親に反発して家を出て行った子供が社会で経験を積んでそれで親が自分を生んでくれたこととか育ててくれたことに感謝するようになるみたいな話が創作の中じゃありふれてるけど、そんな上手い話、実際にはそうそうない
親に反発して家を出て行った子供が社会で経験を積んでそれで親が自分を生んでくれたこととか育ててくれたことに感謝するようになるみたいな話が創作の中じゃありふれてるけど、そんな上手い話、実際にはそうそうないからね?
確かにそういう風に感じるようになる人もいるかもしれないけど、世間話的にはそんなことを口にする人もいるかもだけど、本当に本心からそんなことを思ってる人がどれほどいるのやら。
世の中がそんな物分りのいい人ばっかりだったら、もっと生きやすいと思うんだけど?
だって、人間が生きられるのは、
『親のおかげ』
だけじゃないからね?
反発せずにいられないような親にさえ恩を感じて感謝できるようになるんなら、親以外に対しても素直に感謝できるはずだし、なにより、他所様を罵ったり嘲ったりもできないはずだけど?
でも実際にはそうじゃない。日常的に他人を罵ったり嘲ったりしてる人は当たり前みたいにいる。そんな人がどうして本心から親の恩に感謝できるって言うんだろうね?
口先だけなら何とでも言えるよ? 実際、口先だけで調子のいいことをいってるんでしょ? 本心じゃそんなこと思ってもないのに、
<いい人って印象を他人に抱かせるようなこと>
を口にしたりしてるんでしょ? 内心では舌を出しつつさ。
ねえ? そんな人が親への感謝を言葉にして発してて、本当に信じられる? 本心からのものだって思える?
いくらそうやって体裁を取り繕ってても、ちょっとしたことでボロが出るんじゃないの?
親が、子供みたいに手が掛かるようになってきたりしたらさ。
高齢者施設で働いてる人とも知り合いだけど、その人も言ってるよ。
「施設に入れた親のことをちゃんと気にしてる人って、一割もいないんじゃないかなあ」
ってさ。それが実際に高齢者施設で高齢者と接しながら子供との関係を見てた人の実感だって。
世間体を気にして面会に来たりはするけど、親のことを案じてる気遣ってるって態度は見せるけど、あくまでそういうポーズにしか見えないってさ。
表情や態度が伴ってないんだよ。高齢者の表情や態度からその時の気分や体調を察することを心掛けてる<職員としての目>で見ると、口先だけなのが透けて見えてきてしまって。
それでも、取り敢えず体裁だけでも保とうとしてるのはまだ救いがあるって。中には本当に、
<現代の姥捨て山>
として高齢者施設を利用してるってのが明らかに感じられる<子供>もいるって言ってたりするんだよね。




