Prologue
※この作品には流血・暴力表現及びアンダーグラウンドな表現が点在します。
苦手な方はお読みにならないことをお勧めします。
また、銃器や犯罪を推奨するものでもありません。あしからずご了承ください。
ここに来てから、どれだけの時間が経ったのだろうか。
膝に顔を埋めて、ため息をついた。拘束はされていないが、逃げ出せる状態でもない。
カーテンが閉まった窓が一つだけの、殺風景なプレハブの部屋。そこに、自分を含めて四人の子供がいた。そして、見張りのようにドアの傍に椅子を置いて座っている、面をつけた人間が一人。足を組み、黒い金属の塊――オートマチックの拳銃を、手持ち無沙汰に弄んでいる。オペラ座の怪人みたいなのっぺりした面をいつもつけていて、素顔を見たことはないが、今まで自分たちに危害を加える様子はなかった。
下校途中にいきなり三人の男に誘拐され、ここに連れて来られた。それからずっと、ここに閉じ込められている。ドアに鍵がかかっているわけでも、窓に鉄格子がはまっているわけでもないが、銃を持った見張りの存在は簡単にその代わりを務めていた。逃げられない。唯一チャンスに思えるトイレに立つ時は、別の人間が一人呼ばれ、目隠しをされて連れて行かれた。
自分がここに来た時は、他に五人の子供がいた。三人が出て行き、一人が新しく入って来て、現在は四人。見たところ自分が一番年上で、他は大体小学校低学年くらい。一人、小学校にも上がっていなさそうな男の子がいた。
「交替するぞ」
ドアが開いて、やはり面をつけた、大柄な男(だろう、声からして)が入って来た。一番小さな男の子が、泣き出しそうな顔になってしがみついてくる。最初に怒鳴りつけられて以来、子供たちはこの男を怖がっていた。言動も粗暴な感じの男なのだ。
男は虫の居所が悪いらしく、前任者が立った後の椅子にどかりと腰かけた。
「おい、そこのガキ。こっちへ来い」
指差されて、最年少の五歳くらいの男の子がびくりとする。ためらうと、間髪入れず怒声が飛んできた。
「来いっつってんだろうが!」
「やめてよ! 怖がってるじゃない!」
思わず、声が出ていた。はっとした時には、男がこちらを向いていた。
「……刃向かうガキには、お仕置きだなぁ」
ねっとりした声で、男は言った。立ち上がり、こちらが逃げる間もなく、頬を張られた。
「自分の立場が分かってねえようだな。刃向かうようなら、多少痛めつけてもいいって言われてんだ」
倒れ込んだところで腹を蹴られた。痛みに、思わず身体を丸めて目を閉じる。子供たちが泣き出すのがかすかに聞こえた。
――ガゥン。
轟音に、室内の音が消えた。恐る恐る目を開けると、大柄な男が右足を押さえ、うずくまって獣のように呻き声をあげている。それを見下ろすのは、今まで見張りをしていた人物だった。その手には、薄く硝煙を上げる銃が握られていた。
「……ペインレス・ドッグ……てめえ……!」
半身を起こした男に向け、仮面の人物はためらいなく引鉄を引いた。左肩を抉られ、わめきながら男は転げ回る。その鳩尾を蹴って黙らせると、仮面の人物は手を差し伸べてきた。
「立てる?」
思っていたより若そうな声だった。自分より、少し年上くらい。大人の男の人、といった感じではなかった。手を借りて立ち上がると、彼が服の埃を払ってくれた。
「ついて来て。ここから出るんだ」
彼の言葉に、一瞬唖然とした。出る? ここから?
だが彼は、さっさと行動を起こしていた。ドアを開け、周囲を見回して子供たちを手招いた。
「おいで。今なら人がいない」
半信半疑ながら、従った。何となく、彼が本気で自分たちを助けようとしているのが分かった。他の子供たちも、それが分かるのだろう、怖がるでもなくついて来る。さっき、暴行してきた男を倒したのも効いているのだろう。
プレハブが建つのは、どこか大きな施設の外れのようだった。少し離れたところに大きな建物があったのは、窓から外を覗いて分かっている。そういえば、この人には何をしても怒られた記憶がないと、ぼんやりと思い当たった。大柄な男の方は、自分たちが窓に近付くだけで怒ったのだが。
彼に連れられて、建物の方に近付いていく。彼の目当ては、建物の裏口に停まっている車だった。生活物資を運んで来たのか、バンの車体には社名らしき文字が書いてある。
彼は近付いて行き、運転席に誰もいないのを確かめて、自ら運転席に座った。運転手はすぐ戻るつもりなのだろう、キーがつけっ放しになっている。彼らにとっては好都合だった。
「さ、乗るんだ」
助手席のロックを解除してもらい、車に乗り込んだ。小さい子供たちは、後部座席へ。最後に助手席へ落ち着いたこちらへ、彼は顔を向けた。といっても、仮面のままなので少々不気味だ。
「ああ、もうこれはいいや」
気づいたらしく、彼は仮面を外した。
驚いた。
テレビのアイドルタレント顔負けの、整った顔立ちだった。どう見ても、高校生くらいの少年。少し細められた目が優しそうだ。間違っても銃をぶっ放し、車を強奪するような人間には見えない。
「ベルトして。気づかれる前に出る」
振り向くと、裏口から運転手らしき中年男が出て来るところだった。イグニッションキーを回して、エンジンがかかると、その音にようやく気づいたのか、中年男が慌てて駆け寄って来る。
だが、遅い。
サイドブレーキを解除、ギアはドライブ。少年がアクセルを思い切り踏み抜いた。バンはもの凄い勢いで飛び出し、建物の間を縫うように走って行く。少年はちらりとミラーを見やり、ドアポケットに突っ込んでいた拳銃を取り出した。
「みんな、頭抱えて伏せて。気づかれた」
その瞬間、銃声と共に左のサイドミラーが吹っ飛んだ。舌打ちした少年が、左腕だけで大きくハンドルを切る。前方に、大きな門が見えてきた。
「あ、あれ……!」
その門には、見覚えがあった。以前、何かのテレビ番組で見た覚えがある。振り返ると、目に飛び込んできた大きな建物も記憶にある。
「≪青銀天聖教団≫……?」
ここ数年で急速に規模を拡大させた、新興宗教法人。名前だけは知っているが、関わりなどまったくない。信じられない思いで呟くと、少年はあっさり肯定した。
「そう。みんなは、家族にテロを手伝わせるための人質として誘拐されたんだ」
片棒担いで言う台詞じゃないけどね、と苦笑し、少年はウィンドウを下ろす。銃を握った右腕を一杯に伸ばした。トリガーを引き絞り、同時にクラクションを盛大に鳴らす。
出入りの確認をしようとした係員が、足下への着弾に泡を食って飛びのいた。その鼻先を、暴走車は駆け抜けていく。
教団施設を出ると、登山道のような人気のない道が伸びている。バンが疾走するそのすぐ右後方に、黒のカルディナが喰らいついてきた。
カルディナの窓から、銃口が火を噴いた。
ボディに着弾し、がんがんと音をたてる。フロントガラスの右端に、蜘蛛の巣のようなヒビがさっと走った。少年が銃のグリップで、視界を妨げるフロントを叩き壊す。その拍子に、少年の右腕が血に染まっているのを見てしまった。
「――怪我、」
「うん、ドジ踏んじゃった。そこそこ深いね」
とんでもないことをあっさりと言う彼に、痛がる様子はない。
「……痛く、ないの?」
「うん、昔からね、ちょっと痛覚神経おかしいらしくて。――君こそ、怖くない?」
「なにが?」
「色々。誘拐されたり、銃で撃たれたり」
「だって――助けてくれるんでしょ? あなたが」
そう言うと、少年は面食らったような顔でこちらを見た。ややあって、破顔する。
「初めて言われた。そんなこと」
緩い下り坂、直線。少年は、銃から空になったマガジンを抜き、ズボンに挟んだ新しいマガジンを取り出して入れ替え、スライドを引いた。数秒の早業。そして血塗れの右腕を窓の外に伸ばす。銃を持ったまま。
「じゃあ、期待に応えなきゃね。しっかり掴まってて」
大きなカーブ。ハンドルを右に切りながら窓から身を乗り出し、曲がりきるまでの数秒ほどで全弾を撃ち込んだ。吐き出された残弾すべてが、カルディナのフロントやボンネットを襲う。
カルディナがコントロールを失い、道路脇のガードレールに突っ込んで行った。
「……終わったよ」
そう言われて、やっと頭を上げた。少年はのろのろと、銃をドアポケットに落とし込む。
そっと少年を見上げると、彼の顔色は蒼白になり、脂汗が浮かんでいた。右腕からの出血は止まっていない。それどころか、よく見ると右の胸の辺りにも、血が広がっていた。身を乗り出した時に撃たれたのだろう。こんな状態で、しかも運転しながらの射撃で追手を仕留めたのだ。
「大丈夫? 顔色、真っ青だよ?」
「そう?――でも、もうちょっとだから」
何が? そう訊こうとして、巡らせた視線の先に答えを見つけた。
警察署。
「……心配しないで。みんなは、ちゃんと家に帰すから」
警察署前のロータリーに、ぼろぼろになったバンが滑り込んだ。ブレーキを踏み、少年は気が抜けたようにハンドルに突っ伏す。クラクションが派手に鳴り響き、玄関に立っていた警官が駆けて来るのが見えた。
「しっかりして! ねえ、大丈夫?」
どうしていいか分からなくて、とりあえず少年の背中をさする。見当違いとは思っても、そうせずにはいられなかった。
「……大丈夫、痛くないから」
「そうじゃなくて!」
「どうしたんだ、大丈夫か? 何があった?」
事故車のような有様に、警官が驚いて矢継ぎ早に尋ねてくる。少年は顔を上げると、わずかに笑みを浮かべた。
「……すいません、この子たちを保護してもらえますか? 誘拐されて……逃げて、来たんです。僕は≪青銀天聖教団≫の者です」
「逃げて来た?――とにかく、君たちは降りなさい。彼も、病院へ――」
「うん」
助手席から降りて、後部座席の子供たちを下ろすのを手伝う。そして、運転席のドアに手をかけた。ようやく上体を起こした少年と、目が合った。目を細めて、彼は言った。
「……さよなら、だよ」
エンジンは、かかったままだった。
後部座席のドアを開け放したまま、バンは飛び出した。あっという間にロータリーを出て、見えなくなってしまう。呆然とそれを見送っていた警官と子供たちの中で、自分一人だけが、弾かれたように駆け出していた。道路に出た時にはもう、バンの姿はどこにもなかった。
――さよなら。もう会えない。
膝の力が抜けて、そこに座り込んだ。
いつの間にか泣いていることも、気づかなかった。
信号無視とスピード違反の連続で、どれだけ走っただろうか。
いつしか辿り着いていた人気のない山道で、少年はバンを乗り捨てた。エンジンを切ると、とたんに襲ってくるのは静寂。遠くからかすかに潮騒の音が聞こえるのは、海が近いからだろう。
バンを降りると、ふとドアポケットの銃のことを思い出した。そしてついでに、全弾を使い切ったことも思い出す。
「……一発くらい、残しときゃよかった」
苦笑して、ふらりとその場を離れた。頭がくらくらする。血を流しすぎたらしい。
ついに目が回って、倒れ込んだ。何とか仰向けになると、空を見上げる。
静かだ。
痛みはない。物心ついた時から、この身体に痛覚はなかった。いつからか≪痛がらない犬≫と呼ばれ、銃弾が飛び交う世界に身を晒してきた。
だがそれも、もう終わる。
ふと、さっきの少女のことを思い出した。痛みなど感じない自分の背中をさすってくれた、あたたかい手。昔、同じことをしてくれた人がいた。
(……もうすぐ、いくよ)
頭が重い。急激に視野が狭くなった。このまま引き込まれてしまおう。
そっと目を閉じた。
遠くからかすかに、エンジンの音が聞こえた気がしたが、すぐにどうでもよくなった。
二〇XX年、七月。神奈川と山梨の県境に近い山中に本部を置く≪青銀天聖教団≫に、強制捜査のメスが入った。
きっかけは、相次いだ子供たちの誘拐事件だった。中央官庁や金融機関、空港、JR中央司令室などに勤める職員の子供を誘拐し、その命と引き換えに職場に爆弾を仕掛けるよう要求したのだ。警察に通報すれば子供の命はないと脅されたものの、要求に従えばテロの片棒を担ぎ、最悪多くの死者を出すことになる。刻々と迫るタイムリミットに、被害者たちは苦渋の選択を強いられていた。
しかしその状況を、一つの事件が打破した。教団の裏側に属する少年が、子供たちを連れて警察署に出頭してきたのだ。彼は誘拐の事実を告げ、教団の関与を仄めかした。子供を取り戻した家族も口を開き始め、異例ともいえる早期の強制捜査へと繋がった。
逮捕者三十六人に上ったこの事件で、≪青銀天聖教団≫は事実上崩壊した。教祖以下幹部は軒並み逮捕され、追い討ちをかけるように、違法薬物の密造や銃の密輸なども明るみに出たことで、教団の裏の顔を知らなかった一般信者も雪崩を打つように退団した。
強制捜査の足掛かりを作った少年については、子供たちを警察署に送り届けたその足で姿を消し、すぐに敷かれた検問も彼を捉えることはできなかった。その後、目撃情報を総合して辿り着いた人通りの少ない海岸の崖下で、逃走に使われたと思しきバンを発見。バンはフロントの半分が損傷、海底に突っ込んだような状態で発見され、車内に運転手の姿はなかった。しかしシートには多量の血痕が見つかり、保護された子供たちの証言や現場の状況から、捜査本部は少年が運転を誤って転落、もしくは自殺し、遺体は海に流されたものとの見解に達した。
少年には戸籍がなく、ただ≪ペインレス・ドッグ≫という通称だけが、警察内部の資料に残った。
以後、彼の情報は公表されていない。




