『平気で嘘を吐く。約束を反故にする。嘘を吐いても約束を破っても、それを反省もしない』とか、『人に優しくと言いながら、何か気に入らない事があると平気で他者を傷付ける』とか、『現に自分がやってることを認め
もう一度言うけど、
『平気で嘘を吐く。約束を反故にする。嘘を吐いても約束を破っても、それを反省もしない』
とか、
『人に優しくと言いながら、何か気に入らない事があると平気で他者を傷付ける』
とか、
『現に自分がやってることを認めようとしない』
ってのは、<悪辣な狡さ>だよね。
親や身近な大人がそういう<悪辣な狡さ>を子供の前で見せておきながら、
『他の人間がやってるのを真似た』
とか言って責任をなすりつけようとするのはそれこそ<悪辣な狡さ>じゃん。
しかも親や身近な大人がそういう自分自身を省みるという姿勢を示さないから、子供だって自分自身を省みるという姿勢を学ぶことができない。
ものすごく分かりやすい話だと思うんだけどね。
ここまで噛み砕いて説明してもまだ分からないのかな。
と言うか、『分かりたくない』ってことなんだろうけどさ。
自分に非があることを、原因があることを、認めたくないんでしょ? 他でもない自分の親や身近な大人達が認めてこなかったことだからね。
自分の親が身近な大人達が認めてこなかったそういうのを自分の代になって認めるのは嫌なんでしょ?
『なんで自分だけが!?』
って思うんでしょ?
でもそれって、他でもあることだよね。
例えば、パワハラとかセクハラとか、かつては問題とされてこなかったことを今になって問題視されるなんておかしいと考えてる人らと同じ感覚じゃないの? それって。
パラダイムシフトっていうのはいずれ必要になるんだからさ。『意識のアップデートが必要』だとか言ってる人らはそれこそ率先して意識をアップデートしていくべきだと思うけど?
<ものすごく狡い国>とかあるじゃん? あれ、なんでそんな風に狡くなっちゃったんだろうね? それって結局、<狡い人こそが得をする社会>なのをちゃんと改めようとせず、是認してきたからじゃないの?
何しろ、
『親や目上の人間は四の五の言わずにとにかく敬え』
とかいう考え方だったりするよね。その<親>や<目上の人間>がおよそ尊敬できないような人間であっても、親や目上の人間というだけで敬われるべきって考え方じゃん。
つまり、何の努力もしなくても、まともな人間であろうとしなくても、親や目上の人間というだけで敬っててもらえるようになるんだよ?
狡くない?
どんなロクデナシでも、親や目上の人間だってだけで敬ってもらえるようになれるの。
びっくりだよね。
まあそれでも、日本じゃ<謙遜>という概念があるから、
『自分は本当に敬ってもらえるような人間なのだろうか?』
と自分自身を省みるという感覚もあったりするから、まだマシなのかもしれないけどね。
もしそういう感覚を失ったら、うん、考えるだに恐ろしいね。




