改めて言うけど、<急迫不正の侵害行為>から自分や自分の大切な人を守るためには力を振るう必要があるのは、私だって決して否定しないよ。だけど、<感情のもつれ>は別に急迫不正の侵害行為ってわけじゃないじゃん
改めて言うけど、<急迫不正の侵害行為>から自分や自分の大切な人を守るためには力を振るう必要があるのは、私だって決して否定しないよ。だけど、<感情のもつれ>は別に急迫不正の侵害行為ってわけじゃないじゃん。
カーッて頭に血が上ってそれで暴力に走ったりすることがあっても、<暴力>については確かに<急迫不正の侵害行為>ではあっても、<感情のもつれ>そのものが直接、命の危険をもたらすわけじゃないでしょ? あくまで、
<命の危険をもたらす行為に至る原因>
にはなり得てもね。
ましてや、自分が直接被害を受けたわけじゃないのなら、<反撃>ってわけでもないじゃん。なのにどうして、
<自分が気に入らない相手を攻撃する行為>
を正当化できると思うの?
『批判』はいい。『意見を述べる』のも禁じられるべきじゃないと思う。でもね、だったら言葉を選ばなきゃおかしいでしょ。ましてや相手を痛めつけてダメージを与えるのが目的にやる行為は、
<攻撃>
以外のなんだって言うの?
『批判』や『意見を述べる』という行為は、別に相手を痛めつけてダメージを与えるのを目的にすることじゃないよ?
問題点を指摘することで結果として相手がダメージを負う場合もあったりはするとしても、相手を傷付けたりダメージを負わせるのを目的にしちゃったらそれこそ本末転倒でしょうが。
批判したり意見を述べたりっていうのは、好ましくない状況について是正を促すためにすることじゃないの? それが本来の目的じゃないの? 気に入らない相手を痛めつけてダメージを与えるのを目的にしてちゃ意味がないでしょうが。
そこになんの正当性があるっての? 相手を痛めつけてダメージを与えるためにするのは、れっきとした、
<侵害行為>
だよ?
私はそれを子供達に分かってもらわなきゃいけないと思ってる。子供達に対して、
『どうして感情のままに相手を罵っちゃいけないのか?』
というのを言葉として説明できるように、ちゃんと考えなきゃいけないと思ってる。自分の勝手で子供達をこの世に送り出した張本人として。そして、子供達に範を示すべき<大人>として。
『それを考えることもしないで何が大人だよ』
って思う。
そうやって範を示す努力もしないで、
『今時の若い奴は』
とか、
『今時の子供は』
とか、何言ってんの?としか思わない。
ちゃんと手本を示さないで相手が自分にとって都合よく振る舞ってくれると考えること自体がもう根本的に筋違いってもんだと思うよ?
<手本を示そうとしない大人>
がどれほどいるのかをまず考えてみるべきだと私は思ってる。




