別にお願いしたわけでもないのに勝手にこんな世界に送り出されて、その上で『生んでやった』だの『育ててやった』だのいい気がするはずないでしょうが。ましてや大していい条件の下に生まれたんじゃなければね
別にお願いしたわけでもないのに勝手にこんな世界に送り出されて、その上で『生んでやった』だの『育ててやった』だのいい気がするはずないでしょうが。ましてや大していい条件の下に生まれたんじゃなければね。
しかもうちの長男も長女も、人間社会で生きる上においては大変なハンデを背負ってるしね。ハンデを背負うことになる可能性が高いのを十分に分かってて私は生んだんだからさ。
それで『生んでやった』とか『育ててやった』とか、意味分かんないっての。
しかも、そんな風にして生まれた瞬間から、『生んでやった』『育ててやった』っていう<恩の押し売り>をされて生きてきて、それでどんなことを学ぶと思う?
『愛してやってるんだから感謝しろ』
とか、
『友達になってやったんだから感謝しろ』
とか、
『支援してやったんだから感謝しろ』
とか、自分の一方的な行為に対して恩を感じてもらえて当然っていう考え方になっちゃったりするんじゃないの?
『愛してやってるんだから感謝しろ』なんてのはストーカーの理屈だし、『友達になってやったんだから感謝しろ』なんてのは<友達>って言葉を盾にして相手をいいように利用しようとしてる人の理屈だし、『支援してやったんだから感謝しろ』なんてのは<要らないもの><貰って困るもの>を送りつけておいて感謝してもらおうと思っている人の理屈じゃん。
特に最後のは、災害支援ととかでもよく聞く話だし、日常生活とかでも、義両親辺りから古着とか家族が食べないものを一方的に送ってこられたりしたのに感謝しなければ不義理みたいに言われるって形でよくあることだよね? そういうのに困ってたりするんでしょ?
自分が勝手にやったことに対して『感謝してもらえて当然』という発想はどこから来るのか、考えてみたりすることはないの?
私は散々考えてきたし、自分が親になって子供と接してみて、『ああ、なるほど!』と腑に落ちたっての。
私が勝手にやった行為に対して子供達に感謝を強要したら、子供達もそれを当たり前と考えるようになるだろうなってさ。
私はそういうのは嫌なんだよ。
恩の押し売りは嫌なんだ。自分が恩を押し売りされるのが嫌だから、誰かに対しても恩を押し売りするのはしたくない。
たとえそれが自分の子供相手であってもね。
そうするとさ、結局、子供達も学びようがないんだよ。<恩を押し売りする感覚>ってのを。
加えて、私の子供達は精神的に余裕があるから、自分の意志で進んで何かをした時にも、それに対して見返りを求める必要がないんだよね。




