ当たりに近い言い分であることは自覚していたが、今さら撤回はできなかった。この気持ちから、今まで動いてきたのだ。

「死んだ父親が助けたなんて陳腐なことは言わん。けどな、生きられる奴が勝手に死ぬのは腹が立つ。だからとりあえず生きとけ」

「無茶苦茶だ……」

 少年が呻いた。確かに無茶な言い分だろう。

 だが、その後彼が発した言葉は、立河の予想を望ましい方向に裏切った。

「……大体、生きてくにしても僕、戸籍も何もないんですよ。本名だって、とうの昔に忘れたし」

「それなんだがな」

 立河はポケットからあの少年の持ち物を引っ張り出した。≪トダ イツキ≫の名前が入ったカードや、携帯電話。

 あの少年――≪戸田斎≫について、茂木に色々調べてもらった。親が事業に失敗し、借金を背負って悲観の挙句、一家心中しようとしたらしい。だが彼だけは死ぬのが怖くなって逃げ出し、この街にやってきた。そして松嶋組に入れてやる代わりにと、立河の襲撃を持ちかけられたそうだ。つまり、彼には家族がいない。

 目の前に並べて置かれたそれらの意味するところを、少年はすぐに悟ったようだった。

「……この名前を乗っ取れってことですか?」

「身代わり、って言うと気分が悪いか? だが話としちゃ悪くないはずだ。借金は親の死亡保険金で何とか相殺できてるそうだから、金銭的な負担はないな。――それに、今までのおまえはもう死んだことになってるはずだ。車と一緒に海に落ちてな」

 彼の生存の可能性は低いと、ニュースで報じているのを見たばかりだ。上手くごまかしきれたらしい。

「実を言うと、入れ替わってくれれば俺も助かる。実在してる人間の死体を捜そうとする奴はいないだろうからな」

 少年は立河を見、そして手を伸ばした。カードに書かれた名前を、しげしげと見つめる。

 彼を≪戸田斎≫の代わりにするつもりはなかった。だがこの国では、戸籍があった方が自由が利くのだ。幸い年齢は近いし、遠く離れた土地に移れば露見する可能性も低いだろう。あの少年には悪いと思わないでもないが、せめて目の前の彼にわずかでも未来への糸を繋いでやりたかった。

「……いつ、ここを発つんですか」

 少年の問いに、立河は少し考え、

「仕事の方はもう片がついた。家は、放っときゃその内誰かが住み着くだろうし、発とうと思えばすぐにでも発てるな」

 それを聞いて、少年が身体を起こそうとした。さすがに慌てて止める。

「おい、傷に障るぞ」

「平気です。どうせ、痛みなんかないし。――小さい頃、母親に殴られてばっかりいて、神経がどっか飛んじゃったみたいで。痛覚が、ないんです」

 あっさりと言われた言葉が、かえって重かった。立河が絶句している間に、少年は何とか身体を起こして、ベッドから降りようとしていた。支えてやると、力は弱いものの確かに腕を掴んできた。

「考えさせて、ください。さっきの話。――まだ、空っぽみたいな感じだから。どうするかって、すぐには決められないけど、でも」

「ああ、分かった。別に元んとこに捨てに行きやしないから」

「……捨て犬ですか、僕は」

「似たようなもんだろう」

 そう言うと、少年は初めて、表情を緩めた。そうですね、と呟いて腕を下ろした。

 彼を残したまま、立河は神崎のところへ顔を出した。少年の容態について訊くためだ。神崎はベッドの方をちらりと見て、声を低めた。

「……本当に、あいつを連れて行く気か?」

「拾っちまったからな。しばらくは、面倒見るつもりだが」

「見きれるか?――どうも、かなりのトラウマを抱えとるみたいだぞ。寝てる間も、よくうなされてる。鍛えてる割に怪我の治りが遅いのも、その辺に原因があるかもしれんな」

「動かせそうか?」

「五日でそこまで治るもんか。せめて倍は待て。骨に異常がないのが救いだが、下手に動かせば傷が開くぞ」

「ずいぶん入れ込むじゃないか。患者によっちゃ縫いっ放しで放り出すジイさんが」

 すると、神崎は肩をすくめた。

「どうも、世話を焼きたくなる手合いなんだよ、あの坊主は」

 確かに、放っておけない危なっかしさがある。それが弱っているせいなのか、生来のものなのかは分からないが。

 ……捨て犬、とは言いえて妙かもしれない。それも、保護欲をくすぐる子犬だ。

(なら、俺は飼い主か?)

 行き着いた考えがあまりにしっくり来て、立河は思わず乾いた笑みを浮かべた。




 その後、とりあえず抜糸だけは済ませて、立河は少年――≪戸田斎≫を連れて街を出た。といってもすぐに東京に行くというわけにはいかなかった。療養がてら熱海の光子の家に転がり込んだところ、彼女が二人をなかなか手放そうとせず、結果として三年ほど世話になってしまったのだ。いきなり見知らぬ少年を連れて転がり込んできた弟に驚くのもそこそこに、連れてきた斎の容姿の端整さに大喜びしていた姉は大物なのだろうと、今さらながらに思う。

 もっとも、その勢いのまま斎を養子にすると言い出した時はさすがに驚いた。万一戸籍のからくりがばれた際には、光子にまで影響が及びかねないと思って諌めたのだが、立河よりはまだ自分の方が養子縁組には都合がいいからと押し切られてしまった。確かに、彼を養子にすることを考えていないわけではなかったし、立河より光子の方が社会的な信用もあろう。こうして光子がさっさと手続きを済ませてしまった結果、彼は≪天瀬斎≫となった。立河とは、戸籍上叔父と甥になったわけだ。

 そして裏社会から足を洗った後、立河は前々から考えていたプランを実行に移すことにした。

「――コーヒーショップ?」

「ああ、前から考えてはいたんだ。銃工を引退したら店でもやるかってな」

 趣味を生かした、コーヒー専門の喫茶店。薄々とは考えていたプランが一気に現実味を帯びてきて、立河は嬉々として斎に自分の構想を語る。幸い、そこそこの蓄えはあった。裏社会というのは、とかく法外な金額が行き来する場所なのだ。

「東京の方で、物件も探してるんだ。ここなんか、三階が住居スペースになってて、いいと思わないか? まあ店舗部分が二階から地下一階までってのは多すぎだが、それはテナントにでもして……」

 斎は立河の話をじっと聞いていたが、やがて思い切ったように口を開いた。

「あのさ、叔父さん。その内の一階、予約しといていいかな。僕も、やってみたいことがあるんだ」

「やってみたいこと?」

「うん。――銃工」

 斎の言葉に、立河は唖然とした。

「斎、おまえ……」

「あ、ちゃんと許可証取って、公認受けるよ? でもさ、叔父さん、言ってたよね。裏社会から完全に抜けるのは難しいって。だから、保険」

「保険?」

「僕、今まで銃とかナイフとか、そういうものしか扱ってこなくて、もうそれを持ってる方が自然なくらいに、身体がそれに慣れちゃってるから。どうせ離れられないんなら、いっそのことそれを仕事にしちゃおうかって。――それなら、いつでも戦えるから、叔父さんを守れる」

 思いがけない言葉だった。

「裏社会時代の関係とかで、もし危なくなったらさ。――父さんのこと、守れなかったけど……せめて、叔父さんだけは」

 途中で声は掠れて消えたが、唇は確かに動いた。

 まもらせて。

 ……泣き出しそうな顔で言われて、却下できるはずもない。子犬のつぶらな瞳に負けた父親の気分で、立河はため息をついた。そういえば昔、そんな感じのCMを見たような気がすると思いながら。

「……分かった」

 斎がぱっと顔を上げた。その表情が綻ぶ。

 “父親”には敵わないまでも、家族にはなれたと感じるのはこんな時だ。面映い心持ちになった。それをごまかすように、付け加える。

「ただし、銃の資格取得は二十歳以上だ。そこまで言うんなら、それまでちゃんと勉強して試験受かれよ?」

 ――もちろんこの時、立河は何の気なしに言ったのだ。


 数年後、彼が実技試験で満点を叩き出すことなど知る由もなく。



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