その場その場で調子のいいことを言って、ウケることを言って、それでいわゆる<信者>を集めてる人のことをバカにしてたりするじゃん。適当なことを言ってそれで信者にだけチヤホヤされている人のことをバカにして
その場その場で調子のいいことを言って、ウケることを言って、それでいわゆる<信者>を集めてる人のことをバカにしてたりするじゃん。適当なことを言ってそれで信者にだけチヤホヤされている人のことをバカにしてたりするじゃん。
それって、そういうのを『狡い』と思うからじゃないの? その場限りの適当なことを言ってそれでたくさんの番組に出て出演料をもらったりしてるのを『狡い』と感じてるからじゃないの?
他の誰かが狡いことをして利益を得てたら怒るのに、憤るのに、自分も<狡いこと>をして利を得たいと考えるんだ?
それはまた随分とご立派な考え方だねえ。
別に、どういう考え方をして、どういう価値観を持って生きていようと、それ自体は私にとってはどうでもいいけど、そんなことしてて反発されないって考えたりするのはムシが良すぎるんじゃないかなあ。
誰かを一方的に攻撃する時だって、
『原因を作った方が悪い!』
とか言って、自分のしてることを正当化しようとするじゃん。だったら、反発されるのだって、『原因を作った方が悪い!』ってことにならないとおかしいじゃん。
自分は誰かを攻撃する時には『原因を作った方が悪い!』って言うクセに、自分が反発されたり批判されたり責められたりする時には、『原因を作った方が悪い!』とは考えないんだ?
いやはや、清々しいまでのダブルスタンダード。
びっくりだね。
私は、自分の子供達に反発されたり批判されたり責められたりしたら、その原因を作ったのは自分だっていうことは認めなきゃおかしいと思ってる。まずはそれを認めるのが大事だってね。
『何が原因か?』ということをまず認めた上でなきゃ、適切な対処なんてできるはずないでしょ?
『子供が言うことを聞いてくれない!』
とか泣き言を並べる親は多いけど、そりゃ<原因>に目をつぶって見ないふりしてなかったことにしてその場しのぎなことをしようとしたって、上手くいくわけないじゃん。
地盤がゆるゆるなところに立派な建物を建てようとしてそれで傾いちゃったりした時に、< 地盤がゆるゆるという原因>をそのままにしてそれで上辺だけ綺麗に整えようとしたって元の木阿弥になるだけだって、分かるんじゃないの?
『なぜ上手くいかないのか?』
ってのを、自分以外の誰かの所為にしてるだけじゃダメだってこれまでも散々言われてきたじゃん。どうしてそれを認めようとしないの?
『自分だけは悪くない』
『自分だけは間違ってない』
『自分だけは失敗しない』
『自分のすることは常に正しい』
そんな風に考えてる人が何をやらかしているのか、実例なんてそれこそ腐るほどあるじゃん。
なんでそれを見ようとしないの? 学ぼうとしないの? 『考えてる』って言うんだったらさあ。




